2010年05月13日

第90回、敬老会に思う

 去る1月3日、恒例の敬老会が上嘉鉄小学校体育館で盛大に開催されました。今回は第90回という記念すべき年でしたので集落も記念タオルを作って盛り上げていただきました。

 敬老会は初敬老の方だけの為だけにあるのではないのですが、やはり主役は初敬老者です。今年は該当者は6名でしたが参加されたのはわずか1名でした。

 90回も続いてきた集落の伝統行事、しかも集落民にとっては年始の賀詞交流会も兼ねた意義ある行事。この超多忙な時期に正月早々招待を受けた来賓の方々、主催者である集落役員、青年団そしてさらには祝いの場を盛り上げるため余興の準備や練習に何日も費やしてきた壮年団や婦人会のみなさんのことを考えると確かにもう少し参加者が多くてもよいのでは?と思います。

 「そろそろ形式を検討する時期では?」

との意見が多く出ていることから、今回は「余計なお節介」と批判されることを覚悟で敬老会について皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

 その前に、先日小野津の友人より興味深い話を聞きましたのでご紹介します。

 近年小野津でも島外で子や孫そして兄弟姉妹と祝う人が多くなり小学校体育館で行われる敬老会はここ3年間初敬老者無しで行っていたそうです。

 昨年8月、初敬老者6名の内4名が

「子どもたちや集落民に負担をかけないでお祝いができないか?」

 話し合いました。

 そして新しい企画を集落常会にはかり承認をもらいました。その企画とは例年通り小学校体育館で敬老会を開いてもらった後、場所を神宮公民館に移して午後5時から9時まで合同で自分たちの敬老祝いをしようというものでした。

 両区長に7日前、3日前そして前日と集落放送で「合同案内」をしたところ137名も参加してくれたそうです。

 初敬老者6命中4名がこの合同祝いを主催(1名は島外へ1名は自宅でお祝いをしたそうです)

 お客からは500円の会費を頂き、盛り皿、お酒、カラオケ等を準備。かかった費用は4名で負担しあいました。

 当初は会費なしにしようとも考えていたそうですが、お互い気兼ねしないように会費制にしたとのこと。

 前日は婦人会の皆さんがテーブルセット等を手伝い、当日は新成人の若者や還暦組も合流し歌や踊りで大変な盛り上がりだったとのことでした。

 初敬老者からは、金箔吟醸酒3本がお客様に振る舞われ、盛り皿も小皿に小分けして配り、お祝いにきていただいたお客さんからも

「いいことをしてくれた。何軒も家を回らずに同時に初敬老者のお祝いをすることができて良かった。来年も是非!」

 等多くの方々に喜んで頂き大変好評だったそうです。

 小野津集落の場合は初敬老を迎えるご本人から合同二次会を企画し集落が協力する新しい形を創り上げました。本当に余計なお節介ですが伝統ある上嘉鉄敬老会を更に盛り上げるため、90回を迎えたこの節目の年に来年初敬老を皆さんと集落代表の皆さん双方が同じ目標のために協力してよりよい方法を創りあげては如何でしょうか。

 時代が変わり、男性のみならずご婦人方も敬老会の翌日から出勤という方も多くなり、主役である本人よりむしろ家族の苦労を考え島外でのお祝いに代える方が多いとも聞きます。

 そうした時代の変化の中、形を変えても残すべき行事の意義を次の世代へと伝えるきっっかけになればと思います。

 時間が経ち過ぎて申し訳ありませんが、今回のテーマに関連して初敬老者代表であいさつをされた上嘉鉄東の前島ミエ子さんの同意を得てあいさつ文を掲載いたします。

  2010.05.12付けの記事はこちら

 ■ 初敬老代表挨拶 ■
        前島 ミエ子(上嘉鉄東)
ラベル:敬老会
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2009年04月05日

ふるさと U・・・秋田 秋貞

 これらの人ばかりでなく、私をはじめ島をはなれて島外に居住している人に共通する。その証に各地で郷友会を結成して互いの親睦と郷愁の念を一つにしている。

 かつて私の父は

「どこで暮らしてもよいが、生まれ島は忘れるな」

が口癖で私に対する生遺言でもある。父の一家は、明治33年父16歳の時、土地を処分し種子島に農業移民として島をはなれたという。

 父はどうしてか、自分の生い立ちや過去(47,8年)について一切私たち子どもに話さなかった。

 父が自分のことについて語るのは、上嘉鉄の駐在所に赴任して来る警察官が警察の先輩として表敬挨拶に来訪する時に語るのみであった。

 曰く「明治37、8年の日露戦争に従軍、乃木大将の部下として旅順攻略に参戦。その後35歳の警察官試験制限年齢で合格、種子島署に勤務しながら警察官採用の試験管として地方廻りををした。

 その後大阪府警に転勤、敏腕刑事として数々の表彰を受けた」

 これが誇らしげに語る父の姿であった。その父が8カ年で退職し48歳?で帰郷、親子ほどの年差(24歳年下)の母と結婚、農業を営んだ。(ちなみに父は二度も離婚していた)島をはなれて32,3年振りに裸一貫、帰郷している。

 農業するなら自ら好んで移住した種子島に帰ればよいのに何故だろうか。つまり父の心の行きつくところは、ふるさと生まれ島だったのだ。

 人生の喜怒哀楽の中に、ふるさとが見える。私もいつか島に帰りたいと思っている。子どもは往々にして親と同じ道を歩むのかもしれない。

 折々の村祭りの六月灯、八月ウンミ、九月ウンミの太鼓の音や唄が脳裏に浮かんで来る。

 私は嬉しさにつけ悲しさにつけ、ふるさとを偲んで小学校唱歌の「ふるさと」を口ずさんでいる。そしてわがふるさとの弥栄を祈っている。島からは、「上嘉鉄魂」が毎月ふるさとの新しい香りを運んできてくれる。

 ふらさとを愛する編集委員の有志に感謝を表したい。

 上嘉鉄魂の発案者であり、八月踊り唄保存会の世話人の生島常範君という情熱的で頼もしい青年がいる。わがふるさと上嘉鉄の星である。誇りである有り難う。

「つつがなしや友がき、雨に風につけても思いいずるふるさと」

 これが私の心の行きつくところである。島人(しまんちゅ)のご健康とふるさとの弥栄を祈る。

                沖縄県宜野湾市赤道 在住 秋田 秋貞



奄美方言―八つの島の五つの言葉七つの呼名 カナ文字での書き方
奄美方言―八つの島の五つの言葉七つの呼名 カナ文字での書き方
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2009年04月04日

ふるさと T

 ふるさと
秋田 秋貞
 私は郷里喜界島を「誰が名付けた百之台、眼下に見下ろす海原広く、磯打つ白波島を彩る」と詠んだ。

 それは奄美百景の一つである百之台が喜界島の代名詞であろう。狭義の郷里(ふるさと)は、上嘉鉄が私のふるさとである。

 いつしか沖縄在住半世紀余、島をはなれたのは、昭和28年5月、大きな夢をふくらませて渡沖した。

「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」・・・と来沖以来、片時も島を忘れることなく郷愁の毎日でした。

 
 そのこころざしは果たせず、平成の浦島になってしまった。浦島太郎はお土産の玉手箱を持ってふるさとへ帰ったが私は持って帰る玉手箱がなく帰れなく沖縄で白髪の翁さんになった。

 子や孫たちに残す財もないので先人たちが残して下さった尊い文化遺産の方言(しまゆみた)を伝承し親(先祖)のふるさとを知る一端として、上嘉鉄の方言3800語を美代イシ姉のご協力を得て、収録した。

 まだまだ多くの未収録語があり満足できるものではない。単に子や孫たちの為ばかりでなく、私自身、急に思い出せない方言が多々あり認知症にならないうちにと大急ぎで作成したものである。

 盛山末吉先生の「しつる村」や上嘉鉄魂編集委員代表の西島常吉先生の方言の語源。語意の解説などの学術的なものと異なって、私はただ日常語を羅列したものである。

 私は、その方言集の初頭に「ふるさと・・・とは人の心の行きつくところ」と書いた。それは私なりの一言での表現である。

 一般的な相場は、「ふるさとは遠くに在りて思うものなり」という。「人の心の行きつくところ」という所以は、ふるさとをはなれて何十年も音信不通の人がひょっこりふるさとへ帰ってくる。

 これは小説ではなく現実である。どんな小島、寒村であっても真に心を癒してくれるのは、ふるさとであるからである。

 この続きは、「ふるさと U」で掲載します。


 
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2009年03月05日

上嘉鉄美化隊倉庫設置について

 2009.02.14に共有地組合役員会がありました。その際に、美化隊の役員の方から次のような文書が出され、共有地管理組合に対して要望がありました。

 それは、今の上嘉鉄駐在所の後ろ(共有地)に、美化隊の倉庫を作るというものです。

 これは「農地・水・環境保全対策」事業の一環で平成19年度から行われているもので今年で三年目になるとのこと。

 1年に300万(上嘉鉄集落全体に)の予算があり5カ年計画だそうです。

 次に詳しい文書を掲載します。共有地に関わる問題ですので、上嘉鉄集落民全員が共通理解しておく必要があります。






上嘉鉄美化隊倉庫について
 
 国の農地・農業用水等の資源の適切な保全管理について

@ 高齢化や混住化等により困難になってきていること。

A ゆとりや安らぎといった国民の価値観の変化への対応が必要なこと。

B 我が国、農業全体の在り方を環境保全を重視したものに転換していくこと

等が求められていることから、地域ぐるみでの効果の高い共同活動と農業者ぐるみでの先進的な営農活動を支援する「農地・水・環境保全対策」を平成19年度から実施しています。


 この事業により、喜界町の上嘉鉄地区に「上嘉鉄美化隊」を組織されており、平成19年度から農道・排水路・環境美化・ライフラインの点検活動を行っています。

 今回、前述の主旨に基づき、集落美化活動・青年団活動・学童教育等における「奉仕」の活動力を次世代への定着した概念を育むためにも「拠点(倉庫)」の設置を考えております。

 倉庫設置においては、集落の共有地を活用させていただきたく、集落内共有地管理組合の皆様をはじめ、関係各位のご理解を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 
 この倉庫につきましては、上嘉鉄美化隊において、所有する機材(自走式芝刈り機(H21.3)・道具・消耗品等の保管・管理を行います。

 また、事業終了年度後においては、全ての管理を上嘉鉄青年団に移管することを考察しております。

 【概略について】

設置者  上嘉鉄美化隊(平成19年度〜平成23年)

施行   無償奉仕作業(美化隊・青年団・やらそう会)

設置開始 平成20年度から

設置場所 上嘉鉄集落内
     (上嘉鉄地区振興センター隣接の駐在所裏集落共有地)

設置面積 18坪

設置費用 平成20年度予算

     材料費   ¥500,000

     プレカット手数料 ¥80,000 



上嘉鉄青年団の活動(ウンミ・盆踊りなど)の拠点となってくれそうです。
3月いっぱいで完成の予定だそうで、楽しみですね。


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2009年03月02日

短歌・・・美代 イシ

※ 才なきを省みずして短歌(うた)の門をたたかんとする身の恥ずかしき

※ 脳梗塞身に負うて三年(みつとせ)人生の卒業(おえる)まではせめて呆けまい

※ 吾ながらまさかまさかの脳梗塞神の与えし才月と諾(うべな)う

※ 右ひだり十八回上げて自らの手にて着替えしズボンに満足

※ 走馬灯廻しつつ書く年賀状イス吾の生きてる証(あかし)

※ 年明けてなお前向きに生きようと胸深く誓う車イスの吾

※ 若さ故暮らしの故に過去(かこ)ありき孫四人くれし嫁に感謝

※ 出来るかなやって見ろよと徐(おもむろ)にやって出来たと吾悦(えつ)に入る

※ 目も見えず耳聞こえずデーケアにひと日(ひ)越す汝に習慣(ならい)の握手

※ 戦(いくさ)終(お)え四方八方めぐる六十一年君住む黄泉(よみ)でゆるり語ろう

上中 美代 イシ


平成18年10月「上嘉鉄魂」第101号 掲載


ラベル:短歌 美代 イシ
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私の仕事はボランティア・・・富村 隆雄

