2009年04月02日

発掘が語る上嘉鉄遺跡 V

 上嘉鉄集落の起こりは縄文晩期の頃(2300〜3000年前)には、小字名でマチィチャ・ウックダ・ウフドゥンムの付近一帯の構造改善偉業の際、大型土木機械で表土を掘り起こしたら、大量の土器・石器の破片が出土して関係者を驚かせました。

 一時工事を中止する騒ぎにまで発展したが、どのゆな経緯があったか、はっきりしないが工事は続行された。

 出土した遺物を数名の興味関心のある方々が採集し保管してあったものを当時の熊本大学の白木原教授が鑑定して「ハンタ遺跡調査報告」にまとめてあります。以来付近一帯を上嘉鉄遺跡と称しています。

 それに因ると上嘉鉄遺跡は縄文晩期の遺跡であることが判明している。しかし専門家による本格的発掘調査ではないので遺構(住まい跡)は発掘されていない。

 又遺物も主なものだけに限られているが大まかなことは判明している。

 上の図は、上嘉鉄遺跡出土の白木原教授の命名によるクガニイシです。方言では、「メーシ」という。

 クガニイシの使用方法は、上辺を両手で押さえ込み、その下にあまり固くない作業対象物(豆・麦等)を置いて前後左右に転がして対象物を押し砕くのに用いた、後世の碾臼(ひきうす)の前身と思われる。
西島 常吉
  【クガニイシ】

090402_kuganiisi01.jpg




         平成16年4月「上嘉鉄魂」第71号 掲載

posted by hathitu at 12:03| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月01日

喜界馬のこと 

 馬の仔が駆ける広場や金久原(はにくばる)

 馬飼うも一家の力蕃蔗(はんすう)植う

 ハイとドウ手綱一本の馬耕かな


 友岡 藤市郎氏の「句集憧憬喜界島」にある歌です。喜界馬が昔は上嘉鉄にもたくさん飼育されていたことを裏付ける歌です。

 馬に関する俳句が3句も出てきます。それだけ馬の思い出が心に残っているのでしょう。

 友岡氏は鹿児島県の農業普及員をされていた方で農業の専門家、私の尊敬する大先輩です。農業大学校など指導する立場にあった方です。もちろんシマの上嘉鉄の出身です。

 1句目は、上嘉鉄の県道沿いには、草競馬みたいなことをやっていたのでしょうか。先輩方からそんなことを聞いたことがあります。

 2句目は、馬がいかに一家の機動力があったのかが分かる俳句。ハンスウ(サツマイモ)をたくさん植えて、馬の飼料にするのです。

 我が家のお袋も、ハンスウ(サツマイモ)を煮たのと、自家製の味噌を混ぜてよく愛馬にやっていました。

 バケツにハンスウと味噌、そしてそれに水をまぜ、与えると一気に飲み干したものです。よほど美味しいのでしょう。草だけでなく味噌に含まれる塩分も一日中働いた体にはとても美味しいのでしょうね。

 3句目は、馬に対する掛け声が出てきます。

 「ハイとドウ」、馬を制御する時の馬言葉。幼い頃よく親父が使っていたことを思い出します。

「ハイ」は、「前へ進め」という意味です。シマの方言では「フォイ」

 「どぅ」は、「止まれ」という意味。

 参考までに

■ 右=ウッ

■ 左=キュジュイ(キュディ)

■ 後ろに下がれ=シジョ(シドゥ)

 親父やお袋が生きていたころに、詳しくきいていたらもっといい記事が書けたのにと思うことです。

 「親孝行したいときに、親はなし」、「親に聞きたいときに親はなし」です。

 親のありがたさは、親がいなくなってから分かるものですかね。

 「句集 憧憬喜界島」に関する記事はこちら
↓    ↓    ↓

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/114512226.html

喜界島出身の4氏が詠んだ力作です。

得田 武市、石原 百合子、得田 洋子、友岡藤市郎の4氏です。

 出版社は 博文社 定価1800円の本です。読みたい方は、お買い求めください。

 ナッカサンドウ!


 
posted by hathitu at 21:29| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

尚徳王の喜界島平定(1466)

 『しまぬゆ 1 1609年 奄美・琉球侵略』を読むと

島の歴史にくわしくなりますよ。P91に琉球の尚徳王が喜界島を攻めたときのことが詳しく書かれています。

 尚徳王には兄二人がいたらしい。その兄たちを差し置いて三男の尚徳が王位を継いだのは21歳のときだそうです。


 兄二人は、謀反人、護佐丸の娘の子であったため、敬遠され王位にはつけなかったらしい。

 尚徳王は、1441年の生まれ、喜界島に攻めたのが21歳の若さです。

王位継承に疑問をもつものもいるなか、その者たちに自分の実力を見せつけてやるために尚徳自ら、喜界島平定(1466)に出掛けています。

 船50余艇、2000あまりの兵を乗せて喜界島に向かったそうです。

 喜界島の攻防は、『中山世譜』に詳しく書かれています。

 2月25日  那覇港を出発

 2月28日  喜界島至



 当時の船で3日間かかったことになります。

 喜界島の抵抗は激しかったらしい。矢石飛ぶこと雨の如く一歩も進むころができなかった。尚徳王は大いに怒り軍兵を励まし攻撃させたが、多数の死傷者を出したと書かれています。 


 尚徳王は、3月5日、奇襲作戦にでます。島の背後にまわるように炬火(きょか)を手に持たせて、軍を分けるように見せかけた。

 喜界島の兵士は、あわてて島の背後にまわったらしい。その隙を見て尚徳王の軍勢は、一気に上陸し、火を放って家を焼き、気勢をあげたらしい。

   


ラベル:尚徳王
posted by hathitu at 05:46| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月12日

キカイジマ・キカイガジマについて U

・吾妻鏡(1188年3月5日)

 宇都宮信房、先月の頃、鎮西より書状を進ず、貴賀井島へ渡ることを申し上げた。去年、例の島の形勢を窺った結果、海路の次第これを絵図にして献上した。

 かの島へ渡ることは、難儀との諸人の話によって思いとどまっていたが。この絵図をご覧になって後、あながち人力を披露させる程でもないとのことで、再び追補を企てた云々。

 信房はこの大功によって賞を加えられた。

・吾妻鏡(1188年5月17日)

 遠島の一族家臣が、貴賀井島に渡り合戦を遂げ、かの島を降伏させたとの連絡があった。その功績によって信房に勲功を施す云々とあります。

・源頼朝下文「鎌倉遺文」(1192年)

 宇都宮信房に地頭を命じた文書

前地頭の貞種は、この度貴賀島に渡らず、又奥州追討の時も参会しなかった。この両度の過失によって、その職を停止し、代わって信房をその任に補する。
 
南界記


      平成17年6月「上嘉鉄魂」第85号 掲載

ラベル:吾妻鏡 貴賀島
posted by hathitu at 05:54| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

キカイジマ・キカイガジマについて T

 (3月5日のシンポジュウムから)

 キカイジマ・キカイガジマについて古代・中世の文献には、その語呂から判断して喜界島よ想定される記録がかなり散見される。

 その中には現在の喜界島の事とは到底考えられない内容もかなりあり、戸惑うばかりである。

 古代・中世の京都人のキカイジマ感はどんな意味を持っていたか検証してみよう。文献に現れるキカイジマと想定されるのには

・日本記略(998年9月14日の条)南蛮賊徒(奄美人の海賊)追討を「貴駕島・きがじま」に命令した。これがキカイジマと想定され、キカイジマ記事の初見である。

※ この事件は前年奄美海賊が九州西側と南部(鹿児島・熊本・福岡)を襲撃し・略奪・放火・拉致した事件で通常南蛮襲撃事件と言い、小右記・日本記略に詳細に記録されている。

 ここでは略します。




・新猿楽記(11世紀半ば)の記事

 八郎真人は、商人の親方で商売の利益ばかり追求して妻子のことを顧みず自分ばかりを大切にし他人のことを考えない。

 必要とあれば東の浮因の地(東北・北海道)西は、「貴駕之島・キガノシマ」にも渡り、交易品売買品は、数え切れない。以下略。

・吾妻鏡(1187年9月22日)

 鎌倉時代の歴史書(1180年〜1267年)源頼朝は蔵人の職員信房に対して天野遠景と共に貴海島を追討せよとの厳命を与えて鎮西へ下向させた。

 昔からこの島に向かって帆船で渡航したものはない。しかし平家政権時代、薩摩の国の住人、阿多忠景が乱暴を働き政府に攻められて貴海島に逃亡した。これらの追討を筑後の守家貞に命じた。

 家貞は軍備を整え数度に渡り渡航したが遂に風波を凌げず、空しく帰ってきた云々。

 今度は源義経配下の一行が彼の島に隠れているとの噂があって追討を命じたのである。

                              南界記


平成17年6月「上嘉鉄魂」第85号 掲載


posted by hathitu at 17:00| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月04日

埋蔵文化が語る上嘉鉄遺跡 U

otu isi090303.JPG


 上の図は、「埋蔵文化が語る上嘉鉄遺跡」で紹介した前島国秋氏が提供した石器で、「凹石・くぼみいし」と言います。

 食料加工用具、大きさは大小さまざまだが大体こぶし大より大きく堅い石が用いられる。

 形は扁球形、隅丸長方形で磨製石器が多く中央に浅い「くぼみ」がある。敲石や石棒とのセットで使用される。(喜界町民俗資料室保管展示)

 堅菓類や穀物を打ち割り、粉砕する台石との説がある。喜界島では最近まで宝貝などを割る台石に使用していた。

 また、凹石は火をおこす道具、火鑚杵(ひきりきね)の上端を押さえた道具とした説もあるが、喜界島では、専門家による火起こしに使用した形跡は見当たらないという。




otuisi090303d.JPG
 


上の図は、上嘉鉄遺跡出土の「敲き石・たたきいし」別名石槌とも言う。食料加工用具です。(所在不明)

 手に握ってハンマーとして使用した石器、形、大きさ、さまざまあり、凹石、石皿などのセットで用いられる。

 石斧が使用不可能となったものの転用もある。形は握りやすい棒状。扁平球状が多い。後世の杵の前身です。(ハンタ遺跡調査報告書)

                 西島 常吉



平成15年10月 「上嘉鉄魂」第65号 掲載 



posted by hathitu at 04:31| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

喜界島凶徒聚衆事件 4




 この事件及び裁判判決に対し疑問をもったのが、大島区裁判所勤務の検事、岡程良検事です。(岡検事は、龍郷町出身)

 岡検事の直接の上司である検事正は岡検事には何らの連絡もなく、つとめて岡検事には秘密にしたので、岡検事はこれに不信を持ち、密かにこれを調査した結果、この事件は謀略により仕組まれたものであることをつきとめた。

 直ちに鹿児島地方裁判所の有罪判決を不当として大審院長崎控訴院(現在の最高裁判所にあたる)に上訴したのです。

 これがこの判決書です。

第一 ●●以下十三名は 犯罪をおこした証拠充分でないから訴えられる理由はない。

第二 ●●以下一三一名は田中圭三の釈放を嘆願する目的で天神山に集合したが、巡査の説得を受け(一時間以内に帰宅しなさい)ウドゥンヌハナーに場所を移し、圭三の釈放嘆願と圭三の罪はいずれに当たるか、

 また、訴えた人は誰かをはっきりすれば帰宅する覚悟であり、最初から暴動を起こす意志はなかった。

 然し派出所において巡査を脅迫したのは集会の目的外で偶然の出来事だから凶徒聚衆
(暴動を起こす目的で大勢集合すること)にはならない。

 よって罰するような罪はない。

第三 時円 外十二名は巡査の説得を拒否し派出所に乱入し巡査を脅迫して田中を釈放せざるを得ないようにしたのは、もともと令状なく不適法に逮捕拘留したのだから釈放すべきものを釈放したに過ぎないから罰するべき罪なし。

第四 ●●と●●の二名は、派出所の障子及び戸を破壊したのは有罪と認める。



 以上が判決文ですが、判決文に氏名が連なっているのは島内で一五四名という喜界島最大の事件に島民の精神的不安を考えるとき、巡査の不法逮捕により(令状によらない逮捕)島民の精神的打撃は大きい。

 以来島民は民事事件にしろ、刑事事件にしろ裁判で決着をつける事をなるべく避ける風潮ができたと思われる。


 それにしても、不可解なのは第一に一巡査が令状なくして不当逮捕が当時はしてもよかったのであろうか。

 第二に、不当逮捕→起訴→裁判→有罪ますます理解に苦しむ(現在は現行犯以外は令状が必要)

 第三に当時の司法制度では逮捕令状発権者は、誰かの命令で逮捕したであろうけれども、誰の命に従ったのか謎だ。後日の研究に待つ。   
完 西島


平成12年5月 「上嘉鉄魂」第24号 掲載


ラベル:田中圭三 岡程良
posted by hathitu at 06:02| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月21日

