2009年02月24日

ウトゥ地名について




 上嘉鉄集落の北側、保食神社にある周辺一帯を小字名で通称「ウトゥ」と称しています。

 「ウトゥ」の語源は、混効験集という琉球語辞典やオモロソウシにある「オボツカグラ」の「オボツ」の転と思われる。

「オボツカグラ」の意味は、混効験集によれば、語義不詳で「天上のことを云い、天上にあると想念される聖域」とあるがなんか意味が分からない。

 沖縄・奄美の古代・中世人の神観念は先祖の神と天上界から天降りてくる神・海の彼方の竜宮からやってくる神の3つがあると信じていたと思われる。


 そして天上界から天降る神は、その地区の最も浄い聖地・霊域に天降ると考えた。この思想は、古事記の高天ケ原神話や琉球神道記のアマキヨ・シネリキヨが奄美岳(笠利町)降臨神話と似ているように思われる。

 仲松弥秀氏の説明は、はっきりする「オボツ山、オボツ岳」とは奄美・沖縄諸島では集落の腰当て森(鎮守の森)として機能を果たして広く分布し、この森に来訪神が最初に足がかりする所である」と言われる。

 上嘉鉄の「ウトゥ」地名は正しくこれに当てはまるようだ。

 オカンサマと集落民は、一般的に呼称しているが、天上界から天降る神のことか?


 はっきりしないが、麓にウンガ(昭和初期までの神遊び場・八月踊り場だった)やノロ畑があることを考え合わせると、「ウトゥ」は当初はノロの斎場(神事・祈願・神のお告げを聞く)であった可能性もあり、いずれにしても昔からの聖域であることにかわりはない。

 年代は、はっきりしないが(多分江戸時代)後に同地に馬頭観音の石像が設置され、さらに明治になって国家神道普及の政策により。保食神社となり今日に至っている。

 その頃一時、馬頭観音像は海に投棄されるという受難の時代もあったが、今はは仲良く鎮座して、集落民が深く信仰している。

 ついでに保食神社のことに簡単に触れよう。(ほしょく、ほうしょく)と呼称するのは喜界島だけの呼び名で日本書記では、保食と書いて「うけもちのかみ」と読み仮名をつけてある。

 祭神は「豊受姫大神」で、農業・家畜・食料の神と言われている。

南海記


平成17年8月 「上嘉鉄魂」第87号 掲載


ラベル:ウトゥ
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2009年02月21日

上嘉鉄の小字名



 下の地形図は、昭和31年国土地理院発行の25000分の1の地形図に上嘉鉄の湾トウバルの畑に小字名を数名の方々の記憶をお借りして記入しました。

 多少の出入りもあると思います。ご遠慮なくご指摘ください。より正確なものを後世に残したいと思う。

 現在は耕地整理により昔の面積はほとんどありません。地名は上嘉鉄人がこの地に住み着いた最初に名付けられたものだけに数千年の歴史の重みがあります。

 地名は勿論、命名当時の言葉で、当時の自然環境(特に土地の個性)や歴史的背景等を考慮して皆が賛同して定着したものだ。

 要するに地名は、その発生当時の特殊な意味を持っており、一度根を下ろすと、容易に失われないまま残るから、地名は遠い過去を物語る化石となっています。

 方言、風俗、習慣、制度等は時間の経過と共に変化消滅してしまいますが、地名、人名は永久に変化も消滅もしない。

 地名研究の目的は、当時の地理的景観、歴史的環境、言語の変遷等を調べ人類文化史の資料に役立てるのが目的の一つである。
(西島 記)

koaza090221.JPG



平成14年8月「上嘉鉄魂」第51号 掲載



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2008年12月16日

「上嘉鉄」地名の由来

 地名は私たちの先祖が、それなりの自然条件によって命名しています。

 鹿児島地名辞典によると、「上嘉鉄」「加鉄」「しつる村」などとあり、江戸時代から明治初期までの村名(大字名)で、その位置は「しつる村付近」と記録されています。

 明治41年の市制町村制の実施に伴い現在の瀬戸内町大字「嘉鉄」と区別するために緯度が北方にあたる当地に「上」をつけて「上嘉鉄」と改称したとあります。

 それでは古来の呼称である「ハティトゥ」とはどのような根拠によるものかを考察してみましょう。

 方言では「ハティ」とは「果て」「崖の上」を意味しています。また「トゥ」は「チュ」の転訛したものでつまり「人」の意味でまとめれば、「段丘上の崖の上に居住している人」と推量される。