尼崎 在住   富村 隆雄
 島を離れて数十年、今第2の故郷が尼崎でまだまだ元気で頑張っております。

 40年近く会社勤めを終えてから、定年後は市のシルバー人材センターで働いておりましたが、今はボランティアが仕事です。

 毎月4〜5回の駅前の啓発キャンペーンと清掃を約1時間します。また、近くの小学校の登下校の見守り防犯ボランティアをしております。

 登下校は約50分、下校時は約90分です。月曜日〜金曜日までで私用があるときは、休みます。

 申し込み時は月・水・金の昼からしておりましたが、数日やっているうちに、子どもたちがいろいろと話しかけてなついてくるので好きになり、今では方々の街角に立って人の流れや行動が分かるようになってきました。

 あいさつをする人、「ご苦労さん」と声をかけてくれる人、「お金いくらもらっているの?」と言われたりもします。

 ボランティアの人員は、その日によって異なりますが、おじいちゃん、おばあちゃん、PTAなど朝は、10人くらい、下校時は7人くらいでやっております。

 さて、そこで子どもたちに

「信号が赤だから待ってね」

と言っているその横から、大人達が平気で渡っていく、最近の大人は?と言いたくなる。小中校生の非行が叫ばれて久しいが、非行の手本を示しているのは、大人の私たちでは?と感じた。

 子どもたちの元気な明るく、素直に交通整理の指示に従っている姿に接すると、子どもたちからパワーを貰ったようで、また交通整理の仕事をやって良かった。明日もこの子どもたちのために頑張ろうと意欲が湧きます。

 なんの取り得もないわたしですが、私でも世の中の役にたっていると思えば、ますます意欲が沸き心が爽快になります。

 以前は、体調が悪く家でごろごろばかりしていたが、ボランティアをはじめてから体調も良くなり生きていることに感謝しています。

 世の中の役に立つ仕事を意欲的にすれば健康になることを悟った。ありがたいことだ。

 それに引きかえ心ない大人は平気で交通違反をし、世の中は自分のおもうままだと言わんばかりの傲慢な顔、「いくらお金を貰っているか?」まるで金のことしか頭にない金の亡者の鬼畜の顔を見るようで仕事の意欲を失い、血圧が上昇し、体調不良をきたします。

 言葉は恐ろしいものだ。人間の心を不愉快にもさせ、意欲をも持たせてくれるとつくづく感じた。

「さあ、今日も行こうボランティアへ、他人が何と言おうと。健康で続けられる間は続けよう」


平成20年2月「上嘉鉄魂」第117号 掲載


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禁煙について考えて見ましょう・・・富村 隆雄

 今や禁煙は世界的兆候から日本へ、そして都市から市町村までいくつもの喫煙禁止区域の設定を目指した条例を進めているところが多くなってきました。

 喫煙者にとってはさぞかし息苦しいことだと思います。

「どうしてかって」これは煙に巻かれているからか。

ではなぜ悪いのか考えてみよう。

1 ポイ捨ての問題

2 歩き煙草による安全面の危害

3 本人の健康

4 母子への影響

5 受動喫煙による健康等などが考えられます。

 さて、毎日煙草を吸うと一生でどれだけ焼いて捨てているか計算したことがないので、ついでにやってみましょう。

 現在の価格で1箱300円として

 1月に300円×30日=9000円

1年で108000円になります。

 50年吸うとして、約540万円になります。

 煙草を吸っている人をよく見かけます。車や自転車を乗りながら、そしてポイ捨て、喫煙は自分の健康問題だけではありません。

 地球環境や家族のことも考えて吸いたいものです。

 ついでに煙草についての民謡を2,3紹介してこの稿を閉じよう。

むつれくさ とぅりょうに  睦れ草をとって

むつれろに しりば     睦れようとすれば

えんぬねじ さらめ     縁がなくてだろう

むつれぐるさ        睦みにくい

わすれくさ とぅりょうに  忘れ草をとって

わすれろに しりば     忘れようとすれば

うまいまさり まさり    思いが勝って

わすれぐるしゃ       忘れられない

ゆなか みぬさみてぃ    夜中目が覚めて

にぶららぬ ゆるや     眠れない夜は

ちしり ひきゆしてぃ    煙管を引き寄せて

たばくぅみしょれ      煙草を召し上がれ

 奄美では煙草の別名を「思い草」「忘れ草」「睦れ草」等と称して男女の情を交わす手段であったり失恋や人生の憂さを晴らす手段として愛飲、嗜なんでいたことが伺えます。

 奄美でも日本でも江戸時代から喫煙、煙草栽培を厳しく禁じていたが、あまり守られなかったようだ。

 禁止の理由は

1 火災の可能性が大である。

2 本土では水田耕作地の減少、奄美では砂糖きび畑の減少ときび畑の手入れが疎かになる等が主な理由で、現在の健康上の理由は記録に見当たらない。
尼崎在住  富村 隆雄


   平成20年5月「上嘉鉄魂」第120号 掲載

ラベル:禁煙 富村 隆雄
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2009年02月21日

揺れる市町村合併・・・友岡藤市郎



 平成の大合併、喜界町は単独で合併しない方針ですのであまり関心がないことでしょう。 しかし鹿児島本土では、合併に賛成・反対で住民発表までしており、まだまだ先が見えない状況です。

 私が住んでいる喜入町は揖宿郡から鹿児島市に合併しました。役場は支所となり町長や」教育長も無くなりました。

 役場職員も減りました。その代わり専門職員が本庁から出向いてくるシステムです。無駄を省く狙いです。

 合併に不満の多いが長い将来を考えると税金など住民の負担は単独より少なく専門的サービスも多いと思います。
 国の施策・合併に賛成しなければ、補助事業や地方交付税などなんらかのペナルティ(罰則)が有ることでしょう。
 現在でも農業関係事業では減反政策(水稲の作付を減らす)に非協力的市町村は、補助事業をカットするということで割り当て面積を努力して100%達成が続いています。


 無駄を省きながら住民へのサービスは今まで以上にしたいのが平成の大合併の狙いです。
 参考までに平成十六年四月現在の県内町村職員録で人口や職員数を比較して見ました。 町名    人口     職員数
喜界町 九〇〇〇人 二一四名
喜入町   一三〇〇〇人 一五九名
 笠利町   六九〇〇人  一八四名
また町議会職員は、喜入町十八名が合併によって一人の市議になりました。それは鹿児島市人口五五万人で市議が五〇人に基づいた事と思います。

 薩摩川内市は、離島を含む八市町村が合併しました。合併によって今までの「郡」や県の出先期間・学校などの統廃合までも発展しそうです。
(編集から原稿依頼がありましたので、参考までに話題を提供しました)喜入町 
      友岡 藤市郎


      平成17年3月「上嘉鉄魂」第82号 掲載


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2009年02月19日

句集 憧憬喜界島が南日本新聞に・・・友岡藤市郎さんも



 南日本新聞(2009.02.19)の「かごしま俳句時評」に『憧憬喜界島』が掲載されていました。嬉しくなって記事にしました。

 姉妹サイト「うもーりよ!「結い」の島・喜界島へにも紹介しました。次の文字をクリックするとリンクします。
句集「憧憬喜界島」を発行 
 


得田 武市・友岡 藤市郎・石原 百合子・得田 洋子の4氏による郷里喜界島を望郷する内容の句集です。

 出版社は、博文社印刷です。

 友岡藤市郎さんの編集後記から抜粋します。

我々が戦争を覚えている最後の歳かも知れない。忘れ去れようとしている戦中戦後の生活、風情、またふるさと喜界島への想いを五七五の十七音で詠んでみました。

 みなさん書店でお買い求めください。まだアマゾンには掲載されていないようです。応援してね。

 友岡藤市郎さんの関連記事は、コチラからどうぞ。

 下記をクリックするとリンクします。
http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/112571878.html

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/114066767.html

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/111494471.html





doukei090219a.JPG



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2009年02月18日

懐古・異郷の地に生きて V (後半)・・・秋田 秋貞



 最初の慰労会のことでした。私は宴が始まる前に女将シゲに固く、

「予算内で接待してください。酔っぱらうと皆勝手に追加、追加という筈だから、その時は私の許可を得てください。もし許可のない追加分はお支払いしません。」

と申し渡しました。

 一方、女将からは

「酒癖の悪い人がいたらアナタの方でおさめて下さい」

とのことで私は承知しました。女将の言葉通り酒癖の悪い大男がいてその始末に苦労しました。

 私は彼を家まで送り届けまたH亭に戻りました。途中転んだり起こしたりの繰り返しで散々でした。

 宴が終わってみると予算オーバーです。私は約束通り、追加分は払わないと拒否しました。「払え」「払わない」で女将と問答しました。

 私は予め予算外の金子は持っていましたが、意地をはって頑固に拒否しました。

 女将は
「お金を持っているのに払え」

 小生
「イヤ約束通りだ」
と何度も何度も押し問答しました。

 あきれた女将は、
「男らしくない何と頭の固い人か」

 小生
「どうしても取りたいなら明日会社に取りに来い」

 女将
「明日払うなら、今日払ってもいいじゃないか」
と執拗に食い下がったが結果は私の勝ちでやむなく諦めました。

 翌朝会社に出勤してすぐ女将に電話しました。

「取りにこなくてよい。私が昼休みに持って行くから昼食を作っておけ」

と命令調に伝え、昼休みに持参しました。

 これがもとで以後信頼され遊びに行く度に
「夕食は済みましたか、どうぞ夕食をいただいてください。」
と夫婦の居室に呼ばれ夕食をいただきました。喧嘩もいいものです。


 70余年の人生の中でこんなに意地をはったのはこの1件だけです。若い頃の頑固な私も今は神様です。

 私が女将と和解したことを馴染みのY嬢も喜んでくれ、以来我が家のように気軽に出入りさせていただきました。

 互いに心が通じ合えば人情ほど尊く美しいものはありません。一度心の中に深く染みこんだ人情は幾く年の歳月を経ても忘れられず、延々と生き続けます。H亭の女将さん遊女の皆さんありがとう。

 どんな享楽の中に生きていても私の真の心の安らぎは故郷(生まれ島)です。幼少から少年期まで育んでくれた故郷への心の思いは筆舌ではうまく表現出来ませんが、心の故郷です。

 これは何も私一人だけでなく島外に在住する島人たちの共通の思いであることは申すまでもありません。

                    沖縄在住 秋田 秋貞


平成17年5月「上嘉鉄魂」第84号 掲載




ラベル:秋田秋貞
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2009年02月17日

シマの皆さんへ・・・前島啓二

                      名瀬市 前島 啓二

 「ミシンハトゥ 三ベエ カダン イチュウ」

 私の心に残るシマユミタです。「先祖へ供えたご飯を三杯食べた勢い(元気)」という意味の上嘉鉄の方言で、何か嬉しいことに挑戦する時に唱えると、不思議と勇気が出て自然と力が湧き出てきます。

 それは日頃ウハウジ(ご先祖様)を信仰しているからだろうか。

 さて、季節はずれの話ですが、夏休みのこと。名瀬市の奄美文化センターの下には数年前築造された船溜まりがあり、北側は高い防波堤になっている。

 中高生くらいだろうか泳いだり、防波堤から飛び込みをしている元気な少年たちがいた。海面からの高さは優に5mはあるが彼らには格好の飛び込み台である。

 下には基礎石等もあるだろうし、危険性は十分憂慮されるが、私はそれを言うつもりはない。私は子どものころのことを思い出した。

 私は小学校三年生の時、大阪から引っ越してきた。その時の夏のこと。シマの習わしでお盆の13日の朝早く(今はしていないようですが)7月7日に揚げた七夕竿を海に流すのです。

 流すのは子ども達の仕事だ。私も初めて友達と七夕流しに行った。

 私たち東地区の子ども達は、上嘉鉄泊(ハティツ ドゥマイ)のすぐ東側沖のエーナビという小さな入り江の崎に七夕を流すことになっていた。

 これまで大阪の港を見てきた私には初めて目にするシマの朝の青くとてつもない広い海と水平線に朝の太陽がきらめく光景にすごく感動したものである。

 七夕を流して泊の東側を通って帰った。泊は巾着袋のようで外海との潮の出入りする所があった。そこは小さな海峡の様になっている。

 深さも結構あった。子ども達はその海峡の岩上に来た。そこで何と先輩たちが裸になりだした。この岩は海面にハァトゥ(突き出る)になっている。これが絶好の飛び込み台である。