喜界島凶徒聚衆事件 B

(別名田中事件)


 前回に引き続き6月25日の事件を起こした当日の状況を長崎軽罪裁判所の判決記録を基に詳細に記述しよう。

 当日、早々集合した有志同盟の代表達は、思案の結果、今までの農民の生活困窮を理由とする派出所の温情にすがって田中の一時釈放を一方的に嘆願しても、田中の釈放は考えられないとの結論に達し、順序として、次の戦術変換をしています。

 前号でも記しましたが念のため再録します。

1 押収した契約書が偽造であるか否か確認する。

2 田中を告訴したのは誰かをはっきりさせる。

3 田中の逮捕拘留は何か、何の罪にあたるか。

 以上3点を内容とする嘆願書に代表5人の連署して巡査派出所に提出した。派出所の回答は「3点共に応じない」

 「田中の釈放もしない」さらに「集会人民は直ちに帰宅させなさい」との返事。
その事を代表者達は天神山に集合している人民に伝えた。

 途方にくれた代表者及び人民達は押すことも引くことも出来ず思案しているところへ、12時頃派出所巡査2名天神山の全体が集合しているところへ来て次の事を指示する。

「田中は犯罪があるから釈放できない。又多人数集合するのは善くないことだから、今から1時間以内に帰宅せよ」

と説得され大半は帰宅する気分になっていたが、代表者の一人が
「もう一度交渉しよう。皆さんはウドンヌハナーで待機していなさい。決して派出所に来てはいけない。何が起こるか計り知れないし、巡査の心証を害してもいけないから」

とのことで全員それに同意しウドンヌハナーに移動した。


 代表者達は、派出所と再交渉したが派出所の回答は、

「田中は犯罪の事実があるので釈放はできない」

の一点張りで話し合いに応じない。代表者達は思案の挙げ句、告訴人を知らないことには全員を納得させることはできないとの判断から、次のような内容の嘆願書を派出所に提出した。

1 田中は何の罪なのか、又告訴人は誰か。

2 田中と契約した同盟規約には疑惑との噂があるが疑惑になることは何もない。正当なものだ。

 もし疑問に思うところがあれば私たちも一緒に双方共に取り調べてほしい。旨の嘆願書を提出した。

 これに対する派出所はなんら回答しないから、代表者たちは粘り強く要求する。回答しなければ人民を納得させることは出来ないと交渉を続行する。

 派出所巡査は

「指示を与えれば全員帰宅するとの文を記しなさい」

とのことで又嘆願書を書き直し、指示通りの文を書き添えて派出所に提出した。が派出所では犯罪の種類、告訴人について何ら回答をしないばかりか、

 反対に派出所は

「人民が帰宅に応じないのはお前達に帰宅させる誠意がないからだ。誠意をもってあたれ、それでも帰宅に応じない者があれば、そのものの氏名を書いて提出せよ」

 その時すでに、しびれを切らした人民達は(ウドンヌハナーで数時間待たされている)派出所門前にきていた。

 代表者達は、派出所付近から立ち去るよう説得したが大衆は納得せず、仕方なく氏名を書いて提出しようとしたら衆人は、

「そんなもの必要ない、各人の顔面が証拠だ。また代表者は役に立たない。全員で直願する」

とののしり騒ぎ手がつけられない。その時衆人数名が全員に
「皆来い」と呼び、それに応じた大衆は派出所門前に押しかけ、

「田中を出せ」「告訴人は誰か」「そのうちのいずれか一つでも回答せよ」

と各々叫び騒然としているうちに、派出所の返事は

「田中は釈放できない。告訴人はいない」

と応答し大衆を鎮めようと苦心している最中、大衆の一人が大声で

「圭三を出せ、告訴人を出せ」

と言ったのを派出所小使い●●がこれを聞きとがめ大声を発した本人の襟首を掴み派出所内へ引きずりこもうとしたので立腹した大衆は、

「打て打て、進め進め」

とののしり騒ぎが大きくなった。その内に投石あり、派出所ないに乱入し障子等を損壊した。

 もはや派出所では大衆を鎮めることができず、ついに午後5時田中を釈放した。然し、これで一件落着とはならない。

 数日後、名瀬より検事が数十名の武装警官を引率して極秘に湾港を避けて、志戸桶の沖名泊に上陸、関係した主な島民数十名が逮捕、大島支庁予審裁判で全員有罪を言い渡された。

 以下次号へ
(文責 西島)


平成12年4月「上嘉鉄魂」第23号 掲載
posted by hathitu at 04:22| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月20日

瓦漏(とうろう)について(前号の続き)



 ところが文化4年(1807年)になって、島民の暮らしがとても苦しくなり、白糖製造は馴れない仕事で農民が困っているので、大島3000斤・喜・徳1500斤ずつ形6000斤、上納するようにとの令がおりました。

 このことによっても白糖製法がどんなに困難な仕事であったかを推測することができます。

 また、松浦豊敏氏は「海流と潟」の中で、瓦漏の現存について

「よくぞ無疪のままで残されていたというのが実感である。享和の白糖はまごうことなく覆土瓦漏法による白糖であった。

 また、かつての白糖の製造は大まかには喜界島の東南側に限られていたのではないか」

と述べております。

 生田常吉氏の瓦漏確認で、ますますそのことが確実になってきました。生田氏によると
「きわめて上質の黒糖がとれる先祖代々の畑が存在している」

と語ってくださいました。

 早町小学校保管の瓦漏は、昭和46年10月1日付けで町の有形文化財に指定されました。松浦氏が指摘するように喜界島の東南部にあたる志戸桶から阿伝、上嘉鉄を経て荒木に至る一帯は

「ハテージ」の畑作地帯で藩政期には喜界島有数の黒糖生産地域で「その品位南島中、喜界をもって最とす」

と記録されており、戦前良質の黒糖を生産していたのもこの畑作一帯であった。

 このことから早町・阿伝・上嘉鉄校区からは、すでに瓦漏が確認されており、きっと残された志戸桶・荒木の両校区にも現存しているものと思われます。

 両校区民の手によって早くその存在を確認しウヤフジ(祖先)の汗と涙の宝物として末永く残してほしいものであります。

 瓦漏は、焼き物のため戦禍を免れ、その後生田家の方々が大事に保管したのが何よりの幸いでありました。

 瓦漏は、喜界島の他、徳之島にも現存し、喜界島代官記の記述を実証しております。

(しつる村物語  盛山 末吉)


平成12年5月「上嘉鉄魂」第24号 掲載

【関連記事はこちら】

瓦漏(とうろう)について


ラベル:瓦漏 早町小学校
posted by hathitu at 05:22| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

喜界島凶徒聚衆事件A



 前回は事件の背景を主に書きましたが、ご理解いただけたでしょうか。

結論は南島興産商社は奄美の黒糖生産者が商法に無知なのに付け込み、

ア 高い利息で金を貸し付け

イ 黒糖の価格は、安く青田買いし、

ウ 高い日用品を売る付ける

 などの悪質な方法で一度借金をすると生涯借金地獄から抜け出られない状態に追い込んだのです。

 一方の阿部商会は、正式な商取引により、委託販売の形を取り、更に田中は「南島興産は喜界島の永久支配をねらっている

 団結してまず借金の返済策を講じよう。その間の砂糖の委託販売は阿部商会が引き受ける」

といい(砂糖の歴史より)借金地獄で打ちひしがれている島民の感情に火をつけた。

 それにより田中のもとには、瞬く間に多数の島民が結集し、そこで阿部商会と南島興産との熾烈な商売競争が繰り広げられます。

 以下は、長崎軽罪裁判所の判決所より抜粋します。

1 明治21年、田中圭三は鹿児島商人等に負債ある人民143名と「有志同盟」と称する同盟を結び次のような契約をしています。

ア 負債償還方法

イ 砂糖販売方法(買い取りではなく委託販売)

ウ 明治21年及び22年産の砂糖は、田中を通して阿部組へ委託販売する。

エ 田中の手を経て日用品の供給を受ける事等の取り決めをした。

2 明治22年6月5日、田中圭三は取り引き決算の最中、突然、喜界島巡査派出所に拘留逮捕された。

 困ったのは取り引き計算がまだ済んでいない島民達です。代表数名で協議した結果、次のようなことを決めた。


ア 田中より砂糖代金が受け取れず生活困窮におちいっている。

イ 日用品が受け取れず生活困窮などを理由に

ウ 6月20日まで田中を一時釈放して欲しい嘆願書を派出所に提出すること数回に及ぶが警察は6月25日まで釈放しないで留置した。

エ 田中の逮捕は、南島興産の社員●●氏の告訴によるとの飛語があり、島民の心情は穏やかではなかった。

3 6月21日 田中の一時釈放が実現しないため「有志同盟」代表数名が協議した結果、最初は6月23日を予定していたが連絡不十分のため24日に変更している。

「有志同盟」全員が湾の天神山(近くに警察署があり)に集合して、大衆の願望で田中の釈放を願えば、警察署も民衆の生活苦に同情して、田中の一時釈放を許可してくださるだろうとの甘い考えで集会を決定し、数名で手分けして全戸に参加するよう連絡した。

4 6月24日

 当日湾の天神山に集合した島民は3〜400名に及び、代表者の発意により、次の書類を派出所に提出した。

ア 田中圭三を拘留したため人民の生活困難の現状を記して、一時田中を釈放して欲しい旨の嘆願書を提出した。

イ 「有志人民」が天神山に集合する許可届書。

 それに対して派出所の対応は
「治罪係巡査●●が不在だから今日は対応できない。明日願いを取り上げるから代表者だけ出頭しなさい」

とのことで書類を受理させ、一応全員その日は帰宅した。

5 6月25日(この日が事件を起こした日)

 昨日同様、天神山に集合した人民は数百名に及ぶ。有志人民代表は田中の釈放嘆願書を提出する前に次の要求をしました。

ア 派出所が前に田中宅より押収した有志同盟と田中と結んだ契約書の引き渡しを請求した。(田中拘留の理由は契約書偽造の疑いがあったからとの飛語があった)

イ 田中を告訴した人は誰であるか(南島興社の某社員との飛語があった)

ウ 田中を逮捕拘留した理由は何か(何の罪か)

 以上3点を派出所に請求した。
                   以下次号へ (西島)


平成12年3月「上嘉鉄魂」第22号 掲載

【関連記事はこちら】

喜界島凶徒聚衆事件@
 
posted by hathitu at 04:38| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月15日

喜界の身代糖は2000斤から

 「奄美大島における家人(ヤンチュ)の研究」金久好氏によると、

身代糖のことが書かれています。

 家人の財物性ーその売買について

の項の中で、次のように書かれています。

 私の調査した旧記及口碑によれば大島本島に於ける身代糖は、普通健康体で1500斤、女が1400斤、一番高いのが2000斤だった。

 唯与路島のみは二千斤から三千斤だった。

 喜界島は、
「其強壮ノ男女ハ身代糖二千斤より二千四五百斤又ハ五六百斤を通例」とし、徳之島は「男女共身代糖三千斤ヨリ四、五千斤」で、沖永良部は「男女共米九石十石」だった。

 100斤が60kgですから、1斤は600gになります。
2000斤は、

   2000×600g=1200000g

   1200kgになります。黒糖の1200kgですよ。これを一生の間に返すことができるはずがありません。




 喜界島では家人(ヤンチュ)のことをヌダーと言ったりしますが、一度もの家人に身を落としてしまうと、一生その身分からぬけだせなかったのだと思われます。

 家人は1609年(薩摩侵攻)の薩摩藩の治政以前から略奪という形で存在していた。

 しかもシマ社会内部に豪族が出現し、貧富の差の拡大という階級文化もあり、のち薩摩藩の「黒糖地獄」といわれる砂糖収奪によってさらにヤンチュ階層が拡大、深刻化していったのではなかろうかという。

 と述べているのは、奄美の郷土史家の故大山麟五郎さん。

 「奄美の債務奴隷 ヤンチュ」名越 護著にもこの身代糖のことが出てきます。

 冬の製糖作業も終わった時点で砂糖の収量は400斤しかなかった。仕方なく、Aさんは近くの豪農Bさんに相談して不足分の200斤を年3割の利息で借りて、ようやく上納した。

 台風常襲地帯のこと、翌年も大型台風が来て黍は不良、上納不足分は150斤で同様にBさんから借りて上納した。

 さらにその翌年も・・・と借財はふえるばかり、いつの間にか利息を含めた借財は1500斤を超えてしまった。

 もう豪農のBさんのヤンチュに転落するしか道はない。Bさんは、藩庁に届けて「売買証文」を書き、Bさんのヤンチュ暮らしが始まった。そうして妻も数年して同じ道をたどったー。

