2009年02月26日

「上嘉鉄集落 愛唱歌集」のプレゼント

 昨年八月に「上嘉鉄 愛唱歌集」を発行しました。上嘉鉄で歌われている歌を集め一冊の本にまとめたものです。
 
 八月踊り唄元唄、民謡、祝い唄、教訓唄、童唄など多数掲載しています。まだ50部ほど残っています。

 要りようの方は、送料のみご負担していただき、着払いでお送りします。(本代は無料)
 
 葉書に郵便番号、住所、お名前をお書きの上、「上嘉鉄魂」編集長 西島常吉までお申し込みください。

(申し込み先)
 〒891−6233
  鹿児島県大島郡喜界町上嘉鉄109−2
              西島 常吉




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ラベル:プレゼント
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2009年02月21日

少年の頃の手伝い・・・盛山末吉



 今の小中学生はお手伝いは皆無であるが、戦前の少年時代は、過酷なほどの労働が日課のようになっていました。

 学校から帰ると男女を問わず、年齢に応じて、それそれの家庭でそれぞれの手伝いが待ち受けていた。

 農作業中心の家業に加えて、牛、馬、山羊、豚等の家畜も飼育する農業形態で、しかも機械力は皆無の時代で、家族が唯一の労働力であり、小学生も働き手として重宝がられていました。

 男女共通の農作業として、からいも植えの祭のいも苗、製糖期のきび運搬、馬の後追い。子守り、男児の馬草刈り、稲田への水入れ、女児のいも洗い、洗濯、夕飯の準備、食後の皿洗い等々まことに雑多な仕事が次々と待ちかまえ、親達は子どもの学校帰りを待ちわびている状態でありました。

 子守りのとき赤ちゃんをおんぶして、背負った赤ちゃんともども泣いてしまったことや、おしっこで背中が冷たくなったことが昨日のような感じさえします。

 特にきびしかったのが馬の飼料としての草刈りでした。三度の飼料は、母のつとめでしたが副食用の草刈りは小学生の絶対的なノルマであった。

 雨が降ろうが照ろうが草を刈りてこなければなりませんでした。

 寒風吹きすさぶ冬の日の草刈り等、早く忘れてしまいたいですが、中々忘れられない出来事となってしまいました。

 学校から帰るやいなや作業服に着替え、草かごに草刈り鎌を入れて、野原へ駆け込んで行きました。

 働き者の上嘉鉄の畑は荒れ地とてなくわずかに畑の畦に生えた「アーガヤ」等を根気よく刈りとったものでした。

 草かご(ヒナイ)いっぱいになるのは、毎日のように夕暮れ時で帰宅するときはうす暗くなっていました。

 疲れ切った体で夕食後、ランプのもとで勉強をとソーメン箱の勉強机に向かうと父は

「石油がもったいない」

とどなりちらし、勉強も満足にできませんでした。

 さらにきびしいのが田んぼへの水入れでした。上嘉鉄は畑シマで田んぼはごく一部の家庭しかありませんでした。

 私の家は一枚だけの田んぼがあり、その田んぼの水番も私の係でした。その田んぼは用水路より1メートルくらいあがっているため水を石油缶で用水路から汲み上げて田んぼへ入れました。

 その水が重かったこと。小学生の腕力では大変苦しみました。●●●回入れたら終わりだと計画を立て、その回数を数えて水を入れることでした。

 今ではその田作地帯も耕地整理によって畑地となってしまったが、水源の「マチィチャ」はそのままで水量は激減しているものの形はかつてのままでなつかしさいっぱいであります。

 今ではからいも栽培もせず、家畜も皆無、さとうきび単作農業となり、さとうきびの収穫作業もハーベスターの機械力を駆使し、畑地へも自家用車しかも生きびを製糖工場に売り渡す時代となってしまいました。

 驚くほど変容した農業形態だと言えましょう。たださとうきびの刈り出し期間中は農家の皆さんは、割り当てたトン数分のさとうきびの刈り取りをしなければならず、額に汗して働きづめております。