 シマの泳ぎ達者な先輩たちは、「ミシンハトゥ 三ベエ カダン イチュウ」と響きのある声で唱え我先に泊の海へ飛び込んだ。




 早朝のシマの泊でこの光景は、私が初めて見る感動の飛び込みというもので、今でも心に残る故郷上嘉鉄泊での思い出の一つだ。

 自分もいつかあの泊で飛び込みをしてみたいと思っていたが、その後戦争が始まり遂にするコトも見る事もなかった。

「ミシンハトゥ 三ベエ カダン イチュウ」を一度だけ唱えてキョラのハテツドマイで飛び込みをしてみたかったけれど、既にかなわぬ歳となった。儚い「ウムイ」と懐かしい「シマユミタ」を心に残しておきたいものだ。

 最後に去る8月18日の村祭りに名瀬の仲間と参加した折には、久々のシマウンミに集落の皆さんの豊かな顔とキョラの心で歓迎していただき本当にありがとうございました。

 別れの時、バスの入り口から「行きゅんにゃ加那」が流れてくると懐かしく、自分たちが遠い異国から来ているような感じになり、日頃のご無沙汰を恥じ入る気持ちで一杯となった。

 短い時間でしたが、シマのみなさんの融和と伝統の八月踊りを愛するご婦人方、シマの発展のため力を注いでいる青年団諸君の姿を拝見し嬉しく思いました。

 すばらしいシマ帰りの旅でした。願わくは永遠に平和で発展する上嘉鉄でありますよう祈念申し上げます。


平成11年11月「上嘉鉄魂」第18号 掲載


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2009年02月16日

はてぃつ泊まり・・・前島啓二

 宿泊した家が泊まりに近い家であった。朝早く目が覚める。まだ十分夜はあけていないが家の門を出るとすぐ仕明。

 久しぶりに見る仕明。昔はハラ(芋づる)の苗床と野菜畑だった。今は一面砂糖甘蔗畑である。

 久に来し島の仕明やキビの風

 仕明は砂地のうえ人家に近いのでこやしが効いて、砂糖キビがよく伸びる。道路脇に倒伏養生の棚が作られているほどであった。

 土地改良された仕明の中央を東西に県道並みの舗装道路を通る。サトウキビに緑葉から吹き寄せる海風は正にシマの香りであった。

 左右の砂糖キビの葉も海風にそよぐ。森山良子の砂糖キビの歌「ザワヮ・ザワヮ」を口ずさみながら歩いていた。

 泊まりはこの辺だがと、思うが砂糖キビにさえぎられて泊まりが見えない。少し行くと目の前に陸揚げされた古い漁船が見えた。




 昔、この付近は石積みのスゥドメ(潮止)があったところだが、それらしい跡形も見当たらない。

 泊まりに下りて船着き場のコンクリート舗装の周りが異様に目につく高い防波堤。その中に立つと身のすくむ思いがする。然れど心は無性に、おだやかだった。

 泊まりに立ち高き堤に朝日映える

 泊まりの東西の海岸から上の方に百メートルくらいのムタと言われる岩場から集落との間が仕明。その仕明は低地になっているので、台風波がスゥドメやムタを越えると海水が仕明を水浸しにするのである。

 潮水害で芋づる等の作物は全滅である。特に芋の植え付けができない。その年の冬にかけてのハンスウ不足になるのであった。

 僕が物心ついて、シマを離れるまでの十年くらいの間で大きな台風波で石積みの潮止が崩壊して、海水が上がり、仕明一帯ウス水につかったことが2,3回あったように思う。

 その都度、壊れたスゥドメの積み直しに村中で普請、ハタミオーダー(砂や石を入れて運ぶ道具)等持って祖父が出かけていったのを覚えている。

 今頃は「セメント」が兎に角いわれている世の中であるが、はてぃつ泊まりのセメント造りの防波堤は、どんな強い台風波にも壊されることはないだろう。いつまでも仕明の砂糖キビがザワヮ・ザワヮと伸びて。

 おいしい喜界島のサァターが豊作であることを願う。さわやかな朝の散歩であった。

前島 啓二


平成14年11月  「上嘉鉄魂」 第54号 掲載
ラベル:前島啓二
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2009年02月13日

懐古異郷の地に生きて V(前半)・・・秋田 秋貞

 さあ再度の来沖です。仕事と寝間をさがさなくてはなりません。1週間近く叔父の間借り先に同居しました。

 仕事は意外に早く見つかりました。今度も同じく内地の土建会社S社で米軍工事です。

 前の会社の同僚たちが大勢いました。ここでは事務的な仕事は少なく労務者の管理と仕事の段取りが主でした。事務所は6〜7名の少人数です。

 看護師のK嬢は私の毎日違う服装が珍しいようで「秋田さん、一体何着もっているの?」と聞く、又事務員のU嬢は「いつも服装を奇麗にしているのは武田さん(内地人社員・安全係)と現地人では秋田さんの二人だけ」と身だしなみを評価してくれました。

 6月頃、級友の石原忠男くんが現場で転んで脊椎を痛め入院しました。私は毎月何度も見舞いに行きました。

 会社や他の人たちの見舞いも少なかったようで、彼は私の来院を心待ちしているようで喜んでくれました。そのうち会社も私を世話係として認めてくれました。




 6ヶ月以上の入院でも病状はよくならず、悪くなるばかりで彼は「田舎に帰りたい」と弱音を吐きました。

 私は彼の母に手紙を書き、帰郷について会社からの一括払いの補償金の交渉、その他一切の委任を受け12月9日、彼を背負いタラップを上がり、彼の生家先山まで連れて帰りました。

 帰郷1週間後、その甲斐もなく彼は亡くなりました。無念でなりませんでした。彼の七日忌を終え、31年1月沖縄に戻りました。

 その時、妹文子を同伴しました。沖縄で洋裁を習得させるためです。この職場でも旧知の仲間たちと楽しく過ごしました。

 然し、どんなに楽しくても初来沖以来1日たりとも田舎のことを忘れたことはありませんでした。早く帰りたいと郷愁の毎日です。

 仕事も安定し時間的にもユトリができ労務班長のA氏に連れられてネオン街に足を踏み入れたのはこの頃からです。

 A氏の近くのH料亭に二人でよく遊びに行きました。班の慰労会や忘年会などは全てH亭で開きました。


ラベル:秋田秋貞
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2009年02月11日

俳句・・・友岡 藤市郎

 今年の猛暑を顧みて

 指宿在住 友岡 藤市郎

■ ふるさとは 砂糖生むくによもぎ餅

■ 南向きて特攻の花ひらく夏(特攻花=天人菊)

■ 玄関を灯すあかりや百合の花

■ 土浴びの仔雀(こすずめ)

■ 小西瓜に日付入れたる日曜日

■ 足跡に ひしめく蝌蚪(かと)や 休耕田
   蝌蚪=おたまじゃくし

■ 縁蔭や長椅子を置きて友を待つ

●川柳

 ・空港で子ら見送って盆終わる

 ・ヒヨドリも地産地消の味覚え

◎ 見たまま、感じたままそのまま、表現しました。

 愚作ですが、ご笑覧くだされば光栄です。


平成15年10月「上嘉鉄魂」第65号 掲載



ラベル:友岡藤市郎
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2009年02月08日

懐古・異郷の地に生きて U・・・秋田 秋貞

 事務所には、それぞれの個性をもった5人の美女事務職員がいました。全員私より2歳以上の年輩でした。

 その中で私より6歳年上の渉外係のM嬢に心を惹かれました。他の彼女たちが私たち二人が仕事の上で接するのを好ましく思わずM嬢の悪評を私に告げますが、私は全く気にしませんでした。

 二人は互いの心中を告白していません。私は田舎に婚約者がおり背信行為は許されません。「君子危うきに近寄らず」です。

 私の入社から2ヶ月後M嬢は突然退社しました。私の心の中にポッカリ大穴が空きました。以後私の心を動かす女性に巡り会いませんでした。

 会社の近くは一歩出ればネオン街の不夜城です。酒も飲めない、煙草も吸わないダンスもできない私はシャンシャンと輝くネオンの誘惑に関心はなく一歩も足を踏み入れたことはありませんでした。

 年中無休の仕事の中で唯一の楽しみは、給料日の午後、強いて上司の許しを得ないで休みを取り、田舎への送金と那覇に出て洋服(アメリカ古着)を買うのが月1回の休息日でした。

 那覇の平和通り沿いのガーブ川の水上店舗には古テント屋根のみすぼらしい佇まいに似合わず沢山の食品が軒を連ねていました。

 好物の餅の前を通るとノドが鳴ってヨダレが出そうです。でも我慢して手を出しませんでした。又どんなに腹が空いていても食堂に入らず宿舎で食事をとることにしました。

 それは1銭でも多く金を残したいというケチケチ根性と田舎の家族の貧しい食を思うと一人だけ美味しいものを食べることを心が許しませんでした。

 その代わり服は金を惜しまず好きなものを好きなだけ買いました。普通の人の1ヶ月分の給与に近い買い物をするので市場の小母さんたちの間では評判だったようです。

 余程、金持ちに見えたのかもしれません。又事務所の女子事務員たちも「秋田銀行」とあだなされた一時期の思い出です。

 おしゃれも父の血を受け継いだのかもしれません。そんな栄華も2カ年近くのつかの間のことでした。日々楽しい生活の中に異変ともいえる奄美群島の日本復帰が実現しました。

 来沖6ヶ月後の昭和28年12月24日のことです。私たち奄美の人々は社内の広場で祝賀会を開きました。

 奄美の人々には慶賀ですが在沖奄美人にとっては大きな災難でした。一夜にして全ての権利が剥奪されたのです。

 非琉球人としての外人登録、公民権、公務員への就職、子ども達の国費留学、送金制限、資産の取得、渡航の自由などの権利を失い以来苦難が強いられました。


 明けて29年1月私たち分場事務所は本部事務所に合併しました。工事が一段落したからです。

 長時間の残業もなくなり、随分楽になりましたが、従業員の退社が終わるまでは帰れません。いつも夜8時以降です。

 食堂の閉店時間で、会社員の中で私が最後です。現地人の風呂は汚れているので、隣りの内地人専用の風呂にだまって入浴しました。

 毎日帰りの遅い私に同情して食堂の小母さんたちは現地人用のB券で内地人用の上等のA食券を与えてくださいました。

 人にはみんな美しい情があります。私はそのお返しに給料日にはお菓子や果物を買って返礼しました。懐かしい顔顔が昨日のように浮かんで参ります。

 8月ころになるとやっと5時半ころには帰れるようになったので、待望の夜間の英語塾に通い、10月終了と同時にタイピスト学院に入塾し、英語、珠算、簿記を学びました。

 学校時代一番苦手だった珠算もいくらか上達しました。終了間近の12月4日突然、
「チチシス」
の電報を受け、大急ぎで帰郷の準備をしましたが、何分にも前述した渡航の自由がなく、旅券発給申請〜許可まで3,4日要し、島に帰ったのは1週間後でした。

 在沖1年7ヶ月ぶりで最初の帰郷です。父72歳の生涯でした。

 生活費にユトリがあったので3ヶ月近く滞在し翌30年2月末、再渡沖しました。人にはそれぞれ苦楽のドラマがあり、楽しい思い出は私一人のものではありません。

 前稿より自分の自慢話のように書き連ねましたが、私の青春の日々が楽しく過ごせたのは何よりも私の病気の時、高熱に苦しむ私の頭に徹夜して水をかけ続けてくださった宮古の平安山カメ小母さん、その後左肩、左上腕の痛みに苦しむ私にヤイトやマッサージの治療をしてくださった弟の平安山 寛令さん。

 患部に麦粉を酢で練って貼ってくださった宿舎の小母さんたち、又良い上司、同僚に恵まれたこと、さらに多くの仲間、多くの沖縄の方々の厚情の賜でありこれらの方々に感謝の意をこめ筆を執った次第です。

            沖縄在住 上東出身 秋田 秋貞



              平成17年3月「上嘉鉄魂」第82号 掲載
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2009年02月07日