とあります。黍つくりが台風に悩まされ思うように作れなかった時代もあったのです。

 薩摩侵攻400年にあたって、今一度、祖先の暮らし、生き様を振り返ってみりるのもいいのかなと記事にしました。

 関連記事はこちら

■颱風(暴風)

 次の関連記事には、砂糖消費税のことが書かれています。

■税務事件について・・・西島常吉

  この本に詳しく家人のことが書かれています。定価2000円の本です。参考にされてください。





ラベル:身代糖
posted by hathitu at 11:52| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

税務事件について・・・西島常吉

 上嘉鉄で大正末〜昭和初期の頃(はっきりした資料がなく正確な年月日不明)税務事件と称する事件が発生しています。

 事件の真相については現在生存している古老(現85才の方の小学3〜4年の頃という)の記憶を手探りで調査しました。

 事件は東集落を中心に上嘉鉄全集落に及び、多数の集落民が逮捕され有罪の判決を受けています。

 この事件は明治34年に制定された法律第13号違反によるものです。法律第13号の必要箇所を要約抜粋します。

 法律第13号  砂糖消費税法

第1条 内地消費の目的を以て製造場より引き取られる砂糖には本法により消費税を課す。

第2条 消費税の割合次の如し
  
第1種 砂糖色オランダ標本第8号未満の砂糖は百斤に付き、金1円(奄美、沖縄の砂糖はこの1種に相当する)

第6条 砂糖消費税納付前に製造場より、砂糖を持ち出すことを禁ずる。

第8条 砂糖を製造するものは、政府に申告することまた製造を廃止するときも同じ。

第9条 砂糖を製造する者は、帳簿を備え砂糖の出入りを詳細明瞭に記載すること。

第12条 第6条及び第7条の禁令を犯した者は、消費税の5倍に相当する罰金に処す。
但し50円を下ることはない。

第14条 砂糖を製造する者は、砂糖の製造、出し入れに関し帳簿の記載又は事実を偽りまた怠るときは3円以上30円以下の罰金に処す。

第15条 税官がその職務を執行するに当たり、その執行を拒み、忌避(避ける)支障を加えたる者は3円以上30円以下の罰金に処する。

※ 条文を読む限り大変厳しい法律だ。政府の砂糖消費税による税制アップの姿勢が伺える。
 当時の砂糖相場は、明治37年大阪相場で百斤あたり5円16銭、糖商が大島で買い取り価格が2円95銭(沖縄県資料より)島民の売り値も安いが、税金の1円は高すぎる。

 百斤にたいする1円の消費税は、条文を見る限り自家用にも適用される。農家は自分が生産した砂糖を自分勝手に消費することは許されない。

 必ず消費税を納付しなければ、砂糖小屋から自宅へ持ち込めない。

 当時日本は不景気のまっただ中にあり、特に奄美は「そてつ地獄」と言われる程、農家は「疲弊困憊」していた時代。

 農家は自分が生産した砂糖を1円の税金を支払って食する不都合に憤りを感じたろう。何とかして1年間の自家用砂糖に税金を払わないで確保したい。

 その気持ち、良く理解できる。そこで自宅の押し入れや床下、高倉、藪の中等に砂糖を隠匿したと思う。

 隠匿した砂糖を摘発するのが税務署員の税官吏の仕事、その税官吏は不意打ちに私服で来島し家宅捜査をし、違反者を摘発して第12条の罰則を適用するのです。

 連帯共同意識の強い上嘉鉄住民は税官吏が家宅捜査を始めたと知るや口コミやラッパ、ブラー等で連絡を取り合い、摘発されない方法を考えた。

 当日も某氏がラッパで合図し多人数集め、公務執行妨害らしいことをしたと思われる。その事は法律第15条に違反している行為に当たります。

 当時の住民は法律第15条のような厳しい法律がある事も知らず、ラッパで合図したと思う。

 第9条にある砂糖製造農家は、砂糖に関する帳簿を備え砂糖の出入りを詳細明瞭に記載することが義務づけられている。

 その仕事をするのは当時の農民には無理があり、税務署では各集落に「砂糖移出代理人」を(方言でイシツツキヤーという)任命して砂糖の出し入れや全ての事務を請け負わせ砂糖移出証明を発行させた。

 上嘉鉄集落の「砂糖移出代理人」は当初美代清美氏→邦枝武満氏→福岡永彦氏→生田常吉氏でした。
(文責 西島)


平成12年6月 「上嘉鉄魂」第25号 掲載

  関連記事はこちら
ウラミサヤ税務事件・・・前島啓二



posted by hathitu at 04:59| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

埋蔵文化が語る上嘉鉄遺跡・・・石斧

 昭和60年、上嘉鉄の小字名でマチィチャ、ウフドゥンム、ネーマ、ウックダ一帯の土地改良工事の際、大量の石器・土器などが出土して関係者を驚かせた。その一帯を現在は上嘉鉄遺跡と称しています。

 上東の前島国秋氏(故人)が当時拾った石斧(せきふ)があります。

 前島氏は、町教育委員会に寄付し、現在は町民族資料室(旧公民館2階)に保管展示してあります。

 上嘉鉄遺跡は熊本大学の白木原教授によると縄文晩期(2300〜3000)の遺跡と鑑定され、同遺跡から沢山の遺物が出土しています。

 本紙でその都度紹介いたします。

 石斧=斧の形をした石器で工作具、農耕具として旧石器時から出現しているが日本では旧石器・縄文・弥生時代に使用されています。

 本町では発掘される石斧は殆どが凝灰岩製で丁寧に研磨されて鋭利なものが多い。この石斧は南西諸島北部に多い。

 長さ20センチ以上に及ぶ芴形の石斧と推定される。(ハンタ遺跡調査報告による)


平成15年8月「上嘉鉄魂」第63号 掲載

遺跡関係のサイトです





ラベル:上嘉鉄遺跡 石斧
posted by hathitu at 09:15| Comment(2) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

奄美人のルーツU

 まとめ

 ・日本人には太古の縄文人とその後渡来した弥生人に大別され、弥生人には
北部九州・山口タイプ(山口・福岡・島根)
西北九州タイプ(長崎・佐賀・熊本)
南九州・南西諸島(琉球列島)タイプ(鹿児島・沖縄)がある。

・奄美の縄文・弥生人は「低・広顔・低身長」(丸顔か正方形に近く、身長が低い)が中世人になると「高・狭顔・高身長」(面長顔で身長が高い)になっている。

 その頃人間の移動があったのでは?と予想される。最近の考古学発掘の結果、多数の中世遺跡が台地の上に発掘されたのと一致する。

 その付近に原因があるような気がする。もっと研究する必要があり、私たち祖先のルーツが明らかになる日も間近だろう。その日が楽しみだ。

・沖縄・奄美の縄文人は本州・四国・九州・北海道の縄文人と同系列に属し、弥生人とは質が違う。

・南九州(鹿児島)・南西諸島(奄美・沖縄)タイプは西北九州タイプ(長崎県・佐賀県・熊本県)の弥生人をもっと顕著にした特徴「低・広顔」で渡来人の可能性があり、縄文人とは連続しない。

・中国、山東省及び青海省の文物考古学研究との共同研究の結果、青銅器時代〜前漢時代 の人骨は九州・山口の弥生時代人骨と酷似しており、少数ではあるが山東省の人骨の中 に南西諸島の弥生人とは似たものもあった。

・中国黄河の上流に均質な集団があり、中流、下流、(山東省)になると指摘されている。多分その付近が根源では?と予想されている。

 今後の発掘・調査・研究によって更に詳細になることを期待したい。

(南界)


  平成17年5月「上嘉鉄魂」 第84号 掲載

TSUTAYA online


ラベル:ルーツ
posted by hathitu at 07:32| Comment(2) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月22日

奄美人のルーツ

 去る3月5日(土)「古代・中世の喜界島」と題してシンポジウム(討論会)が下記の要領で島民二百数十名が参加して盛大に行われました。

 主催:喜界町郷土史研究会並びに九州国立博物館誘致推進本部

 後援:喜界町・喜界町教育委員会・琉球大学法文学部考古学研究室

 発表:討議主題

 @ 形質人類学から見た奄美諸島

 A 文献史学からみたキカイジマ

 B 中世の喜界島・南西諸島・環シナ海世界

 C 考古学から見た喜界島

 D 近年の喜界島考古学 発掘報告

 今回は@奄美人の形質・ルーツについて「医学博士・松下孝幸先生」の発表を要約して私なりの愚見を交えながら紹介いたします。

 奄美の遺跡から発掘された人骨を近代科学のメスで分析調査した報告です。

 残念ながら喜界島の人骨は調査されていないがおよその想像はつくと思う。

 発掘された人骨は全部女性のみで男性は発掘されていない。これは当時の葬制に由来するものと思われるが今後の民俗学研究の課題だ。
(丁寧に埋葬された女性は多分ノロ神では?と予想され、その他は風葬か?崖穴葬?ではないかと思う)

◎ 報告内容

・中甫洞穴(縄文人・3500年以上前)沖永良部
 ・長頭型=頭蓋骨を真上から見た形が楕円形に近い形をしている。
 ・身長が低い(約142.48cm)

・面縄第一貝塚人(弥生人2000年前後)
 ・短頭型=頭蓋骨を真上から見たらほぼ円に近い形をしている。顔が小さい。
 ・低・広顔=顔の幅が広く上下の高さが短い、従って顔の輪郭が丸か正方形に近い顔形。他地域の弥生人より顔が小さい。
 ・低身長(約145.20cm)縄文人より大きい。

・宇宿弥生人(弥生人 紀元前後)笠利町
 ・過短頭型=頭蓋骨を真上から見たら殆ど円に近い形。
 ・低・広顔=顔の幅が広く上下の高さが短い。顔のサイズが大きい。顔の輪郭が丸か正方形に近い。他地域の弥生人より大きい。
 ・身長=低い約144.81cm。

・宇宿貝塚東地区中世人(12〜15世紀)
 鎌倉〜室町時代相当
 ・中頭型=真上から見た頭蓋骨の形がほぼ楕円形に近い形。
 ・高・狭顔=顔の幅が狭く、上下が長い(面長顔)顔のサイズが大きい。
 ・身長が高い。約149.3cm。中世になると身長が弥生人より4cmほど高くなっている特徴がある。

                  (南界記)


     平成17年4月「上嘉鉄魂」第83号 掲載


学年別、教科別、学習目的別などに合わせて学習教材をご紹介。
ラベル:奄美 ルーツ
posted by hathitu at 05:50| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

昔話のこと・・・盛山 末吉

 テレビ・雑誌のない時代の子どもたちは古老から昔話を聞くのが何よりの楽しみであった。

 アジー(おじいさん)アニィイ(おばあさん)のひざ元に寄り添ってよく昔話を聞いた。

 話を聞いているうちに夢幻の世界に引き込まれ、陶酔し次から次へと、展開していく空想の世界に夢を膨らませ、知りたがり屋、聞きたがり屋の幼児たちは、次から次へと、祖父母に話の続きを求めていた。

 子どもたちは、その感動の中でそれなりの夢を描いていた。

 当時の祖父母達は、なぜか昔話をよく知っていて、かわいい孫達にとっては心を育てるご馳走であった。

 わけてもしつる村の古老春里市武翁は、浦原の富実禎翁と並ぶ昔話の有名な伝承者であった。

 喜界島、阿伝村が生んだ民族学者岩倉市郎氏は昭和1桁代、阪神地区に来往した多くの喜界島出身者と出会って昔話を採録した。

 岩倉市郎氏に昔話を提供したのがしつる村出身の春里市武翁であり、浦原出身の富実禎翁であった。

 しつる村と浦原村は隣り同士、喜界島で一番幅の広い南西部の海岸沿いに位置する村で浦原に続いて花良治・蒲生を過ぎて岩倉氏の出身阿伝へと続いている。

 この一帯が昔話の宝庫となったのはどういうことに起因しているのだろうか。羽衣伝説で有名な花良治、蒲生、阿伝ノロで有名な阿伝。

 戦後までユタ神や屋敷神を拝みノロ屋敷もあるしつる村。さらに早町を過ぎて佐手久、志戸桶へと続く百之台崖下の村々。

 阿伝ノロと並んでノロ辞令まで現存している志戸桶村。この一帯は古きよきものが温存され、いくさ世や近代化の波にも動じない信心深いアニミズムの聖地だろうか。

 春里武市翁の昔話は、しつる村独特の方言交じりで採録され話のストーリーが生々しく読む者の心に響くように表現されている。

 内容として海にかかわるものが多い。昔ある貧乏な男が焚き物にする寄木拾いに浜に出かけた。

 すると浜の中にたくさんの子亀が首をもたげていた。親亀が迎えにきたが人の動きにおどおどしていた。

 そこで男は子亀を砂から取りだして親亀に渡してやった。

 男が寄り木を存分に集めたので帰ろうとすると、先ほどの親亀がきてお礼をしたいので、「ぜひ私の背中に乗ってください。ネーヤへ(竜宮)お供しましょう。」と言った。

 男は怖かったけれど亀の背中に乗った。

 竜宮では王様からすばらしい歓待を受け、一人娘までいただいて帰った・・・というストーリー。

 そのほかいじわる継母の話。きつねの恩返し、鬼からもらった宝ものなど子ども達にとっては夢いっぱいの昔話で、良いことをしたら良い酬いがあり、いじわるや悪いことをしたら必ずその罰があると言う無言の教えをストーリーの中から子どもたちが自然に感じ取り、くみ取る仕組みとなっている。