 昭和57年度の県営畑総合土地改良事業で「喜界南部地区」の改良工事を実施したところ、小字名で

 「ウフドンム」「ウフック」「エーバル」「ノブラーリ」「マチッチャ」

 と称する一帯から大量の土器、石器、磁器、陶器等が出土した。

 それを当時坂嶺集落区長の英啓一郎氏と当時上嘉鉄小学校の校長職にあった盛山末吉氏が発見し、多数保存してあった。

 その保存してあったものを熊本大学の白木原教授一行が「ハンタ遺跡」調査のために来島された時に、鑑定を依頼し、その結果が「ハンタ遺跡調査報告」にまとめられている。

 それによると遺物は石器(石斧、両刃石斧ともに唐製石器)、土器(宇宿上層式、喜念一式、兼久式、カヤウチバンダ式)、陶器(カムイヤキ窯系で内外ともにロクロによるなで仕上げ)、磁器(青磁で外器面に花文が施されている)

 その他に凹石、敲石、クガニイシ等が出土している。以上によって今から3500年前の上嘉鉄人は現在地ではなく、砂丘を離れた段丘上の小字名で

 「ウフドゥンム」「ノブラーリ」「ウフック」「エーバル」「マチッチャ」一帯に生活し、北側には広く肥沃な土地で農業をし、段丘下は、広大な好漁に恵まれて安定した平和な生活を営んでいたのではないだろうか。

 その地に生活している人々を他集落の人たちが「ハテに居住している人」と呼んで「ハティトゥ」となったと推量されないだろうか?

 いつ頃現在地に移住したかについては資料がなく、判断がつきかねています。読者諸賢のご意見・ご批判をお待ちしております。


      平成10年6月号 第3号 「上嘉鉄魂」より掲載
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2009年02月24日

ウトゥ地名について




 上嘉鉄集落の北側、保食神社にある周辺一帯を小字名で通称「ウトゥ」と称しています。

 「ウトゥ」の語源は、混効験集という琉球語辞典やオモロソウシにある「オボツカグラ」の「オボツ」の転と思われる。

「オボツカグラ」の意味は、混効験集によれば、語義不詳で「天上のことを云い、天上にあると想念される聖域」とあるがなんか意味が分からない。

 沖縄・奄美の古代・中世人の神観念は先祖の神と天上界から天降りてくる神・海の彼方の竜宮からやってくる神の3つがあると信じていたと思われる。


 そして天上界から天降る神は、その地区の最も浄い聖地・霊域に天降ると考えた。この思想は、古事記の高天ケ原神話や琉球神道記のアマキヨ・シネリキヨが奄美岳(笠利町)降臨神話と似ているように思われる。

 仲松弥秀氏の説明は、はっきりする「オボツ山、オボツ岳」とは奄美・沖縄諸島では集落の腰当て森(鎮守の森)として機能を果たして広く分布し、この森に来訪神が最初に足がかりする所である」と言われる。

 上嘉鉄の「ウトゥ」地名は正しくこれに当てはまるようだ。

 オカンサマと集落民は、一般的に呼称しているが、天上界から天降る神のことか?


 はっきりしないが、麓にウンガ(昭和初期までの神遊び場・八月踊り場だった)やノロ畑があることを考え合わせると、「ウトゥ」は当初はノロの斎場(神事・祈願・神のお告げを聞く)であった可能性もあり、いずれにしても昔からの聖域であることにかわりはない。

 年代は、はっきりしないが(多分江戸時代)後に同地に馬頭観音の石像が設置され、さらに明治になって国家神道普及の政策により。保食神社となり今日に至っている。

 その頃一時、馬頭観音像は海に投棄されるという受難の時代もあったが、今はは仲良く鎮座して、集落民が深く信仰している。

 ついでに保食神社のことに簡単に触れよう。(ほしょく、ほうしょく)と呼称するのは喜界島だけの呼び名で日本書記では、保食と書いて「うけもちのかみ」と読み仮名をつけてある。