よろしくお願いいたします。

 10月1日付けで上嘉鉄郵便局長を拝命し、10月3日赴任して参りました。湯浅載一(ゆあさ としかず)と申します。

 これから、地域の皆様方に大変お世話になると思いますが、よろしくお願い申し上げます。

 昭和29年生まれの51歳です。東京7年、鹿児島14年、喜界島11年目で上嘉鉄郵便局に落ち着くことができました。

 上嘉鉄では、はたしてうまくやっていけるだろうかと一抹の不安を持っていましたが、その不安も1週間で消えさりました。

 というのは、町民体育祭で嘉手浦のテントの横で観戦していたところ、気さくに声をかけていただきホッとしたところへ、反省会のお誘いもあり喜んで参加しました。

 その懐の深さに感動し何とかやっていけそうな自信がつきました。


 今月14日、特別国会において郵政民営化法案が可決されました。上嘉鉄郵便局は大丈夫だろうかと危惧されている方もいらっしゃるかと思います。

 そのようなことがないように地域の皆様と連携を図りながら、最大の努力をしてまいります。

 郵便局は、地域の皆様に愛され、信頼され初めて存在意義があるものと思います。地域あっての郵便局であり、お客さまあっての郵便局であると常に考えています。

 そのためには、ご利用し易い環境作りを心がけてまいります。ご忠告、ご助言いただければできる限り改善していく所存でございます。

 今後とも地域の上嘉鉄郵便局をご利用いただきますようお願いいたします。

 最後になりましたが、3ヶ月にわたる局長不在で嘉手浦校区の皆様には、ご心配とご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。

             上嘉鉄郵便局長 湯浅 載一


          平成17年11月「上嘉鉄魂」第90号 掲載
 
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2009年02月03日

懐古・異郷の地に生きて(T)・・・沖縄 秋田 秋貞

 学校の教師を退職して、渡沖したのは、昭和28年5月8日でした。

 満20歳になったばかりで、生まれて初めての島外の旅で不安と希望(夢)の交錯する複雑な心境でした。

 大志を抱いて、異郷の地に青春の夢をかけた旅立ちです。

 5月雨けむる沖縄の地に足を踏み入れたのは、一昼夜の海路の旅を経て、翌5月9日の午後でした。

 田舎では全く想像もしなかった島の大きさその他全てが隔世の世界でした。戦禍の跡は生々しく残っていましたが、復興の槌音は高く、人々の顔は明るく活気に満ちていました。

 私は、不安よりも夢が大きく膨らみ、胸が高鳴りました。

6ヶ月、米軍工場の不眠不休の土木工事に従事しました。重労働で手足に多くの水泡ができ、それがはじけて痛むのをこらえ、土埃がもうもうと舞い上がる路上の炎天下で黙々と働きました。

 それは決して苦にはなりませんでした。何故なら、毎月田舎の家族5人(父母妹3人)の生活に事欠くことのない金子が送金できるからでした。

 早朝からの作業と夜半近くまで突貫工事で、宿舎に帰る時間もなく作業現場の路上に雑草をむしりとり、その上に寝る夜もしばしばでした。

 作業はつらくてもまた楽しかった。それは同郷の(上嘉鉄)の先輩・後輩たちが多く、親しく一緒に仕事ができたからです。

 そのため、ホームシックもありませんでした。こんな土方仕事で学校の給与の3倍の収入があり、私にとっては楽園に思えたのです。

 6ヶ月後、同郷の嘉村茂照氏のお手引きにより、待望の事務職に就き今までの倍以上になりましたが、忙しくて毎日3〜4時間の睡眠でその上年中無休の重労働でした。

 そのせいで健康をそこね苦しみました。英語も話せず、タイプも打てず、手回しの計算機も使えず、誠に恥ずかしい身でした。

 が、少しばかり文字が書けたのと、事務処理を評価され新米ながら上司や事務員からラブレターの代筆を頼まれたり、社員(内地人)の年賀状の宛名書き、その他諸々の書き物をさせられ懐かしい思い出がたくさんあります。

 毎日が楽しくて楽しくて夢のようでした。救急室には、色白で美人の看護婦さんがいました。その事が楽しさを倍加させたのかも知れません。私の70余年の人生の中で一番楽しく幸せなときでした。

 さて錦を飾って島に帰りたいとは大袈裟ですがいくらかの財を貯えて早く帰郷したいと思っていましたが、その夢は果たせずいつの間にか在沖50年という現代の浦島になってしまいました。




 又、故郷の弥栄を祈りながらも何の役にも立てなかった心が痛みます。

 60歳を過ぎたころから、無性に田舎で定住したいという思いが高まってまいりました。別に田舎に昔懐かしい恋人がいるわけでもありませんが!

 かつて

「生まれ島を忘れるな」

 との父の生遺言がひしひしと感じられます。私の父50近くになってから、大阪の大都会の生活を捨てて田舎にただ一人戻って参りました。何か通ずる思いがしてなりません。
 
 去年6月、教え子たちが大阪で私の為、謝恩懇親会を開いてくれました。50年ぶりの再開でしたが、時を超えて、なお心の温かさを感じました。

 15年ぶりの大阪で右左全く分からず汽車、電車の乗り降りもできない田舎者の私は、大阪在住の異母妹が終日付きそい事なきを得、私にはやっぱり田舎があっていること痛感しました。

 70を過ぎ、懐古にふける日々ですが「夢無限」欲張りの夢が私の生きがいです。50年前は二枚目半で紅顔の美青年でしたが、只今は4枚目半に落ち、もう誰も振り向いてくれません。

 誰が名付けた百乃台 眼下に広がる海原広く、磯うつ白波島を彩る

 何時の日か沖縄を去ることを決めています。島の人々と故郷で生きたいと望んでいます。
在郷の皆様、どうぞお元気で年越しください。

沖縄  秋田 秋貞


平成17年1月「上嘉鉄魂」第80号 掲載






ラベル:秋田秋貞 沖縄
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2009年01月31日

ウラミサヤ税務事件・・・前島啓二

前島 啓二
 はじめに、本紙「上嘉鉄」第25号に西島氏の「税務事件について」の掲載がありました。

 かねがね毎月号にシマの習俗やムン話等の調査研究されており大変興味深く、毎回楽しみに拝読しております。

 ところで、「税務事件について」は資料はなく十分な調査研究は不可能だった。ただ発生年は大正末〜昭和初期頃で現在85才になる古老の記憶を頼りに調査をしたとのことであります。

 しかし事件の根拠となる法的要因については詳細に調査掲載されております。

 私が祖父から聞かされた話。この事件については、祖父から折りにふれ聞かされ、私にも深く関わりがありましたので周知していることを申し述べたいと思います。

 実は私の家は祖父・父・叔父の親子三人が関わったのでした。事件当日、叔父が20歳の徴兵検査で名誉の甲種合格、出征するにあたり母方の実家にマカネーカマシ(送別宴)に昼間に招かれ飲食の最中にブラー(法螺貝)の吹鳴で親子3人と母の兄共々事件に荷担したのであった。

 (昔、上嘉鉄集落では、人の行方不明や海での遭難救助等何か大事な集合合図としてブラーを吹鳴したのである)

 事件の発端については西島氏が解説してあります。(農家は自分が生産した砂糖を1円の税金を支払って食する不都合に憤りを感じ1年間の自家用砂糖を税金を払わないで確保したい気持ちで床下、高倉等に隠匿したのだと思う。

 税務署は隠匿した砂糖を摘発するために不意打ちに来島し家宅捜査し、違反者を摘発して第12条の罰則を適用するのです。

 連帯共同意識の強い上嘉鉄住民は税務属が家捜しを始めたと知るや誰かがブラーを鳴らして大人数を集め公務執行妨害らしい事をしたと思われる)

 と西島氏は記述してあります。確かにその通りだと思う。

 さらに祖父の話では、税務属は家捜しをする時に家屋内に土足(靴足)で上がり込む横暴な仕草に住民が憤怒したのも起因の一つでもあったようだ。

 税務属は、集落民の妨害を受け帽子や靴を剥ぎ取られながらハニク伝いに命からがら山川ビラから逃げるように湾へ帰っていったとのことであった。

 後に警察での取り調べの中で税務属は、お前が帽子を取ってアダン山に投げた。お前が靴を取って投げた等とよく覚えていて証言したとのこと。

 この裁判は不幸にして鹿児島で裁判を受けることになり、全員で弁護士を依頼したのです。鹿児島往復の旅費や弁護士の費用等が莫大であった。

 裁判の結果は無罪、これは全員無罪だったのかほかのものはどうだったのかは祖父から聞いていない。

 祖父はこんな話もしていた。
「無罪で良かった。子孫のため戸籍に赤線が引かれずにすんだ」
と神妙に話したことが強く印象に残っている。

 こうして我が家は3人分の裁判費用を支払う羽目になったのです。他にも1所帯で二人も三人も関わった家庭があっただろうか。

 残念ながら我が家は全財産、田畑・家屋敷を売り払った。以前は家屋敷も集落の中にあったが、私が子どものころは「ハニクンハター」といわれる共有地の小さな家に住んでいた。

 父は借金を取り返すため都会へ出稼ぎに行ったが家族持ちでは思うように稼げなかった。叔父はお国のため出征して、戦地で惜しくも足を負傷する。

 あとで家だけは、私夫婦が少しましな家を建てたが、元の屋敷を取り戻すことはできなかった。

 祖父は無念の思いで生涯を終えた。正に「ウラミサヤ税務事件」であった。

 発生年については叔父は明治43年生まれですから、徴兵検査の20歳で計算すると昭和5年になります。

 然し別の話では昭和2年に子どもが生まれた年に事件があったという話もある。結局真相は分かりませんでした。

 因果なもので、私の長男は大阪で税務署に勤務している。息子よ職務に忠実であり、土足で他人の心に傷をつけることがないよう望んでいる。


平成13年3月「上嘉鉄魂」第34号 掲載

  関連記事はこちら

税務事件について・・・西島常吉

 



いいもの王国
 
ラベル:税務事件
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2009年01月25日

五・七・五の遊び・・・友岡 藤市郎

※ 俳句

 ・野菊咲く岬の果てに震洋碑

 ・亡き夫の服着て立てり案山子かな

 ・大輪を褒めて帰れり配達子

 ・廃校の掲揚台や蔦紅葉

 ・柄に響く鍬の一撃芋哀れ

※ 川柳

 ・ダレヤメにまた飲み過ぎて二日酔い

 ・いやいやとコップ差し出すど飲んべえ

 ・老人が老人のため敬老会

 ・運動会カメラが走る児が走る

 ・ごめんごめん孫の名をまた間違える

 いつも楽しく拝読しております。お礼申し上げます。

 退職後、五・七・五に入門しました。島のニュースも大事ですが、時には心安らぐ俳句や川柳はどうでしょうか。編集裏面に利用してください。
      鹿児島市喜入町在住 友岡 藤市郎


平成17年12月「上嘉鉄魂」第91号 掲載

 昨年(平成20年)に友岡 藤市郎さんたち俳句同好会から
「憧憬喜界島」が出版されました。この記事をご覧になっていない方は、関連サイト下からどうぞ。

「句集 憧憬喜界島」






ラベル:五・七・五
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ハティトゥ(上嘉鉄)の人情・・・生田 徳造

 久しぶりにお盆に帰省した。飛行機から一歩降りると強い日差し。さすがに暑い。島に帰ったんだなあと実感した。

 我が家へ向かう車窓から見える一面のキビ畑の緑やヤンガービラから見る海の青さなどが豊かで島の自然が健在していて嬉しくなった。

 翌日はお盆の墓地の清掃が朝8時から行われた。雑草を取っていると、

「いつ帰ってきたか?」「子どもは連れてきたか?」「チバタヤー」などと通りかかる人が声をかける。

 ひさしぶりに帰ってきてそういう風に声をかけてもらうとホっとする。何気ない会話だがすごく人情を感じる。島の良さはそういうふれあいを大事にするところだと思う。

 どこでも誰とでも出会ったら、まずは挨拶。

「仕事は忙しいですか?」

などと相手の様子を伺う言葉を交わす。相手を思う心があるからこそできるのだと思う。大切にしたい。

 父は3月から一人暮らしをしているが、親戚はもちろん近所の人がいろいろと声をかけてくれるので、とてもありがたい。感謝の気持ちでいっぱいです。

 島では、青年団による盆踊りや地区対抗のソフトボールや野球大会、八月ウンミ、9月ウンミ、ウヤンコー(高祖祭り)敬老会など地域ぐるみの行事が盛りだくさんある。
 
 それらの行事に集落の人みんなが喜んで参加している。それは、主催する人たちの努力があるからだが、普段からのコミュニケーション(ふれあい)も大切にしているから(お互いの気心がわかるから)ではないかと思う。

 気の合う仲間といっしょに参加する楽しさが2倍、3倍となる。

 老若男女を問わず気心の通い合う上嘉鉄にエールを送りたい。

           牧ノ原中学校 勤務 生田徳造


平成17年9月「上嘉鉄魂」 第88号 掲載





ラベル:人情 上嘉鉄
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2010年05月13日

第90回、敬老会に思う

 去る1月3日、恒例の敬老会が上嘉鉄小学校体育館で盛大に開催されました。今回は第90回という記念すべき年でしたので集落も記念タオルを作って盛り上げていただきました。