 昔話のもつ偉大な家庭教育の原点だといえよう。

           (喜界島昔話集 盛山末吉)


  平成12年11月「上嘉鉄魂」第30号 掲載



ラベル:昔話 喜界島
posted by hathitu at 18:30| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

颱風(暴風)

 颱風21号は、あまり大きくなく大きな被害は無いと思っていたが、翌日、野原に出てみたら農作物の塩害が大きく順調に成長していたのが無惨にも一面赤茶けている光景に胸が痛み驚いた。

 江戸時代の私たちの先祖は自給自足の経済生活で貨幣の使用を禁じられ、貿易、商業活動も禁じられていた。

 当時の祖先は颱風による農作物の被害に食料はどのようにして確保しただろうか。

 幕末(1805年)大島代官として赴任した本田孫九郎氏が代官在任中に書いた「大島私考」につぎのような記事がある。

 「1年の食に於けるや夏秋台風一度吹いて、土民困窮し、二度吹いて妻子が離散(身売り)する。三度吹いて飢饉、餓死者が出、廃村となる飢寒の苦しみから免れることは難しい」

 とあり。

 更に喜界島代官記には次のような記事もある。

 「文政9年(1826年)近頃、例を見ない大凶年、春から夏にかけて鹿児島からの引き合い米(年貢を納めて残りの砂糖を藩が全部買いあげて代わりに藩から米を支給する)

  船は僅か三隻、入梅になっても雨は一滴も降らず、餓死寸前に引き合い米積船三隻ようやく5月27日入船し、かろうじて餓死を免れた。

 文政以前に廃村になった集落が19あり、身売り人が多くその分の年貢800石あまりは免除してほしいとの申請をした」

 これらの記事は目もあてられない悲惨そのものだ。徳之島前禄帳や大島代官記にはもっと詳しい記録があるが省略する。

 火事の災害やその他の災害は、1戸乃至数戸で済み皆で助けあうこともできるが、台風の災害は全島あるいは奄美全域に及び互いに助け合う事も不可能、しかも集落全員が餓死に繋がった。

 昔の先祖たちは台風から家を守るためシバナから石を拾い集めて屋敷の回りに高い石垣を積み更にガンマラーを植え、畑の周辺には蘇鉄を植えて台風の被害から農作物を守った。

 それは男の生涯の仕事として長年に渡り子孫のために汗を流し築いた貴重な遺産だが、戦後はいろいろな理由により跡形もなく消えつつあり寂しい感じもし、またそれが世の中の進歩の証だと思ったりもする。

                (文責 西島)


平成13年11月 「上嘉鉄魂」第42号 掲載

  ★喜界島の関連ページです。見てください。★

    ■ウモーリよ!「結い」の島・喜界島へ■

       http://umooriyokikaijima.seesaa.net/



posted by hathitu at 21:04| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

祝女(ノロ)のこと

 上嘉鉄小学校北側の崖の下、東公民館北側の崖の下にショウミハーという一般人が踏み込めない聖地といわれるところがある。

 ショウミハーとは浄身(身を清める)ハーは泉、井戸のことで祝女(ノロ)やユタが水浴するところである。

 更に西集落にノロ屋敷と称する屋敷があった。(古老からの聞き取り)

 これから考えるに昔ある時期に(明治初め頃まで)上嘉鉄集落にもノロやユタがいたことは事実のようだ。

 ノロとは奄美の開闢神話に次のようなのがある。奄美開闢の初め、志仁礼久(シニレク)阿摩彌姑(アマミコ)の両神が日の神の命を受けて大島の北部に天下りし、生活の道を開き三男次女を生んで、長男は国君(国王)始まりとなり、長女はノロの神官を司る、次女は集落祭りを司るノロの始まり云々とある。
               (奄美史談による)





 同じ様な開闢神話が沖縄の中山世譜そのほか琉球神道記等にも多少の違いはあるものの似たような記事がある。

 この開闢神話からも判断されることは、太古の昔からノロ信仰は奄美民族の中に根強く、しかも長い期間信仰され、私たちの祖先の精神生活の拠り所であったと思われる。

■ ノロになれる資格

 ノロは開闢神話にも有るように誰でもノロになれるものではない。最上級は国王の妻、娘、姉妹姪等に限られ喜界島のノロに階級があり、間切(喜界は6間切り上嘉鉄は荒木間切りに属する)に一人のノロ長の下に「オッカン」「シドワキ」「グージ」「オミャア」などの階級があり上嘉鉄では、「グージ」に相当する瀬頭、又は瀬戸と称するノロがいたことが某家等、数件の位牌にある。

 ノロは間切や集落の資産家、島役人等有力者の妻、娘、姉妹等に限られている。

      以下 次号へ   (西島)



平成12年10月 「上嘉鉄魂」 第29号 掲載

★こちらのページもご覧ください★
 ウモーリよ!「結い」の島・喜界島へ:http://umooriyokikaijima.seesaa.net/
ラベル:ノロ 崖の下 間切
posted by hathitu at 21:48| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

喜界島凶徒聚衆事件@



 明治22年に喜界島凶徒聚衆事件が起きています。

 この事件に関係したものは、全島で数百名に及びその内、検挙、裁判に掛かり鹿児島軽罪裁判所大島市庁(現在の鹿児島地方裁判所名瀬支部に当たる)で有罪になった者147名。

 その中で上嘉鉄出身者が14名(小生の曽祖父も関係)。

 という大事件について長崎軽罪裁判所会議局(現在の最高裁、長崎支部に当たる)2人を除き全員が無罪になった裁判記録を基に解明しよう。

 この事件については「趣味の喜界島史」や「喜界島騒動記」でも紹介されています。

 まず、事件当時の砂糖売買関係の背景について調べてみよう。当時(明治8年〜明治20年頃)の砂糖売買関係は、県の全面的支援を受けている南島興産商社の独占購入で、その購入方法は旧藩時代と全く変わらない島民農家を無知奴隷の如く横柄な態度で扱い多額の借金を背負わせています。

 その借金の原因は、次のような悪質な方法で収奪されたからです。取り引き方法は種々ありますが、代表的なものを1,2取りあげよう。


1 来年の砂糖相場が(大阪市場)1斤=3銭5厘と予想される時、農家から1銭5厘または1銭2厘(1/2〜1/3)で購入契約をし、現金または品物で取引をする、若し翌年契約通り砂糖を引き渡せないときは、商社は不足分については3銭5厘の損失を蒙ったとして、これを翌年の製糖期までの利息をつけて前貸しの形をとったのです。

2 砂糖3樽(1樽は130〜150斤)を目当てに10円貸し付け翌年の製糖期に契約通り引き渡せないとき、不足分については1樽について1円50銭の損失を商社に与えたとして先の10円+不足分樽数を元金として月3分の利息をつける。

 翌製糖期には完全履行できないときは、同様の方法をとる。
             (砂糖の歴史物語による)

3 農民の生活必需品を砂糖代金を目当てに言葉巧みに高い価格で(本土の数倍)売りつけた。

 以上のような方法では、農家は一度でも台風などの災害を受けると終生借金地獄から抜けることは出来ない状況にあったのです。

 その頃、喜界島の借金農家1411人、無負債者1300人、借金総額14万8千円余り。大島郡全体の借金総額は100万円余り
              (出典 大島製糖調)

 この資料は明治35年だから明治20年ころはもっと多かったと思う。明治20年頃のは見あたらない。

 このような折りに大島支庁長として就任したのが新納中三氏(明治18年任命)です。新納支庁長は就任早々群島全域を具に視察し、その貧困と借金地獄に喘ぐ郡民の悲惨な姿に接し南島興社の暴挙から郡民を守り救済しよと決意し次のような政策を立案し、実施しています。

1 負債の償還

2 そのために産糖量の増大を図る。

3 併せて黍作、製糖技術の向上を図る。

4 出産糖のより高価格販売の方法。

 以上が主な骨子ですが問題が起きたのは4の販売方法です。資本主義経済の鉄則であり基本である自由競争、自由販売をモットウにしていた新納支庁長は、大阪の豪商「阿部彦太郎氏」に大島出店を促し、阿部氏もそれに応じ、大島に出店したのが明治19年です。

 喜界島での阿部氏の支店は早町在住の田中圭三氏を総責任者として営業を開始したのが明治21年ころです。この会社を阿部商会と称します。

 阿部商会の営業方針は、金を年7分にて貸し付け借り主の砂糖販売委託を受けて大阪で販売し、その売り上げから貸し付け金を回収し、尚余分が有るときは払い戻しをするというものでした。

 一方農家の生活必需品も阿部商会より購入することを取り決めています。田中氏と契約を結んだ147名を「有志同盟」と称します。次に南島興産と阿部組との砂糖の諸品交換の比較を示します。


       南島興産         阿部商会
番茶1斤と砂糖10斤       同じく砂糖1斤

紙100枚と砂糖10斤       同じく砂糖3斤

米一升と砂糖4斤         同じく砂糖1斤

                (奄美近代経済社会論より)

 このような時、南島興社は農民が密かに阿部商会に砂糖を売却したこと発覚した場合は以後一切資金を貸さず、既に貸し付けられた資金も即刻返済をせまり、返済できない者は有無を言わさず田畑家屋を取り上げた。
        以下 次号へ

                   (文責 西島)


平成12年2月 「上嘉鉄魂」第21号 掲載
posted by hathitu at 13:44| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月25日

喜界町山田集落「泉家」の古文書

 喜界島、山田集落の旧家「泉家」の古文書に次のような記録があります。原文のまま読み下して紹介します。

  道の島掛かり  御用人江


喜界島与人

禎民


 「前文略 荒木間切り、嘉鉄村の内、全体地位は、宜しく候えども地形低く、それ故連雨(梅雨)の季節、水難これあり、農作業仕り難きにつき、田地一町、大山野6町2反6畝餘荒れ地に相成り居り候に月百姓ども手隙の季節を見計らい、間数百32間餘、横幅6〜7尺餘、深さ4〜5尺餘の大溝を掘り通し候処

 その後は水難もこれなく年々農作業も良くできるようになった。当分(事があってしばらくの後)に至り、同村の者ども一廉(ひとかどと読む、めだっての意味)の助勢相成り居り候大山野等に自分失脚(自分出費)を以て、唐竹並びに松苗等を植え付け候処、追々繁茂致し候、往々(常に、しばしば)村中の為に相なり候  後略」


                   (   )は小生訳

 
1 泉 禎民氏が私費を投じて上嘉鉄に大側溝を作った。

2 長さ=約230メートル
  幅=約2メートル
  深さ=約1.5メートル

  この大側溝は現在の上嘉鉄のどこにあるか、多分ハンハヤー、ウフチ、ではないかと思う。詳しくご存じの方は?

3 大山野の唐竹、松苗を植えた場所は今のどこか?