 祭神は「豊受姫大神」で、農業・家畜・食料の神と言われている。

南海記


平成17年8月 「上嘉鉄魂」第87号 掲載


ラベル:ウトゥ
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2009年02月21日

上嘉鉄の小字名



 下の地形図は、昭和31年国土地理院発行の25000分の1の地形図に上嘉鉄の湾トウバルの畑に小字名を数名の方々の記憶をお借りして記入しました。

 多少の出入りもあると思います。ご遠慮なくご指摘ください。より正確なものを後世に残したいと思う。

 現在は耕地整理により昔の面積はほとんどありません。地名は上嘉鉄人がこの地に住み着いた最初に名付けられたものだけに数千年の歴史の重みがあります。

 地名は勿論、命名当時の言葉で、当時の自然環境(特に土地の個性)や歴史的背景等を考慮して皆が賛同して定着したものだ。

 要するに地名は、その発生当時の特殊な意味を持っており、一度根を下ろすと、容易に失われないまま残るから、地名は遠い過去を物語る化石となっています。

 方言、風俗、習慣、制度等は時間の経過と共に変化消滅してしまいますが、地名、人名は永久に変化も消滅もしない。

 地名研究の目的は、当時の地理的景観、歴史的環境、言語の変遷等を調べ人類文化史の資料に役立てるのが目的の一つである。
(西島 記)

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平成14年8月「上嘉鉄魂」第51号 掲載



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2008年12月16日

「上嘉鉄」地名の由来

 地名は私たちの先祖が、それなりの自然条件によって命名しています。

 鹿児島地名辞典によると、「上嘉鉄」「加鉄」「しつる村」などとあり、江戸時代から明治初期までの村名(大字名)で、その位置は「しつる村付近」と記録されています。

 明治41年の市制町村制の実施に伴い現在の瀬戸内町大字「嘉鉄」と区別するために緯度が北方にあたる当地に「上」をつけて「上嘉鉄」と改称したとあります。

 それでは古来の呼称である「ハティトゥ」とはどのような根拠によるものかを考察してみましょう。

 方言では「ハティ」とは「果て」「崖の上」を意味しています。また「トゥ」は「チュ」の転訛したものでつまり「人」の意味でまとめれば、「段丘上の崖の上に居住している人」と推量される。

 昭和57年度の県営畑総合土地改良事業で「喜界南部地区」の改良工事を実施したところ、小字名で

 「ウフドンム」「ウフック」「エーバル」「ノブラーリ」「マチッチャ」

 と称する一帯から大量の土器、石器、磁器、陶器等が出土した。

 それを当時坂嶺集落区長の英啓一郎氏と当時上嘉鉄小学校の校長職にあった盛山末吉氏が発見し、多数保存してあった。

 その保存してあったものを熊本大学の白木原教授一行が「ハンタ遺跡」調査のために来島された時に、鑑定を依頼し、その結果が「ハンタ遺跡調査報告」にまとめられている。

 それによると遺物は石器(石斧、両刃石斧ともに唐製石器)、土器(宇宿上層式、喜念一式、兼久式、カヤウチバンダ式)、陶器(カムイヤキ窯系で内外ともにロクロによるなで仕上げ)、磁器(青磁で外器面に花文が施されている)

 その他に凹石、敲石、クガニイシ等が出土している。以上によって今から3500年前の上嘉鉄人は現在地ではなく、砂丘を離れた段丘上の小字名で

 「ウフドゥンム」「ノブラーリ」「ウフック」「エーバル」「マチッチャ」一帯に生活し、北側には広く肥沃な土地で農業をし、段丘下は、広大な好漁に恵まれて安定した平和な生活を営んでいたのではないだろうか。

 その地に生活している人々を他集落の人たちが「ハテに居住している人」と呼んで「ハティトゥ」となったと推量されないだろうか?

 いつ頃現在地に移住したかについては資料がなく、判断がつきかねています。読者諸賢のご意見・ご批判をお待ちしております。


      平成10年6月号 第3号 「上嘉鉄魂」より掲載
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