 敬老会は初敬老の方だけの為だけにあるのではないのですが、やはり主役は初敬老者です。今年は該当者は6名でしたが参加されたのはわずか1名でした。

 90回も続いてきた集落の伝統行事、しかも集落民にとっては年始の賀詞交流会も兼ねた意義ある行事。この超多忙な時期に正月早々招待を受けた来賓の方々、主催者である集落役員、青年団そしてさらには祝いの場を盛り上げるため余興の準備や練習に何日も費やしてきた壮年団や婦人会のみなさんのことを考えると確かにもう少し参加者が多くてもよいのでは?と思います。

 「そろそろ形式を検討する時期では?」

との意見が多く出ていることから、今回は「余計なお節介」と批判されることを覚悟で敬老会について皆さんと一緒に考えてみたいと思います。

 その前に、先日小野津の友人より興味深い話を聞きましたのでご紹介します。

 近年小野津でも島外で子や孫そして兄弟姉妹と祝う人が多くなり小学校体育館で行われる敬老会はここ3年間初敬老者無しで行っていたそうです。

 昨年8月、初敬老者6名の内4名が

「子どもたちや集落民に負担をかけないでお祝いができないか?」

 話し合いました。

 そして新しい企画を集落常会にはかり承認をもらいました。その企画とは例年通り小学校体育館で敬老会を開いてもらった後、場所を神宮公民館に移して午後5時から9時まで合同で自分たちの敬老祝いをしようというものでした。

 両区長に7日前、3日前そして前日と集落放送で「合同案内」をしたところ137名も参加してくれたそうです。

 初敬老者6命中4名がこの合同祝いを主催(1名は島外へ1名は自宅でお祝いをしたそうです)

 お客からは500円の会費を頂き、盛り皿、お酒、カラオケ等を準備。かかった費用は4名で負担しあいました。

 当初は会費なしにしようとも考えていたそうですが、お互い気兼ねしないように会費制にしたとのこと。

 前日は婦人会の皆さんがテーブルセット等を手伝い、当日は新成人の若者や還暦組も合流し歌や踊りで大変な盛り上がりだったとのことでした。

 初敬老者からは、金箔吟醸酒3本がお客様に振る舞われ、盛り皿も小皿に小分けして配り、お祝いにきていただいたお客さんからも

「いいことをしてくれた。何軒も家を回らずに同時に初敬老者のお祝いをすることができて良かった。来年も是非!」

 等多くの方々に喜んで頂き大変好評だったそうです。

 小野津集落の場合は初敬老を迎えるご本人から合同二次会を企画し集落が協力する新しい形を創り上げました。本当に余計なお節介ですが伝統ある上嘉鉄敬老会を更に盛り上げるため、90回を迎えたこの節目の年に来年初敬老を皆さんと集落代表の皆さん双方が同じ目標のために協力してよりよい方法を創りあげては如何でしょうか。

 時代が変わり、男性のみならずご婦人方も敬老会の翌日から出勤という方も多くなり、主役である本人よりむしろ家族の苦労を考え島外でのお祝いに代える方が多いとも聞きます。

 そうした時代の変化の中、形を変えても残すべき行事の意義を次の世代へと伝えるきっっかけになればと思います。

 時間が経ち過ぎて申し訳ありませんが、今回のテーマに関連して初敬老者代表であいさつをされた上嘉鉄東の前島ミエ子さんの同意を得てあいさつ文を掲載いたします。

  2010.05.12付けの記事はこちら

 ■ 初敬老代表挨拶 ■
        前島 ミエ子(上嘉鉄東)
ラベル:敬老会
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2009年04月05日

ふるさと U・・・秋田 秋貞

 これらの人ばかりでなく、私をはじめ島をはなれて島外に居住している人に共通する。その証に各地で郷友会を結成して互いの親睦と郷愁の念を一つにしている。

 かつて私の父は

「どこで暮らしてもよいが、生まれ島は忘れるな」

が口癖で私に対する生遺言でもある。父の一家は、明治33年父16歳の時、土地を処分し種子島に農業移民として島をはなれたという。

 父はどうしてか、自分の生い立ちや過去(47,8年)について一切私たち子どもに話さなかった。

 父が自分のことについて語るのは、上嘉鉄の駐在所に赴任して来る警察官が警察の先輩として表敬挨拶に来訪する時に語るのみであった。

 曰く「明治37、8年の日露戦争に従軍、乃木大将の部下として旅順攻略に参戦。その後35歳の警察官試験制限年齢で合格、種子島署に勤務しながら警察官採用の試験管として地方廻りををした。

 その後大阪府警に転勤、敏腕刑事として数々の表彰を受けた」

 これが誇らしげに語る父の姿であった。その父が8カ年で退職し48歳?で帰郷、親子ほどの年差(24歳年下)の母と結婚、農業を営んだ。(ちなみに父は二度も離婚していた)島をはなれて32,3年振りに裸一貫、帰郷している。

 農業するなら自ら好んで移住した種子島に帰ればよいのに何故だろうか。つまり父の心の行きつくところは、ふるさと生まれ島だったのだ。

 人生の喜怒哀楽の中に、ふるさとが見える。私もいつか島に帰りたいと思っている。子どもは往々にして親と同じ道を歩むのかもしれない。

 折々の村祭りの六月灯、八月ウンミ、九月ウンミの太鼓の音や唄が脳裏に浮かんで来る。

 私は嬉しさにつけ悲しさにつけ、ふるさとを偲んで小学校唱歌の「ふるさと」を口ずさんでいる。そしてわがふるさとの弥栄を祈っている。島からは、「上嘉鉄魂」が毎月ふるさとの新しい香りを運んできてくれる。

 ふらさとを愛する編集委員の有志に感謝を表したい。

 上嘉鉄魂の発案者であり、八月踊り唄保存会の世話人の生島常範君という情熱的で頼もしい青年がいる。わがふるさと上嘉鉄の星である。誇りである有り難う。

「つつがなしや友がき、雨に風につけても思いいずるふるさと」

 これが私の心の行きつくところである。島人(しまんちゅ)のご健康とふるさとの弥栄を祈る。

                沖縄県宜野湾市赤道 在住 秋田 秋貞



奄美方言―八つの島の五つの言葉七つの呼名 カナ文字での書き方
奄美方言―八つの島の五つの言葉七つの呼名 カナ文字での書き方
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2009年04月04日

ふるさと T

 ふるさと
秋田 秋貞
 私は郷里喜界島を「誰が名付けた百之台、眼下に見下ろす海原広く、磯打つ白波島を彩る」と詠んだ。

 それは奄美百景の一つである百之台が喜界島の代名詞であろう。狭義の郷里(ふるさと)は、上嘉鉄が私のふるさとである。

 いつしか沖縄在住半世紀余、島をはなれたのは、昭和28年5月、大きな夢をふくらませて渡沖した。

「こころざしをはたして、いつの日にか帰らん」・・・と来沖以来、片時も島を忘れることなく郷愁の毎日でした。

 
 そのこころざしは果たせず、平成の浦島になってしまった。浦島太郎はお土産の玉手箱を持ってふるさとへ帰ったが私は持って帰る玉手箱がなく帰れなく沖縄で白髪の翁さんになった。

 子や孫たちに残す財もないので先人たちが残して下さった尊い文化遺産の方言(しまゆみた)を伝承し親(先祖)のふるさとを知る一端として、上嘉鉄の方言3800語を美代イシ姉のご協力を得て、収録した。

 まだまだ多くの未収録語があり満足できるものではない。単に子や孫たちの為ばかりでなく、私自身、急に思い出せない方言が多々あり認知症にならないうちにと大急ぎで作成したものである。

 盛山末吉先生の「しつる村」や上嘉鉄魂編集委員代表の西島常吉先生の方言の語源。語意の解説などの学術的なものと異なって、私はただ日常語を羅列したものである。

 私は、その方言集の初頭に「ふるさと・・・とは人の心の行きつくところ」と書いた。それは私なりの一言での表現である。

 一般的な相場は、「ふるさとは遠くに在りて思うものなり」という。「人の心の行きつくところ」という所以は、ふるさとをはなれて何十年も音信不通の人がひょっこりふるさとへ帰ってくる。

 これは小説ではなく現実である。どんな小島、寒村であっても真に心を癒してくれるのは、ふるさとであるからである。

 この続きは、「ふるさと U」で掲載します。


 
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2009年03月05日

上嘉鉄美化隊倉庫設置について

 2009.02.14に共有地組合役員会がありました。その際に、美化隊の役員の方から次のような文書が出され、共有地管理組合に対して要望がありました。

 それは、今の上嘉鉄駐在所の後ろ(共有地)に、美化隊の倉庫を作るというものです。

 これは「農地・水・環境保全対策」事業の一環で平成19年度から行われているもので今年で三年目になるとのこと。

 1年に300万(上嘉鉄集落全体に)の予算があり5カ年計画だそうです。

 次に詳しい文書を掲載します。共有地に関わる問題ですので、上嘉鉄集落民全員が共通理解しておく必要があります。






上嘉鉄美化隊倉庫について
 
 国の農地・農業用水等の資源の適切な保全管理について

@ 高齢化や混住化等により困難になってきていること。

A ゆとりや安らぎといった国民の価値観の変化への対応が必要なこと。

B 我が国、農業全体の在り方を環境保全を重視したものに転換していくこと

等が求められていることから、地域ぐるみでの効果の高い共同活動と農業者ぐるみでの先進的な営農活動を支援する「農地・水・環境保全対策」を平成19年度から実施しています。


 この事業により、喜界町の上嘉鉄地区に「上嘉鉄美化隊」を組織されており、平成19年度から農道・排水路・環境美化・ライフラインの点検活動を行っています。

 今回、前述の主旨に基づき、集落美化活動・青年団活動・学童教育等における「奉仕」の活動力を次世代への定着した概念を育むためにも「拠点(倉庫)」の設置を考えております。

 倉庫設置においては、集落の共有地を活用させていただきたく、集落内共有地管理組合の皆様をはじめ、関係各位のご理解を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。

 
 この倉庫につきましては、上嘉鉄美化隊において、所有する機材(自走式芝刈り機(H21.3)・道具・消耗品等の保管・管理を行います。

 また、事業終了年度後においては、全ての管理を上嘉鉄青年団に移管することを考察しております。

 【概略について】

設置者  上嘉鉄美化隊(平成19年度〜平成23年)

施行   無償奉仕作業(美化隊・青年団・やらそう会)

設置開始 平成20年度から

設置場所 上嘉鉄集落内
     (上嘉鉄地区振興センター隣接の駐在所裏集落共有地)

設置面積 18坪

設置費用 平成20年度予算

     材料費   ¥500,000

     プレカット手数料 ¥80,000 



上嘉鉄青年団の活動(ウンミ・盆踊りなど)の拠点となってくれそうです。
3月いっぱいで完成の予定だそうで、楽しみですね。


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2009年03月02日

短歌・・・美代 イシ

※ 才なきを省みずして短歌(うた)の門をたたかんとする身の恥ずかしき

※ 脳梗塞身に負うて三年(みつとせ)人生の卒業(おえる)まではせめて呆けまい

※ 吾ながらまさかまさかの脳梗塞神の与えし才月と諾(うべな)う

※ 右ひだり十八回上げて自らの手にて着替えしズボンに満足

※ 走馬灯廻しつつ書く年賀状イス吾の生きてる証(あかし)

※ 年明けてなお前向きに生きようと胸深く誓う車イスの吾

※ 若さ故暮らしの故に過去(かこ)ありき孫四人くれし嫁に感謝

※ 出来るかなやって見ろよと徐(おもむろ)にやって出来たと吾悦(えつ)に入る

※ 目も見えず耳聞こえずデーケアにひと日(ひ)越す汝に習慣(ならい)の握手

※ 戦(いくさ)終(お)え四方八方めぐる六十一年君住む黄泉(よみ)でゆるり語ろう

上中 美代 イシ


平成18年10月「上嘉鉄魂」第101号 掲載


ラベル:短歌 美代 イシ
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私の仕事はボランティア・・・富村 隆雄