  多分、ウフジョウビラ?フツニー?ではと思う。

  泉 禎民氏家は先祖代々島役人を勤める、ユカリッチュ、資産家の出で1825年の初役より40年あまり横目、与人役を勤め喜界島の為に私費を投じて方々で土木工事や砂糖献上等した功績により1850年に郷士格(ごうしかく)に任じられている。多分その頃、上嘉鉄の側溝や植林もしたと思う。

 郷士格とは士族に準ずるの意味

奄美の郷土と薩摩の郷士とはその差が大きい。ここでも本土と奄美との差別がはっきり認められる。




 奄美の郷士は、帯刀無用、一字姓、服装従来通りと規定されています。

 然し、奄美では相当の権力を持っており、本人は勿論、その家族も夫役(税の一種で労働奉仕)を免ぜられる等の特権をもっていた。

 奄美の資産家は相当量(数万斤)の砂糖を献上したり、自費で土木工事等をして郷士格に任ぜられるのを希望していた。

                 (文責 西島)


    平成11年12月(水)「上嘉鉄魂」第19号 掲載 

 
posted by hathitu at 13:25| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

■2008年12月■ ■2009年1月■2009年2月■
RSSへのリンク新着情報をお知らせします。RSSをお持ちの方はぜひご登録ください。
■関連サイト、ウモーリよ!「結い」の島・喜界島へもよろしく■
サイト内検索ご利用ください。気になる言葉を入力するとお探しの記事がヒットします。

2009年04月02日

発掘が語る上嘉鉄遺跡 V

 上嘉鉄集落の起こりは縄文晩期の頃(2300〜3000年前)には、小字名でマチィチャ・ウックダ・ウフドゥンムの付近一帯の構造改善偉業の際、大型土木機械で表土を掘り起こしたら、大量の土器・石器の破片が出土して関係者を驚かせました。

 一時工事を中止する騒ぎにまで発展したが、どのゆな経緯があったか、はっきりしないが工事は続行された。

 出土した遺物を数名の興味関心のある方々が採集し保管してあったものを当時の熊本大学の白木原教授が鑑定して「ハンタ遺跡調査報告」にまとめてあります。以来付近一帯を上嘉鉄遺跡と称しています。

 それに因ると上嘉鉄遺跡は縄文晩期の遺跡であることが判明している。しかし専門家による本格的発掘調査ではないので遺構(住まい跡)は発掘されていない。

 又遺物も主なものだけに限られているが大まかなことは判明している。

 上の図は、上嘉鉄遺跡出土の白木原教授の命名によるクガニイシです。方言では、「メーシ」という。

 クガニイシの使用方法は、上辺を両手で押さえ込み、その下にあまり固くない作業対象物(豆・麦等)を置いて前後左右に転がして対象物を押し砕くのに用いた、後世の碾臼(ひきうす)の前身と思われる。
西島 常吉
  【クガニイシ】

090402_kuganiisi01.jpg




         平成16年4月「上嘉鉄魂」第71号 掲載

posted by hathitu at 12:03| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月01日

喜界馬のこと 

 馬の仔が駆ける広場や金久原(はにくばる)

 馬飼うも一家の力蕃蔗(はんすう)植う

 ハイとドウ手綱一本の馬耕かな


 友岡 藤市郎氏の「句集憧憬喜界島」にある歌です。喜界馬が昔は上嘉鉄にもたくさん飼育されていたことを裏付ける歌です。

 馬に関する俳句が3句も出てきます。それだけ馬の思い出が心に残っているのでしょう。

 友岡氏は鹿児島県の農業普及員をされていた方で農業の専門家、私の尊敬する大先輩です。農業大学校など指導する立場にあった方です。もちろんシマの上嘉鉄の出身です。

 1句目は、上嘉鉄の県道沿いには、草競馬みたいなことをやっていたのでしょうか。先輩方からそんなことを聞いたことがあります。

 2句目は、馬がいかに一家の機動力があったのかが分かる俳句。ハンスウ(サツマイモ)をたくさん植えて、馬の飼料にするのです。

 我が家のお袋も、ハンスウ(サツマイモ)を煮たのと、自家製の味噌を混ぜてよく愛馬にやっていました。

 バケツにハンスウと味噌、そしてそれに水をまぜ、与えると一気に飲み干したものです。よほど美味しいのでしょう。草だけでなく味噌に含まれる塩分も一日中働いた体にはとても美味しいのでしょうね。

 3句目は、馬に対する掛け声が出てきます。

 「ハイとドウ」、馬を制御する時の馬言葉。幼い頃よく親父が使っていたことを思い出します。

「ハイ」は、「前へ進め」という意味です。シマの方言では「フォイ」

 「どぅ」は、「止まれ」という意味。

 参考までに

■ 右=ウッ

■ 左=キュジュイ(キュディ)

■ 後ろに下がれ=シジョ(シドゥ)

 親父やお袋が生きていたころに、詳しくきいていたらもっといい記事が書けたのにと思うことです。

 「親孝行したいときに、親はなし」、「親に聞きたいときに親はなし」です。

 親のありがたさは、親がいなくなってから分かるものですかね。

 「句集 憧憬喜界島」に関する記事はこちら
↓    ↓    ↓

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/114512226.html

喜界島出身の4氏が詠んだ力作です。

得田 武市、石原 百合子、得田 洋子、友岡藤市郎の4氏です。

 出版社は 博文社 定価1800円の本です。読みたい方は、お買い求めください。

 ナッカサンドウ!


 
posted by hathitu at 21:29| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月19日

尚徳王の喜界島平定(1466)

 『しまぬゆ 1 1609年 奄美・琉球侵略』を読むと

島の歴史にくわしくなりますよ。P91に琉球の尚徳王が喜界島を攻めたときのことが詳しく書かれています。

 尚徳王には兄二人がいたらしい。その兄たちを差し置いて三男の尚徳が王位を継いだのは21歳のときだそうです。


 兄二人は、謀反人、護佐丸の娘の子であったため、敬遠され王位にはつけなかったらしい。

 尚徳王は、1441年の生まれ、喜界島に攻めたのが21歳の若さです。

王位継承に疑問をもつものもいるなか、その者たちに自分の実力を見せつけてやるために尚徳自ら、喜界島平定(1466)に出掛けています。

 船50余艇、2000あまりの兵を乗せて喜界島に向かったそうです。

 喜界島の攻防は、『中山世譜』に詳しく書かれています。

 2月25日  那覇港を出発

 2月28日  喜界島至



 当時の船で3日間かかったことになります。

 喜界島の抵抗は激しかったらしい。矢石飛ぶこと雨の如く一歩も進むころができなかった。尚徳王は大いに怒り軍兵を励まし攻撃させたが、多数の死傷者を出したと書かれています。 


 尚徳王は、3月5日、奇襲作戦にでます。島の背後にまわるように炬火(きょか)を手に持たせて、軍を分けるように見せかけた。

 喜界島の兵士は、あわてて島の背後にまわったらしい。その隙を見て尚徳王の軍勢は、一気に上陸し、火を放って家を焼き、気勢をあげたらしい。

   


ラベル:尚徳王
posted by hathitu at 05:46| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月12日

キカイジマ・キカイガジマについて U

・吾妻鏡(1188年3月5日)

 宇都宮信房、先月の頃、鎮西より書状を進ず、貴賀井島へ渡ることを申し上げた。去年、例の島の形勢を窺った結果、海路の次第これを絵図にして献上した。

 かの島へ渡ることは、難儀との諸人の話によって思いとどまっていたが。この絵図をご覧になって後、あながち人力を披露させる程でもないとのことで、再び追補を企てた云々。

 信房はこの大功によって賞を加えられた。

・吾妻鏡(1188年5月17日)

 遠島の一族家臣が、貴賀井島に渡り合戦を遂げ、かの島を降伏させたとの連絡があった。その功績によって信房に勲功を施す云々とあります。

・源頼朝下文「鎌倉遺文」(1192年)

 宇都宮信房に地頭を命じた文書

前地頭の貞種は、この度貴賀島に渡らず、又奥州追討の時も参会しなかった。この両度の過失によって、その職を停止し、代わって信房をその任に補する。
 
南界記


      平成17年6月「上嘉鉄魂」第85号 掲載

ラベル:吾妻鏡 貴賀島
posted by hathitu at 05:54| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月10日

キカイジマ・キカイガジマについて T

 (3月5日のシンポジュウムから)

 キカイジマ・キカイガジマについて古代・中世の文献には、その語呂から判断して喜界島よ想定される記録がかなり散見される。

 その中には現在の喜界島の事とは到底考えられない内容もかなりあり、戸惑うばかりである。

 古代・中世の京都人のキカイジマ感はどんな意味を持っていたか検証してみよう。文献に現れるキカイジマと想定されるのには

・日本記略(998年9月14日の条)南蛮賊徒(奄美人の海賊)追討を「貴駕島・きがじま」に命令した。これがキカイジマと想定され、キカイジマ記事の初見である。

※ この事件は前年奄美海賊が九州西側と南部(鹿児島・熊本・福岡)を襲撃し・略奪・放火・拉致した事件で通常南蛮襲撃事件と言い、小右記・日本記略に詳細に記録されている。

 ここでは略します。




・新猿楽記(11世紀半ば)の記事

 八郎真人は、商人の親方で商売の利益ばかり追求して妻子のことを顧みず自分ばかりを大切にし他人のことを考えない。

 必要とあれば東の浮因の地(東北・北海道)西は、「貴駕之島・キガノシマ」にも渡り、交易品売買品は、数え切れない。以下略。

・吾妻鏡(1187年9月22日)

 鎌倉時代の歴史書(1180年〜1267年)源頼朝は蔵人の職員信房に対して天野遠景と共に貴海島を追討せよとの厳命を与えて鎮西へ下向させた。

 昔からこの島に向かって帆船で渡航したものはない。しかし平家政権時代、薩摩の国の住人、阿多忠景が乱暴を働き政府に攻められて貴海島に逃亡した。これらの追討を筑後の守家貞に命じた。

 家貞は軍備を整え数度に渡り渡航したが遂に風波を凌げず、空しく帰ってきた云々。

 今度は源義経配下の一行が彼の島に隠れているとの噂があって追討を命じたのである。

                              南界記


平成17年6月「上嘉鉄魂」第85号 掲載


posted by hathitu at 17:00| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月04日

埋蔵文化が語る上嘉鉄遺跡 U

otu isi090303.JPG


 上の図は、「埋蔵文化が語る上嘉鉄遺跡」で紹介した前島国秋氏が提供した石器で、「凹石・くぼみいし」と言います。

 食料加工用具、大きさは大小さまざまだが大体こぶし大より大きく堅い石が用いられる。

 形は扁球形、隅丸長方形で磨製石器が多く中央に浅い「くぼみ」がある。敲石や石棒とのセットで使用される。(喜界町民俗資料室保管展示)

 堅菓類や穀物を打ち割り、粉砕する台石との説がある。喜界島では最近まで宝貝などを割る台石に使用していた。

 また、凹石は火をおこす道具、火鑚杵(ひきりきね)の上端を押さえた道具とした説もあるが、喜界島では、専門家による火起こしに使用した形跡は見当たらないという。




otuisi090303d.JPG
 


上の図は、上嘉鉄遺跡出土の「敲き石・たたきいし」別名石槌とも言う。食料加工用具です。(所在不明)

 手に握ってハンマーとして使用した石器、形、大きさ、さまざまあり、凹石、石皿などのセットで用いられる。

 石斧が使用不可能となったものの転用もある。形は握りやすい棒状。扁平球状が多い。後世の杵の前身です。(ハンタ遺跡調査報告書)

                 西島 常吉



平成15年10月 「上嘉鉄魂」第65号 掲載 



posted by hathitu at 04:31| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月24日

喜界島凶徒聚衆事件 4




 この事件及び裁判判決に対し疑問をもったのが、大島区裁判所勤務の検事、岡程良検事です。(岡検事は、龍郷町出身)

 岡検事の直接の上司である検事正は岡検事には何らの連絡もなく、つとめて岡検事には秘密にしたので、岡検事はこれに不信を持ち、密かにこれを調査した結果、この事件は謀略により仕組まれたものであることをつきとめた。

 直ちに鹿児島地方裁判所の有罪判決を不当として大審院長崎控訴院(現在の最高裁判所にあたる)に上訴したのです。

 これがこの判決書です。

第一 ●●以下十三名は 犯罪をおこした証拠充分でないから訴えられる理由はない。

第二 ●●以下一三一名は田中圭三の釈放を嘆願する目的で天神山に集合したが、巡査の説得を受け(一時間以内に帰宅しなさい)ウドゥンヌハナーに場所を移し、圭三の釈放嘆願と圭三の罪はいずれに当たるか、

 また、訴えた人は誰かをはっきりすれば帰宅する覚悟であり、最初から暴動を起こす意志はなかった。

 然し派出所において巡査を脅迫したのは集会の目的外で偶然の出来事だから凶徒聚衆
(暴動を起こす目的で大勢集合すること)にはならない。

 よって罰するような罪はない。

第三 時円 外十二名は巡査の説得を拒否し派出所に乱入し巡査を脅迫して田中を釈放せざるを得ないようにしたのは、もともと令状なく不適法に逮捕拘留したのだから釈放すべきものを釈放したに過ぎないから罰するべき罪なし。

第四 ●●と●●の二名は、派出所の障子及び戸を破壊したのは有罪と認める。



 以上が判決文ですが、判決文に氏名が連なっているのは島内で一五四名という喜界島最大の事件に島民の精神的不安を考えるとき、巡査の不法逮捕により(令状によらない逮捕)島民の精神的打撃は大きい。

 以来島民は民事事件にしろ、刑事事件にしろ裁判で決着をつける事をなるべく避ける風潮ができたと思われる。


 それにしても、不可解なのは第一に一巡査が令状なくして不当逮捕が当時はしてもよかったのであろうか。

 第二に、不当逮捕→起訴→裁判→有罪ますます理解に苦しむ(現在は現行犯以外は令状が必要)