 製糖の歴史について藩政期にはこの栽培、製造の重労働の他に上納黒糖にまつわる罪も重くシマ唄に

心配(シワ)じゃ 心配じゃ うぎ切り心配じゃ

うぎの高切り 札はきゅり

心配(シワ)じゃ心配じゃ 砂糖たき心配じゃ

砂糖のぶく吹き 札はきゅり

と、さとうきびを根元ぎりぎり刈り取らず、高切りしたら罰としての札をはかされ、また、さとうきび汁を炊く際、黒糖のよごれ(ぶくー)をとらずに炊いても罰の札をはかされてしまい、とても苦労したと歌われ、今では想像もできない苦しみをかみしめた先祖さまの姿が歌われたいます。
盛山 末吉


平成15年3月「上嘉鉄魂」第58号 掲載
姉妹サイトより

  「喜界馬のこと T」
http://umooriyokikaijima.seesaa.net/article/116519214.html 






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上嘉鉄童唄



※女児の毛毬唄

一カケ 二カケニ 三ヲカケ

四カケ 五カケニ 六ヲカケ

七ノランカン

八(橋)ヲカケ

橋の向かう 眺めれば

十七・十八の姉さんが

片手に花もち 線香もち

姉さん どこ行く 尋ねたら

私は九州 鹿児島の 西郷隆盛 娘です

明治十年の戦役で

打たれ 死んだ 父上の

お墓参りに 参ります

お墓の前では 手を合わせ

なむあみだぶつと拝みます

もしも その子が男なら

士官学校 卒業させ

アメリカ言葉を習わして

梅には 鷲 止まらせて

ホーホキョウと 鳴かせます

              採集協力者(美代イシ。盛 スミ子、他数名)
 明治の昔の童歌(わらべうた)・遊び歌を採集しています。どんな歌でも結構です。ご協力くださいますようお願い申し上げます。(編集)


平成14年10月「上嘉鉄魂」第53号 掲載



ラベル:童唄
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2009年02月07日

我が最愛の唄者・・・大友勝仁

 今から10年ほど前、名瀬にいた頃、島唄を習っていた母の影響で少しずつ島唄を聴くようになっていたが、まだその魅力を理解する事は出来ずにいた。

 だがたまたま聴いたテープに夢中になった。絞るような低音、今まで聴いたことがない。「イキュンニャカナ」がそこにあった。

 切なくなるような「御枕節」。気持ちが高ぶるような「豊年節」がそこにあった。私は毎日そのテープを聴くようになった。「竹下和平傑作集」だった。

 坪山豊氏や築地俊三氏のような知名度も華やかさもない。ただ方言も島唄も分からない私の胸にその音は、ストレートに飛びこんでくる。専門家ぶるつもりはないが、私は竹下和平氏の事を天才唄者だと思っている。

 竹下和平氏は、昭和8年生まれの69歳。瀬戸内の諸和(しょかず)の出身だそうだ。父親が地元の有名な唄者だったらしく、幼い頃から島唄に親しみ、小学校3年生のころには、三味線を手に歌うようになったという。