尼崎 在住   富村 隆雄
 島を離れて数十年、今第2の故郷が尼崎でまだまだ元気で頑張っております。

 40年近く会社勤めを終えてから、定年後は市のシルバー人材センターで働いておりましたが、今はボランティアが仕事です。

 毎月4〜5回の駅前の啓発キャンペーンと清掃を約1時間します。また、近くの小学校の登下校の見守り防犯ボランティアをしております。

 登下校は約50分、下校時は約90分です。月曜日〜金曜日までで私用があるときは、休みます。

 申し込み時は月・水・金の昼からしておりましたが、数日やっているうちに、子どもたちがいろいろと話しかけてなついてくるので好きになり、今では方々の街角に立って人の流れや行動が分かるようになってきました。

 あいさつをする人、「ご苦労さん」と声をかけてくれる人、「お金いくらもらっているの?」と言われたりもします。

 ボランティアの人員は、その日によって異なりますが、おじいちゃん、おばあちゃん、PTAなど朝は、10人くらい、下校時は7人くらいでやっております。

 さて、そこで子どもたちに

「信号が赤だから待ってね」

と言っているその横から、大人達が平気で渡っていく、最近の大人は?と言いたくなる。小中校生の非行が叫ばれて久しいが、非行の手本を示しているのは、大人の私たちでは?と感じた。

 子どもたちの元気な明るく、素直に交通整理の指示に従っている姿に接すると、子どもたちからパワーを貰ったようで、また交通整理の仕事をやって良かった。明日もこの子どもたちのために頑張ろうと意欲が湧きます。

 なんの取り得もないわたしですが、私でも世の中の役にたっていると思えば、ますます意欲が沸き心が爽快になります。

 以前は、体調が悪く家でごろごろばかりしていたが、ボランティアをはじめてから体調も良くなり生きていることに感謝しています。

 世の中の役に立つ仕事を意欲的にすれば健康になることを悟った。ありがたいことだ。

 それに引きかえ心ない大人は平気で交通違反をし、世の中は自分のおもうままだと言わんばかりの傲慢な顔、「いくらお金を貰っているか?」まるで金のことしか頭にない金の亡者の鬼畜の顔を見るようで仕事の意欲を失い、血圧が上昇し、体調不良をきたします。

 言葉は恐ろしいものだ。人間の心を不愉快にもさせ、意欲をも持たせてくれるとつくづく感じた。

「さあ、今日も行こうボランティアへ、他人が何と言おうと。健康で続けられる間は続けよう」


平成20年2月「上嘉鉄魂」第117号 掲載


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禁煙について考えて見ましょう・・・富村 隆雄

 今や禁煙は世界的兆候から日本へ、そして都市から市町村までいくつもの喫煙禁止区域の設定を目指した条例を進めているところが多くなってきました。

 喫煙者にとってはさぞかし息苦しいことだと思います。

「どうしてかって」これは煙に巻かれているからか。

ではなぜ悪いのか考えてみよう。

1 ポイ捨ての問題

2 歩き煙草による安全面の危害

3 本人の健康

4 母子への影響

5 受動喫煙による健康等などが考えられます。

 さて、毎日煙草を吸うと一生でどれだけ焼いて捨てているか計算したことがないので、ついでにやってみましょう。

 現在の価格で1箱300円として

 1月に300円×30日=9000円

1年で108000円になります。

 50年吸うとして、約540万円になります。

 煙草を吸っている人をよく見かけます。車や自転車を乗りながら、そしてポイ捨て、喫煙は自分の健康問題だけではありません。

 地球環境や家族のことも考えて吸いたいものです。

 ついでに煙草についての民謡を2,3紹介してこの稿を閉じよう。

むつれくさ とぅりょうに  睦れ草をとって

むつれろに しりば     睦れようとすれば

えんぬねじ さらめ     縁がなくてだろう

むつれぐるさ        睦みにくい

わすれくさ とぅりょうに  忘れ草をとって

わすれろに しりば     忘れようとすれば

うまいまさり まさり    思いが勝って

わすれぐるしゃ       忘れられない

ゆなか みぬさみてぃ    夜中目が覚めて

にぶららぬ ゆるや     眠れない夜は

ちしり ひきゆしてぃ    煙管を引き寄せて

たばくぅみしょれ      煙草を召し上がれ

 奄美では煙草の別名を「思い草」「忘れ草」「睦れ草」等と称して男女の情を交わす手段であったり失恋や人生の憂さを晴らす手段として愛飲、嗜なんでいたことが伺えます。

 奄美でも日本でも江戸時代から喫煙、煙草栽培を厳しく禁じていたが、あまり守られなかったようだ。

 禁止の理由は

1 火災の可能性が大である。

2 本土では水田耕作地の減少、奄美では砂糖きび畑の減少ときび畑の手入れが疎かになる等が主な理由で、現在の健康上の理由は記録に見当たらない。
尼崎在住  富村 隆雄


   平成20年5月「上嘉鉄魂」第120号 掲載

ラベル:禁煙 富村 隆雄
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2009年02月21日

揺れる市町村合併・・・友岡藤市郎



 平成の大合併、喜界町は単独で合併しない方針ですのであまり関心がないことでしょう。 しかし鹿児島本土では、合併に賛成・反対で住民発表までしており、まだまだ先が見えない状況です。

 私が住んでいる喜入町は揖宿郡から鹿児島市に合併しました。役場は支所となり町長や」教育長も無くなりました。

 役場職員も減りました。その代わり専門職員が本庁から出向いてくるシステムです。無駄を省く狙いです。

 合併に不満の多いが長い将来を考えると税金など住民の負担は単独より少なく専門的サービスも多いと思います。
 国の施策・合併に賛成しなければ、補助事業や地方交付税などなんらかのペナルティ(罰則)が有ることでしょう。
 現在でも農業関係事業では減反政策(水稲の作付を減らす)に非協力的市町村は、補助事業をカットするということで割り当て面積を努力して100%達成が続いています。


 無駄を省きながら住民へのサービスは今まで以上にしたいのが平成の大合併の狙いです。
 参考までに平成十六年四月現在の県内町村職員録で人口や職員数を比較して見ました。 町名    人口     職員数
喜界町 九〇〇〇人 二一四名
喜入町   一三〇〇〇人 一五九名
 笠利町   六九〇〇人  一八四名
また町議会職員は、喜入町十八名が合併によって一人の市議になりました。それは鹿児島市人口五五万人で市議が五〇人に基づいた事と思います。

 薩摩川内市は、離島を含む八市町村が合併しました。合併によって今までの「郡」や県の出先期間・学校などの統廃合までも発展しそうです。
(編集から原稿依頼がありましたので、参考までに話題を提供しました)喜入町 
      友岡 藤市郎


      平成17年3月「上嘉鉄魂」第82号 掲載


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2009年02月19日

句集 憧憬喜界島が南日本新聞に・・・友岡藤市郎さんも



 南日本新聞(2009.02.19)の「かごしま俳句時評」に『憧憬喜界島』が掲載されていました。嬉しくなって記事にしました。

 姉妹サイト「うもーりよ!「結い」の島・喜界島へにも紹介しました。次の文字をクリックするとリンクします。
句集「憧憬喜界島」を発行 
 


得田 武市・友岡 藤市郎・石原 百合子・得田 洋子の4氏による郷里喜界島を望郷する内容の句集です。

 出版社は、博文社印刷です。

 友岡藤市郎さんの編集後記から抜粋します。

我々が戦争を覚えている最後の歳かも知れない。忘れ去れようとしている戦中戦後の生活、風情、またふるさと喜界島への想いを五七五の十七音で詠んでみました。

 みなさん書店でお買い求めください。まだアマゾンには掲載されていないようです。応援してね。

 友岡藤市郎さんの関連記事は、コチラからどうぞ。

 下記をクリックするとリンクします。
http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/112571878.html

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/114066767.html

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/111494471.html





doukei090219a.JPG



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2009年02月18日

懐古・異郷の地に生きて V (後半)・・・秋田 秋貞



 最初の慰労会のことでした。私は宴が始まる前に女将シゲに固く、

「予算内で接待してください。酔っぱらうと皆勝手に追加、追加という筈だから、その時は私の許可を得てください。もし許可のない追加分はお支払いしません。」

と申し渡しました。

 一方、女将からは

「酒癖の悪い人がいたらアナタの方でおさめて下さい」

とのことで私は承知しました。女将の言葉通り酒癖の悪い大男がいてその始末に苦労しました。

 私は彼を家まで送り届けまたH亭に戻りました。途中転んだり起こしたりの繰り返しで散々でした。

 宴が終わってみると予算オーバーです。私は約束通り、追加分は払わないと拒否しました。「払え」「払わない」で女将と問答しました。

 私は予め予算外の金子は持っていましたが、意地をはって頑固に拒否しました。

 女将は
「お金を持っているのに払え」

 小生
「イヤ約束通りだ」
と何度も何度も押し問答しました。

 あきれた女将は、
「男らしくない何と頭の固い人か」

 小生
「どうしても取りたいなら明日会社に取りに来い」

 女将
「明日払うなら、今日払ってもいいじゃないか」
と執拗に食い下がったが結果は私の勝ちでやむなく諦めました。

 翌朝会社に出勤してすぐ女将に電話しました。

「取りにこなくてよい。私が昼休みに持って行くから昼食を作っておけ」

と命令調に伝え、昼休みに持参しました。

 これがもとで以後信頼され遊びに行く度に
「夕食は済みましたか、どうぞ夕食をいただいてください。」
と夫婦の居室に呼ばれ夕食をいただきました。喧嘩もいいものです。


 70余年の人生の中でこんなに意地をはったのはこの1件だけです。若い頃の頑固な私も今は神様です。

 私が女将と和解したことを馴染みのY嬢も喜んでくれ、以来我が家のように気軽に出入りさせていただきました。

 互いに心が通じ合えば人情ほど尊く美しいものはありません。一度心の中に深く染みこんだ人情は幾く年の歳月を経ても忘れられず、延々と生き続けます。H亭の女将さん遊女の皆さんありがとう。

 どんな享楽の中に生きていても私の真の心の安らぎは故郷(生まれ島)です。幼少から少年期まで育んでくれた故郷への心の思いは筆舌ではうまく表現出来ませんが、心の故郷です。

 これは何も私一人だけでなく島外に在住する島人たちの共通の思いであることは申すまでもありません。

                    沖縄在住 秋田 秋貞


平成17年5月「上嘉鉄魂」第84号 掲載




ラベル:秋田秋貞
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2009年02月17日

シマの皆さんへ・・・前島啓二

                      名瀬市 前島 啓二

 「ミシンハトゥ 三ベエ カダン イチュウ」

 私の心に残るシマユミタです。「先祖へ供えたご飯を三杯食べた勢い(元気)」という意味の上嘉鉄の方言で、何か嬉しいことに挑戦する時に唱えると、不思議と勇気が出て自然と力が湧き出てきます。

 それは日頃ウハウジ(ご先祖様)を信仰しているからだろうか。

 さて、季節はずれの話ですが、夏休みのこと。名瀬市の奄美文化センターの下には数年前築造された船溜まりがあり、北側は高い防波堤になっている。

 中高生くらいだろうか泳いだり、防波堤から飛び込みをしている元気な少年たちがいた。海面からの高さは優に5mはあるが彼らには格好の飛び込み台である。

 下には基礎石等もあるだろうし、危険性は十分憂慮されるが、私はそれを言うつもりはない。私は子どものころのことを思い出した。

 私は小学校三年生の時、大阪から引っ越してきた。その時の夏のこと。シマの習わしでお盆の13日の朝早く(今はしていないようですが)7月7日に揚げた七夕竿を海に流すのです。

 流すのは子ども達の仕事だ。私も初めて友達と七夕流しに行った。

 私たち東地区の子ども達は、上嘉鉄泊(ハティツ ドゥマイ)のすぐ東側沖のエーナビという小さな入り江の崎に七夕を流すことになっていた。

 これまで大阪の港を見てきた私には初めて目にするシマの朝の青くとてつもない広い海と水平線に朝の太陽がきらめく光景にすごく感動したものである。

 七夕を流して泊の東側を通って帰った。泊は巾着袋のようで外海との潮の出入りする所があった。そこは小さな海峡の様になっている。

 深さも結構あった。子ども達はその海峡の岩上に来た。そこで何と先輩たちが裸になりだした。この岩は海面にハァトゥ(突き出る)になっている。これが絶好の飛び込み台である。