 第三に当時の司法制度では逮捕令状発権者は、誰かの命令で逮捕したであろうけれども、誰の命に従ったのか謎だ。後日の研究に待つ。   
完 西島


平成12年5月 「上嘉鉄魂」第24号 掲載


ラベル:田中圭三 岡程良
posted by hathitu at 06:02| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月21日

喜界島凶徒聚衆事件 B

(別名田中事件)


 前回に引き続き6月25日の事件を起こした当日の状況を長崎軽罪裁判所の判決記録を基に詳細に記述しよう。

 当日、早々集合した有志同盟の代表達は、思案の結果、今までの農民の生活困窮を理由とする派出所の温情にすがって田中の一時釈放を一方的に嘆願しても、田中の釈放は考えられないとの結論に達し、順序として、次の戦術変換をしています。

 前号でも記しましたが念のため再録します。

1 押収した契約書が偽造であるか否か確認する。

2 田中を告訴したのは誰かをはっきりさせる。

3 田中の逮捕拘留は何か、何の罪にあたるか。

 以上3点を内容とする嘆願書に代表5人の連署して巡査派出所に提出した。派出所の回答は「3点共に応じない」

 「田中の釈放もしない」さらに「集会人民は直ちに帰宅させなさい」との返事。
その事を代表者達は天神山に集合している人民に伝えた。

 途方にくれた代表者及び人民達は押すことも引くことも出来ず思案しているところへ、12時頃派出所巡査2名天神山の全体が集合しているところへ来て次の事を指示する。

「田中は犯罪があるから釈放できない。又多人数集合するのは善くないことだから、今から1時間以内に帰宅せよ」

と説得され大半は帰宅する気分になっていたが、代表者の一人が
「もう一度交渉しよう。皆さんはウドンヌハナーで待機していなさい。決して派出所に来てはいけない。何が起こるか計り知れないし、巡査の心証を害してもいけないから」

とのことで全員それに同意しウドンヌハナーに移動した。


 代表者達は、派出所と再交渉したが派出所の回答は、

「田中は犯罪の事実があるので釈放はできない」

の一点張りで話し合いに応じない。代表者達は思案の挙げ句、告訴人を知らないことには全員を納得させることはできないとの判断から、次のような内容の嘆願書を派出所に提出した。

1 田中は何の罪なのか、又告訴人は誰か。

2 田中と契約した同盟規約には疑惑との噂があるが疑惑になることは何もない。正当なものだ。

 もし疑問に思うところがあれば私たちも一緒に双方共に取り調べてほしい。旨の嘆願書を提出した。

 これに対する派出所はなんら回答しないから、代表者たちは粘り強く要求する。回答しなければ人民を納得させることは出来ないと交渉を続行する。

 派出所巡査は

「指示を与えれば全員帰宅するとの文を記しなさい」

とのことで又嘆願書を書き直し、指示通りの文を書き添えて派出所に提出した。が派出所では犯罪の種類、告訴人について何ら回答をしないばかりか、

 反対に派出所は

「人民が帰宅に応じないのはお前達に帰宅させる誠意がないからだ。誠意をもってあたれ、それでも帰宅に応じない者があれば、そのものの氏名を書いて提出せよ」

 その時すでに、しびれを切らした人民達は(ウドンヌハナーで数時間待たされている)派出所門前にきていた。

 代表者達は、派出所付近から立ち去るよう説得したが大衆は納得せず、仕方なく氏名を書いて提出しようとしたら衆人は、

「そんなもの必要ない、各人の顔面が証拠だ。また代表者は役に立たない。全員で直願する」

とののしり騒ぎ手がつけられない。その時衆人数名が全員に
「皆来い」と呼び、それに応じた大衆は派出所門前に押しかけ、

「田中を出せ」「告訴人は誰か」「そのうちのいずれか一つでも回答せよ」

と各々叫び騒然としているうちに、派出所の返事は

「田中は釈放できない。告訴人はいない」

と応答し大衆を鎮めようと苦心している最中、大衆の一人が大声で

「圭三を出せ、告訴人を出せ」

と言ったのを派出所小使い●●がこれを聞きとがめ大声を発した本人の襟首を掴み派出所内へ引きずりこもうとしたので立腹した大衆は、

「打て打て、進め進め」

とののしり騒ぎが大きくなった。その内に投石あり、派出所ないに乱入し障子等を損壊した。

 もはや派出所では大衆を鎮めることができず、ついに午後5時田中を釈放した。然し、これで一件落着とはならない。

 数日後、名瀬より検事が数十名の武装警官を引率して極秘に湾港を避けて、志戸桶の沖名泊に上陸、関係した主な島民数十名が逮捕、大島支庁予審裁判で全員有罪を言い渡された。

 以下次号へ
(文責 西島)


平成12年4月「上嘉鉄魂」第23号 掲載
posted by hathitu at 04:22| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月20日

瓦漏(とうろう)について(前号の続き)



 ところが文化4年(1807年)になって、島民の暮らしがとても苦しくなり、白糖製造は馴れない仕事で農民が困っているので、大島3000斤・喜・徳1500斤ずつ形6000斤、上納するようにとの令がおりました。

 このことによっても白糖製法がどんなに困難な仕事であったかを推測することができます。

 また、松浦豊敏氏は「海流と潟」の中で、瓦漏の現存について

「よくぞ無疪のままで残されていたというのが実感である。享和の白糖はまごうことなく覆土瓦漏法による白糖であった。

 また、かつての白糖の製造は大まかには喜界島の東南側に限られていたのではないか」

と述べております。

 生田常吉氏の瓦漏確認で、ますますそのことが確実になってきました。生田氏によると
「きわめて上質の黒糖がとれる先祖代々の畑が存在している」

と語ってくださいました。

 早町小学校保管の瓦漏は、昭和46年10月1日付けで町の有形文化財に指定されました。松浦氏が指摘するように喜界島の東南部にあたる志戸桶から阿伝、上嘉鉄を経て荒木に至る一帯は

「ハテージ」の畑作地帯で藩政期には喜界島有数の黒糖生産地域で「その品位南島中、喜界をもって最とす」

と記録されており、戦前良質の黒糖を生産していたのもこの畑作一帯であった。

 このことから早町・阿伝・上嘉鉄校区からは、すでに瓦漏が確認されており、きっと残された志戸桶・荒木の両校区にも現存しているものと思われます。

 両校区民の手によって早くその存在を確認しウヤフジ(祖先)の汗と涙の宝物として末永く残してほしいものであります。

 瓦漏は、焼き物のため戦禍を免れ、その後生田家の方々が大事に保管したのが何よりの幸いでありました。

 瓦漏は、喜界島の他、徳之島にも現存し、喜界島代官記の記述を実証しております。

(しつる村物語  盛山 末吉)


平成12年5月「上嘉鉄魂」第24号 掲載

【関連記事はこちら】

瓦漏(とうろう)について


ラベル:瓦漏 早町小学校
posted by hathitu at 05:22| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

喜界島凶徒聚衆事件A



 前回は事件の背景を主に書きましたが、ご理解いただけたでしょうか。

結論は南島興産商社は奄美の黒糖生産者が商法に無知なのに付け込み、

ア 高い利息で金を貸し付け

イ 黒糖の価格は、安く青田買いし、

ウ 高い日用品を売る付ける

 などの悪質な方法で一度借金をすると生涯借金地獄から抜け出られない状態に追い込んだのです。

 一方の阿部商会は、正式な商取引により、委託販売の形を取り、更に田中は「南島興産は喜界島の永久支配をねらっている

 団結してまず借金の返済策を講じよう。その間の砂糖の委託販売は阿部商会が引き受ける」

といい(砂糖の歴史より)借金地獄で打ちひしがれている島民の感情に火をつけた。

 それにより田中のもとには、瞬く間に多数の島民が結集し、そこで阿部商会と南島興産との熾烈な商売競争が繰り広げられます。

 以下は、長崎軽罪裁判所の判決所より抜粋します。

1 明治21年、田中圭三は鹿児島商人等に負債ある人民143名と「有志同盟」と称する同盟を結び次のような契約をしています。

ア 負債償還方法

イ 砂糖販売方法(買い取りではなく委託販売)

ウ 明治21年及び22年産の砂糖は、田中を通して阿部組へ委託販売する。

エ 田中の手を経て日用品の供給を受ける事等の取り決めをした。

2 明治22年6月5日、田中圭三は取り引き決算の最中、突然、喜界島巡査派出所に拘留逮捕された。

 困ったのは取り引き計算がまだ済んでいない島民達です。代表数名で協議した結果、次のようなことを決めた。


ア 田中より砂糖代金が受け取れず生活困窮におちいっている。

イ 日用品が受け取れず生活困窮などを理由に

ウ 6月20日まで田中を一時釈放して欲しい嘆願書を派出所に提出すること数回に及ぶが警察は6月25日まで釈放しないで留置した。

エ 田中の逮捕は、南島興産の社員●●氏の告訴によるとの飛語があり、島民の心情は穏やかではなかった。

3 6月21日 田中の一時釈放が実現しないため「有志同盟」代表数名が協議した結果、最初は6月23日を予定していたが連絡不十分のため24日に変更している。

「有志同盟」全員が湾の天神山(近くに警察署があり)に集合して、大衆の願望で田中の釈放を願えば、警察署も民衆の生活苦に同情して、田中の一時釈放を許可してくださるだろうとの甘い考えで集会を決定し、数名で手分けして全戸に参加するよう連絡した。

4 6月24日

 当日湾の天神山に集合した島民は3〜400名に及び、代表者の発意により、次の書類を派出所に提出した。

ア 田中圭三を拘留したため人民の生活困難の現状を記して、一時田中を釈放して欲しい旨の嘆願書を提出した。

イ 「有志人民」が天神山に集合する許可届書。

 それに対して派出所の対応は
「治罪係巡査●●が不在だから今日は対応できない。明日願いを取り上げるから代表者だけ出頭しなさい」

とのことで書類を受理させ、一応全員その日は帰宅した。

5 6月25日(この日が事件を起こした日)

 昨日同様、天神山に集合した人民は数百名に及ぶ。有志人民代表は田中の釈放嘆願書を提出する前に次の要求をしました。

ア 派出所が前に田中宅より押収した有志同盟と田中と結んだ契約書の引き渡しを請求した。(田中拘留の理由は契約書偽造の疑いがあったからとの飛語があった)

イ 田中を告訴した人は誰であるか(南島興社の某社員との飛語があった)

ウ 田中を逮捕拘留した理由は何か(何の罪か)

 以上3点を派出所に請求した。
                   以下次号へ (西島)


平成12年3月「上嘉鉄魂」第22号 掲載

【関連記事はこちら】

喜界島凶徒聚衆事件@
 
posted by hathitu at 04:38| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月15日

喜界の身代糖は2000斤から

 「奄美大島における家人(ヤンチュ)の研究」金久好氏によると、

身代糖のことが書かれています。

 家人の財物性ーその売買について

の項の中で、次のように書かれています。

 私の調査した旧記及口碑によれば大島本島に於ける身代糖は、普通健康体で1500斤、女が1400斤、一番高いのが2000斤だった。

 唯与路島のみは二千斤から三千斤だった。

 喜界島は、
「其強壮ノ男女ハ身代糖二千斤より二千四五百斤又ハ五六百斤を通例」とし、徳之島は「男女共身代糖三千斤ヨリ四、五千斤」で、沖永良部は「男女共米九石十石」だった。

 100斤が60kgですから、1斤は600gになります。
2000斤は、

   2000×600g=1200000g

   1200kgになります。黒糖の1200kgですよ。これを一生の間に返すことができるはずがありません。




 喜界島では家人(ヤンチュ)のことをヌダーと言ったりしますが、一度もの家人に身を落としてしまうと、一生その身分からぬけだせなかったのだと思われます。

 家人は1609年(薩摩侵攻)の薩摩藩の治政以前から略奪という形で存在していた。

 しかもシマ社会内部に豪族が出現し、貧富の差の拡大という階級文化もあり、のち薩摩藩の「黒糖地獄」といわれる砂糖収奪によってさらにヤンチュ階層が拡大、深刻化していったのではなかろうかという。

 と述べているのは、奄美の郷土史家の故大山麟五郎さん。

 「奄美の債務奴隷 ヤンチュ」名越 護著にもこの身代糖のことが出てきます。

 冬の製糖作業も終わった時点で砂糖の収量は400斤しかなかった。仕方なく、Aさんは近くの豪農Bさんに相談して不足分の200斤を年3割の利息で借りて、ようやく上納した。

 台風常襲地帯のこと、翌年も大型台風が来て黍は不良、上納不足分は150斤で同様にBさんから借りて上納した。

 さらにその翌年も・・・と借財はふえるばかり、いつの間にか利息を含めた借財は1500斤を超えてしまった。

 もう豪農のBさんのヤンチュに転落するしか道はない。Bさんは、藩庁に届けて「売買証文」を書き、Bさんのヤンチュ暮らしが始まった。そうして妻も数年して同じ道をたどったー。