 父親のすすめで小学校6年生から詩吟も習っていたらしい。昭和34年頃から奄美大島では、注目されはじめ数々の芸能大会に出演。

 そして昭和37年には、竹下氏の唄が初めてセントラル楽器でレコード化されたという。現在は尼崎に在住している。

 竹下氏の実姉、泉サエさんは、喜界町の山田に嫁いでいる。私は仕事を通じて泉さんと知り合った。




 先日お会いしたとき、

「泉さん、私は10年前から竹下さんの大ファンなんですよ」

と話すと

「ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」

と笑顔をこぼしていた。

 私は、竹下和平氏とは一度もお会いしたことがない。もちろん生の唄も聴いたことがない。でもいつか祝いの日に目の前で竹下氏の「朝花節」を聴いてみたい。

 私は、いつもその日を夢見ている。

大友 勝仁


     平成15年2月 「上嘉鉄魂」第57号 掲載

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2009年01月27日

「輝く奄美の島唄」を読んで・・・盛山末吉

盛山 末吉記

 遠くシマを離れてヤマトに生活していらっしゃる皆さん。

 四季の移ろいと共に思い出すのは故郷の面影でありシマ唄や八月踊りのことだとお察しいたします。

 さらに年老いていくと踊り狂って歌うヤマトの流行歌よりはしんみりと歌うシマ唄がじんと響くのがあることだと思います。

 眠れない晩は、ラジカセのシマ唄が子守歌となっていつのまにか寝入ってしまうことさえあります。

 ある日、書架をあさっていましたら貴重な、しかも懐かしい本に出会いました。それは「輝く奄美のシマ唄」だったのです。

 この珍しい本は愚生の1級先輩の花良治出身の郡山直先生からいただいた本です。郡山先生は、奄美のシマ唄を残すことなく徹底的に採集し、シマグチの歌詞を共通語に書き直し、さらに英語に書き直すといったたいへん面倒な仕事を遂に完成させました。

 これが「輝く奄美のシマ唄」となって世に出ることになったのです。

 先生は師範学校卒業後、沖縄に渡り、沖縄の外国教員養成科を卒業。さらにアメリカに渡り、アメリカの大学を卒業した逸材である。

 日本に帰国後は桜美林大学、東洋大学に勤務し、その力量を遺憾なく発揮した学者でありました。

 師範学校在学当時、喜界島出身のものが一堂に会して喜界会なる親睦会が開催されるのが定例の年中行事でした。

 その席上各自、自己紹介をしたが先生は自己紹介を英語でしゃべりまくり、なみいる出身者一同は舌を巻くありさまであった。

 先生は語学の天才といえましょう。時は戦時中、敵国の英語は忌避された時代のこと。かような時代に並外れて堪能なのはもって生まれた才能だったろうか。

 いずれにせよ偉大な先輩、それが郡山直先生であります。

 次に久保けんお先生を紹介しましょう。

 先生は、荒木出身で昭和17年師範学校を卒業の大先輩、先輩は「奄美・沖縄の民謡」という本を書かれ、その一部のコピーをいただいております。

 先生は集めたシマ唄を五線譜にしたためた音楽家であります。いずれにせよシマ出身の両雄といえましょう。

 なお、久保先生は荒木小学校の作詞・作曲もなされており、郡山先生がシマ唄の収集家であれば、久保先生はシマ唄の編曲家といえましょう。

 シマ唄は奄美の自然の美しさを歌ったもの、人生のあわれや、愛を歌ったものなどあるがこの度は先輩お二人の唄の本からの自然の美しさを歌ったのを拾い上げて紹介しよう。

※ 世間なんて 羨めさんむんや 七倉建てて暮らす人こそ 羨ましい

それよりアンマとジュウがおられる人こそ羨ましい

 解説 俊良節の一首で両親を大事にする奄美の人の心を痛切に表現している。

※ 年は流れる川の流れ水のようだ 二度もどってみたいな十七,八のころに

 解説
 
これも俊良節の一首で人生というのは川の流れのようなもので,あの十七,八のころにかえってみようと思っても絶対できることではないですよ。だから・・・

※ アンマとジュウが気の毒考えしょんな あんまとじゅう 米とて豆とてみしょうらしゅんどう

 解説

  いきんにゃかな節の一首で,心配しないでください。父さん母さんあたしが一生懸命働いて米や豆を差し上げます。哀調のこもった胸に響く曲です。

※ 請くまんまじょうちば あがしがでぃ

 きょらさるうなぐ 居しりば露ぬたるり

 立てれば水ぬ はりゅり うけくままんじょちば

 あがしが きょらさるうなぐ

 解説

うけくままんじょ節です。うけくままんじょの美しさをたたえた唄です。節回しが難しい唄です。



平成17年11月「上嘉鉄魂」第90号 掲載






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ラベル:島唄 奄美
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2009年01月26日