 シマの泳ぎ達者な先輩たちは、「ミシンハトゥ 三ベエ カダン イチュウ」と響きのある声で唱え我先に泊の海へ飛び込んだ。




 早朝のシマの泊でこの光景は、私が初めて見る感動の飛び込みというもので、今でも心に残る故郷上嘉鉄泊での思い出の一つだ。

 自分もいつかあの泊で飛び込みをしてみたいと思っていたが、その後戦争が始まり遂にするコトも見る事もなかった。

「ミシンハトゥ 三ベエ カダン イチュウ」を一度だけ唱えてキョラのハテツドマイで飛び込みをしてみたかったけれど、既にかなわぬ歳となった。儚い「ウムイ」と懐かしい「シマユミタ」を心に残しておきたいものだ。

 最後に去る8月18日の村祭りに名瀬の仲間と参加した折には、久々のシマウンミに集落の皆さんの豊かな顔とキョラの心で歓迎していただき本当にありがとうございました。

 別れの時、バスの入り口から「行きゅんにゃ加那」が流れてくると懐かしく、自分たちが遠い異国から来ているような感じになり、日頃のご無沙汰を恥じ入る気持ちで一杯となった。

 短い時間でしたが、シマのみなさんの融和と伝統の八月踊りを愛するご婦人方、シマの発展のため力を注いでいる青年団諸君の姿を拝見し嬉しく思いました。

 すばらしいシマ帰りの旅でした。願わくは永遠に平和で発展する上嘉鉄でありますよう祈念申し上げます。


平成11年11月「上嘉鉄魂」第18号 掲載


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2009年02月16日

はてぃつ泊まり・・・前島啓二

 宿泊した家が泊まりに近い家であった。朝早く目が覚める。まだ十分夜はあけていないが家の門を出るとすぐ仕明。

 久しぶりに見る仕明。昔はハラ(芋づる)の苗床と野菜畑だった。今は一面砂糖甘蔗畑である。

 久に来し島の仕明やキビの風

 仕明は砂地のうえ人家に近いのでこやしが効いて、砂糖キビがよく伸びる。道路脇に倒伏養生の棚が作られているほどであった。

 土地改良された仕明の中央を東西に県道並みの舗装道路を通る。サトウキビに緑葉から吹き寄せる海風は正にシマの香りであった。

 左右の砂糖キビの葉も海風にそよぐ。森山良子の砂糖キビの歌「ザワヮ・ザワヮ」を口ずさみながら歩いていた。

 泊まりはこの辺だがと、思うが砂糖キビにさえぎられて泊まりが見えない。少し行くと目の前に陸揚げされた古い漁船が見えた。




 昔、この付近は石積みのスゥドメ(潮止)があったところだが、それらしい跡形も見当たらない。

 泊まりに下りて船着き場のコンクリート舗装の周りが異様に目につく高い防波堤。その中に立つと身のすくむ思いがする。然れど心は無性に、おだやかだった。

 泊まりに立ち高き堤に朝日映える

 泊まりの東西の海岸から上の方に百メートルくらいのムタと言われる岩場から集落との間が仕明。その仕明は低地になっているので、台風波がスゥドメやムタを越えると海水が仕明を水浸しにするのである。

 潮水害で芋づる等の作物は全滅である。特に芋の植え付けができない。その年の冬にかけてのハンスウ不足になるのであった。

 僕が物心ついて、シマを離れるまでの十年くらいの間で大きな台風波で石積みの潮止が崩壊して、海水が上がり、仕明一帯ウス水につかったことが2,3回あったように思う。

 その都度、壊れたスゥドメの積み直しに村中で普請、ハタミオーダー(砂や石を入れて運ぶ道具)等持って祖父が出かけていったのを覚えている。

 今頃は「セメント」が兎に角いわれている世の中であるが、はてぃつ泊まりのセメント造りの防波堤は、どんな強い台風波にも壊されることはないだろう。いつまでも仕明の砂糖キビがザワヮ・ザワヮと伸びて。

 おいしい喜界島のサァターが豊作であることを願う。さわやかな朝の散歩であった。

前島 啓二


平成14年11月  「上嘉鉄魂」 第54号 掲載
ラベル:前島啓二
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2009年02月13日

懐古異郷の地に生きて V(前半)・・・秋田 秋貞

 さあ再度の来沖です。仕事と寝間をさがさなくてはなりません。1週間近く叔父の間借り先に同居しました。

 仕事は意外に早く見つかりました。今度も同じく内地の土建会社S社で米軍工事です。

 前の会社の同僚たちが大勢いました。ここでは事務的な仕事は少なく労務者の管理と仕事の段取りが主でした。事務所は6〜7名の少人数です。

 看護師のK嬢は私の毎日違う服装が珍しいようで「秋田さん、一体何着もっているの?」と聞く、又事務員のU嬢は「いつも服装を奇麗にしているのは武田さん(内地人社員・安全係)と現地人では秋田さんの二人だけ」と身だしなみを評価してくれました。

 6月頃、級友の石原忠男くんが現場で転んで脊椎を痛め入院しました。私は毎月何度も見舞いに行きました。

 会社や他の人たちの見舞いも少なかったようで、彼は私の来院を心待ちしているようで喜んでくれました。そのうち会社も私を世話係として認めてくれました。




 6ヶ月以上の入院でも病状はよくならず、悪くなるばかりで彼は「田舎に帰りたい」と弱音を吐きました。

 私は彼の母に手紙を書き、帰郷について会社からの一括払いの補償金の交渉、その他一切の委任を受け12月9日、彼を背負いタラップを上がり、彼の生家先山まで連れて帰りました。

 帰郷1週間後、その甲斐もなく彼は亡くなりました。無念でなりませんでした。彼の七日忌を終え、31年1月沖縄に戻りました。

 その時、妹文子を同伴しました。沖縄で洋裁を習得させるためです。この職場でも旧知の仲間たちと楽しく過ごしました。

 然し、どんなに楽しくても初来沖以来1日たりとも田舎のことを忘れたことはありませんでした。早く帰りたいと郷愁の毎日です。

 仕事も安定し時間的にもユトリができ労務班長のA氏に連れられてネオン街に足を踏み入れたのはこの頃からです。

 A氏の近くのH料亭に二人でよく遊びに行きました。班の慰労会や忘年会などは全てH亭で開きました。


ラベル:秋田秋貞
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2009年02月11日

俳句・・・友岡 藤市郎

 今年の猛暑を顧みて

 指宿在住 友岡 藤市郎

■ ふるさとは 砂糖生むくによもぎ餅

■ 南向きて特攻の花ひらく夏(特攻花=天人菊)

■ 玄関を灯すあかりや百合の花

■ 土浴びの仔雀(こすずめ)

■ 小西瓜に日付入れたる日曜日

■ 足跡に ひしめく蝌蚪(かと)や 休耕田
   蝌蚪=おたまじゃくし

■ 縁蔭や長椅子を置きて友を待つ

●川柳

 ・空港で子ら見送って盆終わる

 ・ヒヨドリも地産地消の味覚え

◎ 見たまま、感じたままそのまま、表現しました。

 愚作ですが、ご笑覧くだされば光栄です。


平成15年10月「上嘉鉄魂」第65号 掲載



ラベル:友岡藤市郎
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2009年02月08日

懐古・異郷の地に生きて U・・・秋田 秋貞

 事務所には、それぞれの個性をもった5人の美女事務職員がいました。全員私より2歳以上の年輩でした。

 その中で私より6歳年上の渉外係のM嬢に心を惹かれました。他の彼女たちが私たち二人が仕事の上で接するのを好ましく思わずM嬢の悪評を私に告げますが、私は全く気にしませんでした。

 二人は互いの心中を告白していません。私は田舎に婚約者がおり背信行為は許されません。「君子危うきに近寄らず」です。

 私の入社から2ヶ月後M嬢は突然退社しました。私の心の中にポッカリ大穴が空きました。以後私の心を動かす女性に巡り会いませんでした。

 会社の近くは一歩出ればネオン街の不夜城です。酒も飲めない、煙草も吸わないダンスもできない私はシャンシャンと輝くネオンの誘惑に関心はなく一歩も足を踏み入れたことはありませんでした。

 年中無休の仕事の中で唯一の楽しみは、給料日の午後、強いて上司の許しを得ないで休みを取り、田舎への送金と那覇に出て洋服(アメリカ古着)を買うのが月1回の休息日でした。

 那覇の平和通り沿いのガーブ川の水上店舗には古テント屋根のみすぼらしい佇まいに似合わず沢山の食品が軒を連ねていました。

 好物の餅の前を通るとノドが鳴ってヨダレが出そうです。でも我慢して手を出しませんでした。又どんなに腹が空いていても食堂に入らず宿舎で食事をとることにしました。

 それは1銭でも多く金を残したいというケチケチ根性と田舎の家族の貧しい食を思うと一人だけ美味しいものを食べることを心が許しませんでした。

 その代わり服は金を惜しまず好きなものを好きなだけ買いました。普通の人の1ヶ月分の給与に近い買い物をするので市場の小母さんたちの間では評判だったようです。

 余程、金持ちに見えたのかもしれません。又事務所の女子事務員たちも「秋田銀行」とあだなされた一時期の思い出です。

 おしゃれも父の血を受け継いだのかもしれません。そんな栄華も2カ年近くのつかの間のことでした。日々楽しい生活の中に異変ともいえる奄美群島の日本復帰が実現しました。

 来沖6ヶ月後の昭和28年12月24日のことです。私たち奄美の人々は社内の広場で祝賀会を開きました。

 奄美の人々には慶賀ですが在沖奄美人にとっては大きな災難でした。一夜にして全ての権利が剥奪されたのです。

 非琉球人としての外人登録、公民権、公務員への就職、子ども達の国費留学、送金制限、資産の取得、渡航の自由などの権利を失い以来苦難が強いられました。


 明けて29年1月私たち分場事務所は本部事務所に合併しました。工事が一段落したからです。

 長時間の残業もなくなり、随分楽になりましたが、従業員の退社が終わるまでは帰れません。いつも夜8時以降です。

 食堂の閉店時間で、会社員の中で私が最後です。現地人の風呂は汚れているので、隣りの内地人専用の風呂にだまって入浴しました。

 毎日帰りの遅い私に同情して食堂の小母さんたちは現地人用のB券で内地人用の上等のA食券を与えてくださいました。

 人にはみんな美しい情があります。私はそのお返しに給料日にはお菓子や果物を買って返礼しました。懐かしい顔顔が昨日のように浮かんで参ります。

 8月ころになるとやっと5時半ころには帰れるようになったので、待望の夜間の英語塾に通い、10月終了と同時にタイピスト学院に入塾し、英語、珠算、簿記を学びました。

 学校時代一番苦手だった珠算もいくらか上達しました。終了間近の12月4日突然、
「チチシス」
の電報を受け、大急ぎで帰郷の準備をしましたが、何分にも前述した渡航の自由がなく、旅券発給申請〜許可まで3,4日要し、島に帰ったのは1週間後でした。

 在沖1年7ヶ月ぶりで最初の帰郷です。父72歳の生涯でした。

 生活費にユトリがあったので3ヶ月近く滞在し翌30年2月末、再渡沖しました。人にはそれぞれ苦楽のドラマがあり、楽しい思い出は私一人のものではありません。

 前稿より自分の自慢話のように書き連ねましたが、私の青春の日々が楽しく過ごせたのは何よりも私の病気の時、高熱に苦しむ私の頭に徹夜して水をかけ続けてくださった宮古の平安山カメ小母さん、その後左肩、左上腕の痛みに苦しむ私にヤイトやマッサージの治療をしてくださった弟の平安山 寛令さん。

 患部に麦粉を酢で練って貼ってくださった宿舎の小母さんたち、又良い上司、同僚に恵まれたこと、さらに多くの仲間、多くの沖縄の方々の厚情の賜でありこれらの方々に感謝の意をこめ筆を執った次第です。

            沖縄在住 上東出身 秋田 秋貞



              平成17年3月「上嘉鉄魂」第82号 掲載
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2009年02月07日