とあります。黍つくりが台風に悩まされ思うように作れなかった時代もあったのです。

 薩摩侵攻400年にあたって、今一度、祖先の暮らし、生き様を振り返ってみりるのもいいのかなと記事にしました。

 関連記事はこちら

■颱風(暴風)

 次の関連記事には、砂糖消費税のことが書かれています。

■税務事件について・・・西島常吉

  この本に詳しく家人のことが書かれています。定価2000円の本です。参考にされてください。





ラベル:身代糖
posted by hathitu at 11:52| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

税務事件について・・・西島常吉

 上嘉鉄で大正末〜昭和初期の頃(はっきりした資料がなく正確な年月日不明)税務事件と称する事件が発生しています。

 事件の真相については現在生存している古老(現85才の方の小学3〜4年の頃という)の記憶を手探りで調査しました。

 事件は東集落を中心に上嘉鉄全集落に及び、多数の集落民が逮捕され有罪の判決を受けています。

 この事件は明治34年に制定された法律第13号違反によるものです。法律第13号の必要箇所を要約抜粋します。

 法律第13号  砂糖消費税法

第1条 内地消費の目的を以て製造場より引き取られる砂糖には本法により消費税を課す。

第2条 消費税の割合次の如し
  
第1種 砂糖色オランダ標本第8号未満の砂糖は百斤に付き、金1円(奄美、沖縄の砂糖はこの1種に相当する)

第6条 砂糖消費税納付前に製造場より、砂糖を持ち出すことを禁ずる。

第8条 砂糖を製造するものは、政府に申告することまた製造を廃止するときも同じ。

第9条 砂糖を製造する者は、帳簿を備え砂糖の出入りを詳細明瞭に記載すること。

第12条 第6条及び第7条の禁令を犯した者は、消費税の5倍に相当する罰金に処す。
但し50円を下ることはない。

第14条 砂糖を製造する者は、砂糖の製造、出し入れに関し帳簿の記載又は事実を偽りまた怠るときは3円以上30円以下の罰金に処す。

第15条 税官がその職務を執行するに当たり、その執行を拒み、忌避(避ける)支障を加えたる者は3円以上30円以下の罰金に処する。

※ 条文を読む限り大変厳しい法律だ。政府の砂糖消費税による税制アップの姿勢が伺える。
 当時の砂糖相場は、明治37年大阪相場で百斤あたり5円16銭、糖商が大島で買い取り価格が2円95銭(沖縄県資料より)島民の売り値も安いが、税金の1円は高すぎる。

 百斤にたいする1円の消費税は、条文を見る限り自家用にも適用される。農家は自分が生産した砂糖を自分勝手に消費することは許されない。

 必ず消費税を納付しなければ、砂糖小屋から自宅へ持ち込めない。

 当時日本は不景気のまっただ中にあり、特に奄美は「そてつ地獄」と言われる程、農家は「疲弊困憊」していた時代。

 農家は自分が生産した砂糖を1円の税金を支払って食する不都合に憤りを感じたろう。何とかして1年間の自家用砂糖に税金を払わないで確保したい。

 その気持ち、良く理解できる。そこで自宅の押し入れや床下、高倉、藪の中等に砂糖を隠匿したと思う。

 隠匿した砂糖を摘発するのが税務署員の税官吏の仕事、その税官吏は不意打ちに私服で来島し家宅捜査をし、違反者を摘発して第12条の罰則を適用するのです。

 連帯共同意識の強い上嘉鉄住民は税官吏が家宅捜査を始めたと知るや口コミやラッパ、ブラー等で連絡を取り合い、摘発されない方法を考えた。

 当日も某氏がラッパで合図し多人数集め、公務執行妨害らしいことをしたと思われる。その事は法律第15条に違反している行為に当たります。

 当時の住民は法律第15条のような厳しい法律がある事も知らず、ラッパで合図したと思う。

 第9条にある砂糖製造農家は、砂糖に関する帳簿を備え砂糖の出入りを詳細明瞭に記載することが義務づけられている。

 その仕事をするのは当時の農民には無理があり、税務署では各集落に「砂糖移出代理人」を(方言でイシツツキヤーという)任命して砂糖の出し入れや全ての事務を請け負わせ砂糖移出証明を発行させた。

 上嘉鉄集落の「砂糖移出代理人」は当初美代清美氏→邦枝武満氏→福岡永彦氏→生田常吉氏でした。
(文責 西島)


平成12年6月 「上嘉鉄魂」第25号 掲載

  関連記事はこちら
ウラミサヤ税務事件・・・前島啓二



posted by hathitu at 04:59| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

埋蔵文化が語る上嘉鉄遺跡・・・石斧

 昭和60年、上嘉鉄の小字名でマチィチャ、ウフドゥンム、ネーマ、ウックダ一帯の土地改良工事の際、大量の石器・土器などが出土して関係者を驚かせた。その一帯を現在は上嘉鉄遺跡と称しています。

 上東の前島国秋氏(故人)が当時拾った石斧(せきふ)があります。

 前島氏は、町教育委員会に寄付し、現在は町民族資料室(旧公民館2階)に保管展示してあります。

 上嘉鉄遺跡は熊本大学の白木原教授によると縄文晩期(2300〜3000)の遺跡と鑑定され、同遺跡から沢山の遺物が出土しています。

 本紙でその都度紹介いたします。

 石斧=斧の形をした石器で工作具、農耕具として旧石器時から出現しているが日本では旧石器・縄文・弥生時代に使用されています。

 本町では発掘される石斧は殆どが凝灰岩製で丁寧に研磨されて鋭利なものが多い。この石斧は南西諸島北部に多い。

 長さ20センチ以上に及ぶ芴形の石斧と推定される。(ハンタ遺跡調査報告による)


平成15年8月「上嘉鉄魂」第63号 掲載

遺跡関係のサイトです





ラベル:上嘉鉄遺跡 石斧
posted by hathitu at 09:15| Comment(2) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

奄美人のルーツU

 まとめ

 ・日本人には太古の縄文人とその後渡来した弥生人に大別され、弥生人には
北部九州・山口タイプ(山口・福岡・島根)
西北九州タイプ(長崎・佐賀・熊本)
南九州・南西諸島(琉球列島)タイプ(鹿児島・沖縄)がある。

・奄美の縄文・弥生人は「低・広顔・低身長」(丸顔か正方形に近く、身長が低い)が中世人になると「高・狭顔・高身長」(面長顔で身長が高い)になっている。

 その頃人間の移動があったのでは?と予想される。最近の考古学発掘の結果、多数の中世遺跡が台地の上に発掘されたのと一致する。

 その付近に原因があるような気がする。もっと研究する必要があり、私たち祖先のルーツが明らかになる日も間近だろう。その日が楽しみだ。

・沖縄・奄美の縄文人は本州・四国・九州・北海道の縄文人と同系列に属し、弥生人とは質が違う。

・南九州(鹿児島)・南西諸島(奄美・沖縄)タイプは西北九州タイプ(長崎県・佐賀県・熊本県)の弥生人をもっと顕著にした特徴「低・広顔」で渡来人の可能性があり、縄文人とは連続しない。

・中国、山東省及び青海省の文物考古学研究との共同研究の結果、青銅器時代〜前漢時代 の人骨は九州・山口の弥生時代人骨と酷似しており、少数ではあるが山東省の人骨の中 に南西諸島の弥生人とは似たものもあった。

・中国黄河の上流に均質な集団があり、中流、下流、(山東省)になると指摘されている。多分その付近が根源では?と予想されている。

 今後の発掘・調査・研究によって更に詳細になることを期待したい。

(南界)


  平成17年5月「上嘉鉄魂」 第84号 掲載

TSUTAYA online


ラベル:ルーツ
posted by hathitu at 07:32| Comment(2) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月22日

奄美人のルーツ

 去る3月5日(土)「古代・中世の喜界島」と題してシンポジウム(討論会)が下記の要領で島民二百数十名が参加して盛大に行われました。

 主催:喜界町郷土史研究会並びに九州国立博物館誘致推進本部

 後援:喜界町・喜界町教育委員会・琉球大学法文学部考古学研究室

 発表:討議主題

 @ 形質人類学から見た奄美諸島

 A 文献史学からみたキカイジマ

 B 中世の喜界島・南西諸島・環シナ海世界

 C 考古学から見た喜界島

 D 近年の喜界島考古学 発掘報告

 今回は@奄美人の形質・ルーツについて「医学博士・松下孝幸先生」の発表を要約して私なりの愚見を交えながら紹介いたします。

 奄美の遺跡から発掘された人骨を近代科学のメスで分析調査した報告です。

 残念ながら喜界島の人骨は調査されていないがおよその想像はつくと思う。

 発掘された人骨は全部女性のみで男性は発掘されていない。これは当時の葬制に由来するものと思われるが今後の民俗学研究の課題だ。
(丁寧に埋葬された女性は多分ノロ神では?と予想され、その他は風葬か?崖穴葬?ではないかと思う)

◎ 報告内容

・中甫洞穴(縄文人・3500年以上前)沖永良部
 ・長頭型=頭蓋骨を真上から見た形が楕円形に近い形をしている。
 ・身長が低い(約142.48cm)

・面縄第一貝塚人(弥生人2000年前後)
 ・短頭型=頭蓋骨を真上から見たらほぼ円に近い形をしている。顔が小さい。
 ・低・広顔=顔の幅が広く上下の高さが短い、従って顔の輪郭が丸か正方形に近い顔形。他地域の弥生人より顔が小さい。
 ・低身長(約145.20cm)縄文人より大きい。

・宇宿弥生人(弥生人 紀元前後)笠利町
 ・過短頭型=頭蓋骨を真上から見たら殆ど円に近い形。
 ・低・広顔=顔の幅が広く上下の高さが短い。顔のサイズが大きい。顔の輪郭が丸か正方形に近い。他地域の弥生人より大きい。
 ・身長=低い約144.81cm。

・宇宿貝塚東地区中世人(12〜15世紀)
 鎌倉〜室町時代相当
 ・中頭型=真上から見た頭蓋骨の形がほぼ楕円形に近い形。
 ・高・狭顔=顔の幅が狭く、上下が長い(面長顔)顔のサイズが大きい。
 ・身長が高い。約149.3cm。中世になると身長が弥生人より4cmほど高くなっている特徴がある。

                  (南界記)


     平成17年4月「上嘉鉄魂」第83号 掲載


学年別、教科別、学習目的別などに合わせて学習教材をご紹介。
ラベル:奄美 ルーツ
posted by hathitu at 05:50| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

昔話のこと・・・盛山 末吉

 テレビ・雑誌のない時代の子どもたちは古老から昔話を聞くのが何よりの楽しみであった。

 アジー(おじいさん)アニィイ(おばあさん)のひざ元に寄り添ってよく昔話を聞いた。

 話を聞いているうちに夢幻の世界に引き込まれ、陶酔し次から次へと、展開していく空想の世界に夢を膨らませ、知りたがり屋、聞きたがり屋の幼児たちは、次から次へと、祖父母に話の続きを求めていた。

 子どもたちは、その感動の中でそれなりの夢を描いていた。

 当時の祖父母達は、なぜか昔話をよく知っていて、かわいい孫達にとっては心を育てるご馳走であった。

 わけてもしつる村の古老春里市武翁は、浦原の富実禎翁と並ぶ昔話の有名な伝承者であった。

 喜界島、阿伝村が生んだ民族学者岩倉市郎氏は昭和1桁代、阪神地区に来往した多くの喜界島出身者と出会って昔話を採録した。

 岩倉市郎氏に昔話を提供したのがしつる村出身の春里市武翁であり、浦原出身の富実禎翁であった。

 しつる村と浦原村は隣り同士、喜界島で一番幅の広い南西部の海岸沿いに位置する村で浦原に続いて花良治・蒲生を過ぎて岩倉氏の出身阿伝へと続いている。

 この一帯が昔話の宝庫となったのはどういうことに起因しているのだろうか。羽衣伝説で有名な花良治、蒲生、阿伝ノロで有名な阿伝。

 戦後までユタ神や屋敷神を拝みノロ屋敷もあるしつる村。さらに早町を過ぎて佐手久、志戸桶へと続く百之台崖下の村々。

 阿伝ノロと並んでノロ辞令まで現存している志戸桶村。この一帯は古きよきものが温存され、いくさ世や近代化の波にも動じない信心深いアニミズムの聖地だろうか。

 春里武市翁の昔話は、しつる村独特の方言交じりで採録され話のストーリーが生々しく読む者の心に響くように表現されている。

 内容として海にかかわるものが多い。昔ある貧乏な男が焚き物にする寄木拾いに浜に出かけた。

 すると浜の中にたくさんの子亀が首をもたげていた。親亀が迎えにきたが人の動きにおどおどしていた。

 そこで男は子亀を砂から取りだして親亀に渡してやった。

 男が寄り木を存分に集めたので帰ろうとすると、先ほどの親亀がきてお礼をしたいので、「ぜひ私の背中に乗ってください。ネーヤへ(竜宮)お供しましょう。」と言った。

 男は怖かったけれど亀の背中に乗った。

 竜宮では王様からすばらしい歓待を受け、一人娘までいただいて帰った・・・というストーリー。

 そのほかいじわる継母の話。きつねの恩返し、鬼からもらった宝ものなど子ども達にとっては夢いっぱいの昔話で、良いことをしたら良い酬いがあり、いじわるや悪いことをしたら必ずその罰があると言う無言の教えをストーリーの中から子どもたちが自然に感じ取り、くみ取る仕組みとなっている。