島唄コンサート・・・盛山末吉

 第7回島唄コンサートが去る8月29日、県文化センターで開催され幸運にも聴衆の一人となった。

 南日本新聞によると満員の約1500人がつめかけ奄美シマ唄の独特の世界にひたったと報じている。

 出演者は西古見のベテラン西和美、名瀬出身の若手のホープ貴島康男、わが喜界島が産んだ牧岡奈美とベテラン新人が島唄を歌いあげ神妙な裏声のリズムに浸ることでした。

 会場ではまれまれと会ったシマンチュ同士が今日ばかりはと存分にシマ口で語り、挨拶をかわすなごやかな風景も見られました。

 まず貴島康男と牧岡奈美の朝花節からスタートした。奄美島唄の頂上に位置する坪山豊の跡を継ぐといわれる貴島康男の

 神のひきあわせか まりまりと なきゅうがでぃ

と唄が響くと、会場のシマッチュたちは感慨無量。心では涙してきき惚れている神妙な空気がセンターいっぱいに満ちあふれているようだった。

 牧岡奈美は、

 塩道長浜なんてぃ わらび泣きしゅる

 クリヤ たがゆいど 汗はだの けさまつのゆい

と塩道長浜節を歌いあげた。きゃしゃな体から声量豊かで節回し絶妙の神の声のような唄がつづいた。

 その塩道長浜も開発の時代の波には勝てず、広く埋め立てられつつあり、奄美の古典的な文化遺産が消えようとしている。

 唄が終わるたびにわれんばかりの拍手が響き渡った。ぼくは目頭があつくなり無念無想の境地で響き渡る拍手を聞くだけであった。

 唄は野茶坊節・諸鈍長浜節へと続いた。貴島康男・牧岡奈美共に自ら三味線を奏でながら歌う現代風唄者であった。

 ステージはよいすら節、嘉徳なびかな節へと続き、

 西の管鈍なんてぃ 雨ぐるみのさがてぃ

 雨ぐるみやあらぬ わ加那なだど

と雨ぐるみ節も印象的であった。

 さらに唄は俊良節、くるだんそ節、むちゃ加那節、かんつめ節と貴島康男の哀調おびた裏声に1500人の聴衆は陶酔し、もの音ひとつせずしーんと静まりかえった。

 西和美は片倉輝男の三味線にのせて今の風雲節、野茶坊節、諸鈍長浜節を唄いあげた。

 今の風雲は 村が上に立ちゅり

 わぬがとのじょさま う西原立ちゅり

(風雲は シマの上に立ち 愛する主人は 北の海原へと旅たった
 どうかご無事でありますように)

と今の風雲節がひびいた。

 結びは3名の方々がワイド節。稲すり節、続いて六調と歌いあげた。とたんに座は高潮し、観客は我先にと舞台にあがって踊りまくった。

 我がハティツが産んだ唄者牧岡奈美は声量といい節まわしといい加えてスラムンで申し分のない神のような存在。

 これからもますます円熟してシマ唄の真髄をきわめて欲しいと激励することであった。奈美は喜界島の宝であり、わがハティツの宝だ。
                (盛山記)


平成14年10月「上嘉鉄魂」第53号 掲載






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2009年01月24日

シマ唄の教え(続き)・・・盛山 末吉

 この度は、たくさんのシマ唄の中から教え諭すシマ唄をとりあげてみたいと思います。

※ 線香ぬ ねえだな しゅうてぃ 松葉たてぃてぃ

  山川観音丸 二度こぎ ねがおう


 さつまからの品物を積んだ山川観音丸よりもう一度きてくれませんか。私たちはすでに線香がきれてしまって線香代わりに松の葉をたててウヤフジを拝んでいます。

 今も昔もお線香をたててウヤフジおがむのは奄美の私たちの心でしょうか。

※ 今年 年がなし からからぬ 日でり

  雨ふらちぃ たぼれ う天とうさま


 今年の夏もまた、からからのひでりになってしまいました。どうかお天とうさまよ。雨を降らせてください。どうかお天とうさま。

※ 心むちなしゃ はじぬ葉の広く

  松の葉のせまさむつな


 人間は、はじの葉のように広い心を持ちなさい。松の葉のように小さい心を持ったらいけませんよ。小さな心になって毎日くよくよしたらいけませんよ。
 小さな心になってくよくよしたらいけませんよ。