よろしくお願いいたします。

 10月1日付けで上嘉鉄郵便局長を拝命し、10月3日赴任して参りました。湯浅載一(ゆあさ としかず)と申します。

 これから、地域の皆様方に大変お世話になると思いますが、よろしくお願い申し上げます。

 昭和29年生まれの51歳です。東京7年、鹿児島14年、喜界島11年目で上嘉鉄郵便局に落ち着くことができました。

 上嘉鉄では、はたしてうまくやっていけるだろうかと一抹の不安を持っていましたが、その不安も1週間で消えさりました。

 というのは、町民体育祭で嘉手浦のテントの横で観戦していたところ、気さくに声をかけていただきホッとしたところへ、反省会のお誘いもあり喜んで参加しました。

 その懐の深さに感動し何とかやっていけそうな自信がつきました。


 今月14日、特別国会において郵政民営化法案が可決されました。上嘉鉄郵便局は大丈夫だろうかと危惧されている方もいらっしゃるかと思います。

 そのようなことがないように地域の皆様と連携を図りながら、最大の努力をしてまいります。

 郵便局は、地域の皆様に愛され、信頼され初めて存在意義があるものと思います。地域あっての郵便局であり、お客さまあっての郵便局であると常に考えています。

 そのためには、ご利用し易い環境作りを心がけてまいります。ご忠告、ご助言いただければできる限り改善していく所存でございます。

 今後とも地域の上嘉鉄郵便局をご利用いただきますようお願いいたします。

 最後になりましたが、3ヶ月にわたる局長不在で嘉手浦校区の皆様には、ご心配とご迷惑をおかけしたことを心よりお詫び申し上げます。

             上嘉鉄郵便局長 湯浅 載一


          平成17年11月「上嘉鉄魂」第90号 掲載
 
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2009年02月03日

懐古・異郷の地に生きて(T)・・・沖縄 秋田 秋貞

 学校の教師を退職して、渡沖したのは、昭和28年5月8日でした。

 満20歳になったばかりで、生まれて初めての島外の旅で不安と希望(夢)の交錯する複雑な心境でした。

 大志を抱いて、異郷の地に青春の夢をかけた旅立ちです。

 5月雨けむる沖縄の地に足を踏み入れたのは、一昼夜の海路の旅を経て、翌5月9日の午後でした。

 田舎では全く想像もしなかった島の大きさその他全てが隔世の世界でした。戦禍の跡は生々しく残っていましたが、復興の槌音は高く、人々の顔は明るく活気に満ちていました。

 私は、不安よりも夢が大きく膨らみ、胸が高鳴りました。

6ヶ月、米軍工場の不眠不休の土木工事に従事しました。重労働で手足に多くの水泡ができ、それがはじけて痛むのをこらえ、土埃がもうもうと舞い上がる路上の炎天下で黙々と働きました。

 それは決して苦にはなりませんでした。何故なら、毎月田舎の家族5人(父母妹3人)の生活に事欠くことのない金子が送金できるからでした。

 早朝からの作業と夜半近くまで突貫工事で、宿舎に帰る時間もなく作業現場の路上に雑草をむしりとり、その上に寝る夜もしばしばでした。

 作業はつらくてもまた楽しかった。それは同郷の(上嘉鉄)の先輩・後輩たちが多く、親しく一緒に仕事ができたからです。

 そのため、ホームシックもありませんでした。こんな土方仕事で学校の給与の3倍の収入があり、私にとっては楽園に思えたのです。

 6ヶ月後、同郷の嘉村茂照氏のお手引きにより、待望の事務職に就き今までの倍以上になりましたが、忙しくて毎日3〜4時間の睡眠でその上年中無休の重労働でした。

 そのせいで健康をそこね苦しみました。英語も話せず、タイプも打てず、手回しの計算機も使えず、誠に恥ずかしい身でした。

 が、少しばかり文字が書けたのと、事務処理を評価され新米ながら上司や事務員からラブレターの代筆を頼まれたり、社員(内地人)の年賀状の宛名書き、その他諸々の書き物をさせられ懐かしい思い出がたくさんあります。

 毎日が楽しくて楽しくて夢のようでした。救急室には、色白で美人の看護婦さんがいました。その事が楽しさを倍加させたのかも知れません。私の70余年の人生の中で一番楽しく幸せなときでした。

 さて錦を飾って島に帰りたいとは大袈裟ですがいくらかの財を貯えて早く帰郷したいと思っていましたが、その夢は果たせずいつの間にか在沖50年という現代の浦島になってしまいました。




 又、故郷の弥栄を祈りながらも何の役にも立てなかった心が痛みます。

 60歳を過ぎたころから、無性に田舎で定住したいという思いが高まってまいりました。別に田舎に昔懐かしい恋人がいるわけでもありませんが!

 かつて

「生まれ島を忘れるな」

 との父の生遺言がひしひしと感じられます。私の父50近くになってから、大阪の大都会の生活を捨てて田舎にただ一人戻って参りました。何か通ずる思いがしてなりません。
 
 去年6月、教え子たちが大阪で私の為、謝恩懇親会を開いてくれました。50年ぶりの再開でしたが、時を超えて、なお心の温かさを感じました。

 15年ぶりの大阪で右左全く分からず汽車、電車の乗り降りもできない田舎者の私は、大阪在住の異母妹が終日付きそい事なきを得、私にはやっぱり田舎があっていること痛感しました。

 70を過ぎ、懐古にふける日々ですが「夢無限」欲張りの夢が私の生きがいです。50年前は二枚目半で紅顔の美青年でしたが、只今は4枚目半に落ち、もう誰も振り向いてくれません。

 誰が名付けた百乃台 眼下に広がる海原広く、磯うつ白波島を彩る

 何時の日か沖縄を去ることを決めています。島の人々と故郷で生きたいと望んでいます。
在郷の皆様、どうぞお元気で年越しください。

沖縄  秋田 秋貞


平成17年1月「上嘉鉄魂」第80号 掲載






ラベル:秋田秋貞 沖縄
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2009年01月31日

ウラミサヤ税務事件・・・前島啓二

前島 啓二
 はじめに、本紙「上嘉鉄」第25号に西島氏の「税務事件について」の掲載がありました。

 かねがね毎月号にシマの習俗やムン話等の調査研究されており大変興味深く、毎回楽しみに拝読しております。

 ところで、「税務事件について」は資料はなく十分な調査研究は不可能だった。ただ発生年は大正末〜昭和初期頃で現在85才になる古老の記憶を頼りに調査をしたとのことであります。

 しかし事件の根拠となる法的要因については詳細に調査掲載されております。

 私が祖父から聞かされた話。この事件については、祖父から折りにふれ聞かされ、私にも深く関わりがありましたので周知していることを申し述べたいと思います。

 実は私の家は祖父・父・叔父の親子三人が関わったのでした。事件当日、叔父が20歳の徴兵検査で名誉の甲種合格、出征するにあたり母方の実家にマカネーカマシ(送別宴)に昼間に招かれ飲食の最中にブラー(法螺貝)の吹鳴で親子3人と母の兄共々事件に荷担したのであった。

 (昔、上嘉鉄集落では、人の行方不明や海での遭難救助等何か大事な集合合図としてブラーを吹鳴したのである)

 事件の発端については西島氏が解説してあります。(農家は自分が生産した砂糖を1円の税金を支払って食する不都合に憤りを感じ1年間の自家用砂糖を税金を払わないで確保したい気持ちで床下、高倉等に隠匿したのだと思う。

 税務署は隠匿した砂糖を摘発するために不意打ちに来島し家宅捜査し、違反者を摘発して第12条の罰則を適用するのです。

 連帯共同意識の強い上嘉鉄住民は税務属が家捜しを始めたと知るや誰かがブラーを鳴らして大人数を集め公務執行妨害らしい事をしたと思われる)

 と西島氏は記述してあります。確かにその通りだと思う。

 さらに祖父の話では、税務属は家捜しをする時に家屋内に土足(靴足)で上がり込む横暴な仕草に住民が憤怒したのも起因の一つでもあったようだ。

 税務属は、集落民の妨害を受け帽子や靴を剥ぎ取られながらハニク伝いに命からがら山川ビラから逃げるように湾へ帰っていったとのことであった。

 後に警察での取り調べの中で税務属は、お前が帽子を取ってアダン山に投げた。お前が靴を取って投げた等とよく覚えていて証言したとのこと。

 この裁判は不幸にして鹿児島で裁判を受けることになり、全員で弁護士を依頼したのです。鹿児島往復の旅費や弁護士の費用等が莫大であった。

 裁判の結果は無罪、これは全員無罪だったのかほかのものはどうだったのかは祖父から聞いていない。

 祖父はこんな話もしていた。
「無罪で良かった。子孫のため戸籍に赤線が引かれずにすんだ」
と神妙に話したことが強く印象に残っている。

 こうして我が家は3人分の裁判費用を支払う羽目になったのです。他にも1所帯で二人も三人も関わった家庭があっただろうか。

 残念ながら我が家は全財産、田畑・家屋敷を売り払った。以前は家屋敷も集落の中にあったが、私が子どものころは「ハニクンハター」といわれる共有地の小さな家に住んでいた。

 父は借金を取り返すため都会へ出稼ぎに行ったが家族持ちでは思うように稼げなかった。叔父はお国のため出征して、戦地で惜しくも足を負傷する。

 あとで家だけは、私夫婦が少しましな家を建てたが、元の屋敷を取り戻すことはできなかった。

 祖父は無念の思いで生涯を終えた。正に「ウラミサヤ税務事件」であった。

 発生年については叔父は明治43年生まれですから、徴兵検査の20歳で計算すると昭和5年になります。

 然し別の話では昭和2年に子どもが生まれた年に事件があったという話もある。結局真相は分かりませんでした。

 因果なもので、私の長男は大阪で税務署に勤務している。息子よ職務に忠実であり、土足で他人の心に傷をつけることがないよう望んでいる。


平成13年3月「上嘉鉄魂」第34号 掲載

  関連記事はこちら

税務事件について・・・西島常吉

 



いいもの王国
 
ラベル:税務事件
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2009年01月25日

五・七・五の遊び・・・友岡 藤市郎

※ 俳句

 ・野菊咲く岬の果てに震洋碑

 ・亡き夫の服着て立てり案山子かな

 ・大輪を褒めて帰れり配達子

 ・廃校の掲揚台や蔦紅葉

 ・柄に響く鍬の一撃芋哀れ

※ 川柳

 ・ダレヤメにまた飲み過ぎて二日酔い

 ・いやいやとコップ差し出すど飲んべえ

 ・老人が老人のため敬老会

 ・運動会カメラが走る児が走る

 ・ごめんごめん孫の名をまた間違える

 いつも楽しく拝読しております。お礼申し上げます。

 退職後、五・七・五に入門しました。島のニュースも大事ですが、時には心安らぐ俳句や川柳はどうでしょうか。編集裏面に利用してください。
      鹿児島市喜入町在住 友岡 藤市郎


平成17年12月「上嘉鉄魂」第91号 掲載

 昨年(平成20年)に友岡 藤市郎さんたち俳句同好会から
「憧憬喜界島」が出版されました。この記事をご覧になっていない方は、関連サイト下からどうぞ。

「句集 憧憬喜界島」






ラベル:五・七・五
posted by hathitu at 15:31| Comment(0) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハティトゥ(上嘉鉄)の人情・・・生田 徳造

 久しぶりにお盆に帰省した。飛行機から一歩降りると強い日差し。さすがに暑い。島に帰ったんだなあと実感した。

 我が家へ向かう車窓から見える一面のキビ畑の緑やヤンガービラから見る海の青さなどが豊かで島の自然が健在していて嬉しくなった。

 翌日はお盆の墓地の清掃が朝8時から行われた。雑草を取っていると、

「いつ帰ってきたか?」「子どもは連れてきたか?」「チバタヤー」などと通りかかる人が声をかける。

 ひさしぶりに帰ってきてそういう風に声をかけてもらうとホっとする。何気ない会話だがすごく人情を感じる。島の良さはそういうふれあいを大事にするところだと思う。

 どこでも誰とでも出会ったら、まずは挨拶。

「仕事は忙しいですか?」

などと相手の様子を伺う言葉を交わす。相手を思う心があるからこそできるのだと思う。大切にしたい。

 父は3月から一人暮らしをしているが、親戚はもちろん近所の人がいろいろと声をかけてくれるので、とてもありがたい。感謝の気持ちでいっぱいです。

 島では、青年団による盆踊りや地区対抗のソフトボールや野球大会、八月ウンミ、9月ウンミ、ウヤンコー(高祖祭り)敬老会など地域ぐるみの行事が盛りだくさんある。
 
 それらの行事に集落の人みんなが喜んで参加している。それは、主催する人たちの努力があるからだが、普段からのコミュニケーション(ふれあい)も大切にしているから(お互いの気心がわかるから)ではないかと思う。

 気の合う仲間といっしょに参加する楽しさが2倍、3倍となる。

 老若男女を問わず気心の通い合う上嘉鉄にエールを送りたい。

           牧ノ原中学校 勤務 生田徳造


平成17年9月「上嘉鉄魂」 第88号 掲載





ラベル:人情 上嘉鉄
posted by hathitu at 05:58| Comment(1) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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