 昔話のもつ偉大な家庭教育の原点だといえよう。

           (喜界島昔話集 盛山末吉)


  平成12年11月「上嘉鉄魂」第30号 掲載



ラベル:昔話 喜界島
posted by hathitu at 18:30| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

颱風(暴風)

 颱風21号は、あまり大きくなく大きな被害は無いと思っていたが、翌日、野原に出てみたら農作物の塩害が大きく順調に成長していたのが無惨にも一面赤茶けている光景に胸が痛み驚いた。

 江戸時代の私たちの先祖は自給自足の経済生活で貨幣の使用を禁じられ、貿易、商業活動も禁じられていた。

 当時の祖先は颱風による農作物の被害に食料はどのようにして確保しただろうか。

 幕末(1805年)大島代官として赴任した本田孫九郎氏が代官在任中に書いた「大島私考」につぎのような記事がある。

 「1年の食に於けるや夏秋台風一度吹いて、土民困窮し、二度吹いて妻子が離散(身売り)する。三度吹いて飢饉、餓死者が出、廃村となる飢寒の苦しみから免れることは難しい」

 とあり。

 更に喜界島代官記には次のような記事もある。

 「文政9年(1826年)近頃、例を見ない大凶年、春から夏にかけて鹿児島からの引き合い米(年貢を納めて残りの砂糖を藩が全部買いあげて代わりに藩から米を支給する)

  船は僅か三隻、入梅になっても雨は一滴も降らず、餓死寸前に引き合い米積船三隻ようやく5月27日入船し、かろうじて餓死を免れた。

 文政以前に廃村になった集落が19あり、身売り人が多くその分の年貢800石あまりは免除してほしいとの申請をした」

 これらの記事は目もあてられない悲惨そのものだ。徳之島前禄帳や大島代官記にはもっと詳しい記録があるが省略する。

 火事の災害やその他の災害は、1戸乃至数戸で済み皆で助けあうこともできるが、台風の災害は全島あるいは奄美全域に及び互いに助け合う事も不可能、しかも集落全員が餓死に繋がった。

 昔の先祖たちは台風から家を守るためシバナから石を拾い集めて屋敷の回りに高い石垣を積み更にガンマラーを植え、畑の周辺には蘇鉄を植えて台風の被害から農作物を守った。

 それは男の生涯の仕事として長年に渡り子孫のために汗を流し築いた貴重な遺産だが、戦後はいろいろな理由により跡形もなく消えつつあり寂しい感じもし、またそれが世の中の進歩の証だと思ったりもする。

                (文責 西島)


平成13年11月 「上嘉鉄魂」第42号 掲載

  ★喜界島の関連ページです。見てください。★

    ■ウモーリよ!「結い」の島・喜界島へ■

       http://umooriyokikaijima.seesaa.net/



posted by hathitu at 21:04| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月27日

祝女(ノロ)のこと

 上嘉鉄小学校北側の崖の下、東公民館北側の崖の下にショウミハーという一般人が踏み込めない聖地といわれるところがある。

 ショウミハーとは浄身(身を清める)ハーは泉、井戸のことで祝女(ノロ)やユタが水浴するところである。

 更に西集落にノロ屋敷と称する屋敷があった。(古老からの聞き取り)

 これから考えるに昔ある時期に(明治初め頃まで)上嘉鉄集落にもノロやユタがいたことは事実のようだ。

 ノロとは奄美の開闢神話に次のようなのがある。奄美開闢の初め、志仁礼久(シニレク)阿摩彌姑(アマミコ)の両神が日の神の命を受けて大島の北部に天下りし、生活の道を開き三男次女を生んで、長男は国君(国王)始まりとなり、長女はノロの神官を司る、次女は集落祭りを司るノロの始まり云々とある。
               (奄美史談による)





 同じ様な開闢神話が沖縄の中山世譜そのほか琉球神道記等にも多少の違いはあるものの似たような記事がある。

 この開闢神話からも判断されることは、太古の昔からノロ信仰は奄美民族の中に根強く、しかも長い期間信仰され、私たちの祖先の精神生活の拠り所であったと思われる。

■ ノロになれる資格

 ノロは開闢神話にも有るように誰でもノロになれるものではない。最上級は国王の妻、娘、姉妹姪等に限られ喜界島のノロに階級があり、間切(喜界は6間切り上嘉鉄は荒木間切りに属する)に一人のノロ長の下に「オッカン」「シドワキ」「グージ」「オミャア」などの階級があり上嘉鉄では、「グージ」に相当する瀬頭、又は瀬戸と称するノロがいたことが某家等、数件の位牌にある。

 ノロは間切や集落の資産家、島役人等有力者の妻、娘、姉妹等に限られている。

      以下 次号へ   (西島)



平成12年10月 「上嘉鉄魂」 第29号 掲載

★こちらのページもご覧ください★
 ウモーリよ!「結い」の島・喜界島へ:http://umooriyokikaijima.seesaa.net/
ラベル:ノロ 崖の下 間切
posted by hathitu at 21:48| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

喜界島凶徒聚衆事件@



 明治22年に喜界島凶徒聚衆事件が起きています。

 この事件に関係したものは、全島で数百名に及びその内、検挙、裁判に掛かり鹿児島軽罪裁判所大島市庁(現在の鹿児島地方裁判所名瀬支部に当たる)で有罪になった者147名。

 その中で上嘉鉄出身者が14名(小生の曽祖父も関係)。

 という大事件について長崎軽罪裁判所会議局(現在の最高裁、長崎支部に当たる)2人を除き全員が無罪になった裁判記録を基に解明しよう。

 この事件については「趣味の喜界島史」や「喜界島騒動記」でも紹介されています。

 まず、事件当時の砂糖売買関係の背景について調べてみよう。当時(明治8年〜明治20年頃)の砂糖売買関係は、県の全面的支援を受けている南島興産商社の独占購入で、その購入方法は旧藩時代と全く変わらない島民農家を無知奴隷の如く横柄な態度で扱い多額の借金を背負わせています。

 その借金の原因は、次のような悪質な方法で収奪されたからです。取り引き方法は種々ありますが、代表的なものを1,2取りあげよう。


1 来年の砂糖相場が(大阪市場)1斤=3銭5厘と予想される時、農家から1銭5厘または1銭2厘(1/2〜1/3)で購入契約をし、現金または品物で取引をする、若し翌年契約通り砂糖を引き渡せないときは、商社は不足分については3銭5厘の損失を蒙ったとして、これを翌年の製糖期までの利息をつけて前貸しの形をとったのです。

2 砂糖3樽(1樽は130〜150斤)を目当てに10円貸し付け翌年の製糖期に契約通り引き渡せないとき、不足分については1樽について1円50銭の損失を商社に与えたとして先の10円+不足分樽数を元金として月3分の利息をつける。

 翌製糖期には完全履行できないときは、同様の方法をとる。
             (砂糖の歴史物語による)

3 農民の生活必需品を砂糖代金を目当てに言葉巧みに高い価格で(本土の数倍)売りつけた。

 以上のような方法では、農家は一度でも台風などの災害を受けると終生借金地獄から抜けることは出来ない状況にあったのです。

 その頃、喜界島の借金農家1411人、無負債者1300人、借金総額14万8千円余り。大島郡全体の借金総額は100万円余り
              (出典 大島製糖調)

 この資料は明治35年だから明治20年ころはもっと多かったと思う。明治20年頃のは見あたらない。

 このような折りに大島支庁長として就任したのが新納中三氏(明治18年任命)です。新納支庁長は就任早々群島全域を具に視察し、その貧困と借金地獄に喘ぐ郡民の悲惨な姿に接し南島興社の暴挙から郡民を守り救済しよと決意し次のような政策を立案し、実施しています。

1 負債の償還

2 そのために産糖量の増大を図る。

3 併せて黍作、製糖技術の向上を図る。

4 出産糖のより高価格販売の方法。

 以上が主な骨子ですが問題が起きたのは4の販売方法です。資本主義経済の鉄則であり基本である自由競争、自由販売をモットウにしていた新納支庁長は、大阪の豪商「阿部彦太郎氏」に大島出店を促し、阿部氏もそれに応じ、大島に出店したのが明治19年です。

 喜界島での阿部氏の支店は早町在住の田中圭三氏を総責任者として営業を開始したのが明治21年ころです。この会社を阿部商会と称します。

 阿部商会の営業方針は、金を年7分にて貸し付け借り主の砂糖販売委託を受けて大阪で販売し、その売り上げから貸し付け金を回収し、尚余分が有るときは払い戻しをするというものでした。

 一方農家の生活必需品も阿部商会より購入することを取り決めています。田中氏と契約を結んだ147名を「有志同盟」と称します。次に南島興産と阿部組との砂糖の諸品交換の比較を示します。


       南島興産         阿部商会
番茶1斤と砂糖10斤       同じく砂糖1斤

紙100枚と砂糖10斤       同じく砂糖3斤

米一升と砂糖4斤         同じく砂糖1斤

                (奄美近代経済社会論より)

 このような時、南島興社は農民が密かに阿部商会に砂糖を売却したこと発覚した場合は以後一切資金を貸さず、既に貸し付けられた資金も即刻返済をせまり、返済できない者は有無を言わさず田畑家屋を取り上げた。
        以下 次号へ

                   (文責 西島)


平成12年2月 「上嘉鉄魂」第21号 掲載
posted by hathitu at 13:44| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月25日

喜界町山田集落「泉家」の古文書

 喜界島、山田集落の旧家「泉家」の古文書に次のような記録があります。原文のまま読み下して紹介します。

  道の島掛かり  御用人江


喜界島与人

禎民


 「前文略 荒木間切り、嘉鉄村の内、全体地位は、宜しく候えども地形低く、それ故連雨(梅雨)の季節、水難これあり、農作業仕り難きにつき、田地一町、大山野6町2反6畝餘荒れ地に相成り居り候に月百姓ども手隙の季節を見計らい、間数百32間餘、横幅6〜7尺餘、深さ4〜5尺餘の大溝を掘り通し候処

 その後は水難もこれなく年々農作業も良くできるようになった。当分(事があってしばらくの後)に至り、同村の者ども一廉(ひとかどと読む、めだっての意味)の助勢相成り居り候大山野等に自分失脚(自分出費)を以て、唐竹並びに松苗等を植え付け候処、追々繁茂致し候、往々(常に、しばしば)村中の為に相なり候  後略」


                   (   )は小生訳

 
1 泉 禎民氏が私費を投じて上嘉鉄に大側溝を作った。

2 長さ=約230メートル
  幅=約2メートル
  深さ=約1.5メートル

  この大側溝は現在の上嘉鉄のどこにあるか、多分ハンハヤー、ウフチ、ではないかと思う。詳しくご存じの方は?

3 大山野の唐竹、松苗を植えた場所は今のどこか?

  多分、ウフジョウビラ?フツニー?ではと思う。

  泉 禎民氏家は先祖代々島役人を勤める、ユカリッチュ、資産家の出で1825年の初役より40年あまり横目、与人役を勤め喜界島の為に私費を投じて方々で土木工事や砂糖献上等した功績により1850年に郷士格(ごうしかく)に任じられている。多分その頃、上嘉鉄の側溝や植林もしたと思う。

 郷士格とは士族に準ずるの意味

奄美の郷土と薩摩の郷士とはその差が大きい。ここでも本土と奄美との差別がはっきり認められる。




 奄美の郷士は、帯刀無用、一字姓、服装従来通りと規定されています。

 然し、奄美では相当の権力を持っており、本人は勿論、その家族も夫役(税の一種で労働奉仕)を免ぜられる等の特権をもっていた。

 奄美の資産家は相当量(数万斤)の砂糖を献上したり、自費で土木工事等をして郷士格に任ぜられるのを希望していた。

                 (文責 西島)


    平成11年12月(水)「上嘉鉄魂」第19号 掲載 

 
posted by hathitu at 13:25| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
喜界島上嘉鉄の集落誌「上嘉鉄魂」のTOPへ戻る
関連サイト・ウモーリよ!「結い」の島・喜界島へ
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。