※ 花なれば におい 枝むちや いらぬ

  なりふりや いらぬ 人は心

 花はかおりが第一できれいな枝振りなどいりませんよ。まして格好などいりませんよ。人間はきれいな心ですよ。「姿美人より 心美人ですよ」

※ 高さ がじゅまるや 風ににくまるり

  肝高さ持てば友達(ドゥシ)がにくむ

 屋敷回りのがじゅまるの木も高くそびえていばっていると風に当たって倒れてしまいます。人間も無理してえらぶって見識を持つと友達から嫌われますよ。

※ 皿の水だもそ 吹けば 波たちゅり

  我が悪き あてぃどぅ よそや荒れる

 小皿の水でさえ吹けば波が立ってしまいますね。自分の身の回りが荒れるのも自分が悪いせいだと常々反省することが大切ですよ。

※ 親の教訓(ゆしぐとぅ)は身の上の宝

  耳にききとめて 胸にしみり

 親の教えは我が身の宝ですよ。よく聞きとめて心にしっかりしまっておくものですよ。

※ うしかくそすれば 天と地は鏡

  影うつると思えば かくしならん

 誰も見ていないからおさえて かくそうと思ってもかくせませんよ。天と地がちゃんと見ていますよ。

※ 別れてやいきゅり ぬ かたみうちゅり

  汗はだぬ てぬぎぃ うりどぅ形見

 お別れですね。何の形見もありません。私が使っている汗はだのてぬぐいをあげます。どうかお受け取りください。

 南島ではうなり神がなしと云って兄弟を守るといわれています。特にうなりのてぬぐいはお守りです。
                 (文責 盛山末吉)


    平成16年8月「上嘉鉄魂」第75号 掲載





ラベル:シマ唄
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シマ唄の教え・・・盛山末吉

 近頃はシマ唄ブームといわれ島唄がさかんになりテレビでもよく放映されています。

 ご承知のようにシマ唄はお祝いの唄(年の祝い、お産祝い、結婚祝い、新築祝い)を初め八月踊りなど多岐にわたっております。

 本土のある方は奄美のシマ唄は恋歌ばかりで低俗だという意見もあります。

 しかし恋唄もちゃんとしたシマ唄文化だと思います。昔の人々は国語力もないのに即興で臨機応変にかえし唄をする作詞力がありました。これが唄遊びです。

 シマ唄のほとんどが八・八・八・六の三十音になっており、例外としてかんつめ節の四十八音、くるだんどの四十四音等があります。

 かつてテレビ等が普及しない戦前の生活は暑い夏の夜を金久で夕涼みをしたもので人が集えば自然唄が出てくるものでした。

 むかし奄美がやまと世の時には大島でとれた黒砂糖は税金として現物をさつまの殿様に納め残りのごくわずかで生活していました。

 わずかばかりの黒砂糖はさつまから送られてくる日用品と交換してやっと暮らしていました。

 当時の農民は割り当ての砂糖きび作りに追いまくられました。加えて台風・ひでり・病害虫の被害もあり農民は疫病等に苦しみ二重、三重の苦しみは、筆舌に尽くせないものがありました。

 このような時も人々は、祖霊を拝み心の平静をとりもどしておりました。

 さらに人々はシマ唄に託してわが心身の苦しみ胸に鬱積するものをおさえて自らを慰めました。

 これがシマ唄です。

 シマ唄の悲しいリズムや裏声もその根幹にはもがき続け、あえぎ続けたシマ人たちの時代的背景があったのです。

                 (続く)

              (文責 盛山末吉)


   平成16年8月「上嘉鉄魂」第75号 掲載


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ラベル:盛山末吉
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2009年01月16日

「島唄ひと紀行」を読んで

 先日南海日日新聞社の籾芳晴さんから表記の本が送られてきたので、早速読むことにした。島唄は昔も今も奄美人の心の支えであるのでとても興味深くひもとくことができた。

 籾さんが奄美全島を丹念に足でかせいだ記録だけにとても緻密な表記に、ある時は感動を覚え、またある時は目頭があつくなるのを覚えた。

 島唄の背景には薩摩藩時代の言語に対する地獄絵があっただけにその様子も詳細に表記され読むごとに一人で悲憤慷慨することであった。

 「芸能」を唯一の武器とした琉球と同じく圧政に呻吟する奄美の先人達は、その苦しみを島唄でいやしていたようすが鮮明にえがかれ、今、太平の世に陶酔しているぼくは大きな一撃をくらった感であった。

 また氏による徹底した唄の解説が独断でなく代官記の古資料を駆使した根拠のある書きぶりに感じいったところでありました。

 管鈍の昌谷忠等著名人の発掘など管鈍小学校に在職したぼくにとっては大きな勉強でありました。

 戦前今は亡き叔母がよく歌った嘉徳ナベ加那節のヒロイン、ナベ加那についても多くの説を引用されナベ加那は天女に匹敵するほどの気高く美しい神女だと説かれ親に水くまして浴み・・・の意味が理解できることでした。

 天下一の美女節子のトミは

 正月やバシャギン着らむば

 節子のトミもらてくり

と歌われ、トミは七色の声を持ち、加えて三味線の名手で「流れ船」を楽しんだ文化人であったという。今、写真でもあればぜひ拝みたい気持ちになりました。

 喜界島については為朝に由来する雁股の泉、ウラトミ・ムチャ加那親子の悲話、さらに「五つがめ」物語、美女に生まれたばかりにあわれな最後となった中間なでめらべ等が丹念に表記されている。

 戦前開催された喜界島学生大会にとある大先輩が一席ぶってしまった「学問とは雌馬に乗って阿伝ビラを行くがごとし・・・」と絶叫して学生諸君を叱咤激励したくんだりも今でも偉大な資料として輝いている。

 さらにページは徳之島、永良部、与論とつづいており兄弟ジマ沖縄の物語など改めて学ぶことができました。

 喜界島には阿麻和利の血をひくといわれる「勝連屋敷」も現存し碑のそばには力石が置かれている。

 この力石を持ち上げた青年を選んで沖縄へ送ったという。

さて「島唄ひと紀行」は一読したばかりであるので、これから精読させてもらい道の島の人々の生きざまにふれてみたいと思う。さらに籾さんの島唄にたいする蘊蓄に重ねてふれてみたい思いであります。

                (盛山 末吉)


平成14年3月「上嘉鉄魂」第46号 掲載





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2009年02月26日

「上嘉鉄集落 愛唱歌集」のプレゼント

 昨年八月に「上嘉鉄 愛唱歌集」を発行しました。上嘉鉄で歌われている歌を集め一冊の本にまとめたものです。
 
 八月踊り唄元唄、民謡、祝い唄、教訓唄、童唄など多数掲載しています。まだ50部ほど残っています。

 要りようの方は、送料のみご負担していただき、着払いでお送りします。(本代は無料)
 
 葉書に郵便番号、住所、お名前をお書きの上、「上嘉鉄魂」編集長 西島常吉までお申し込みください。

(申し込み先)
 〒891−6233
  鹿児島県大島郡喜界町上嘉鉄109−2
              西島 常吉




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2009年02月21日

少年の頃の手伝い・・・盛山末吉



 今の小中学生はお手伝いは皆無であるが、戦前の少年時代は、過酷なほどの労働が日課のようになっていました。

 学校から帰ると男女を問わず、年齢に応じて、それそれの家庭でそれぞれの手伝いが待ち受けていた。

 農作業中心の家業に加えて、牛、馬、山羊、豚等の家畜も飼育する農業形態で、しかも機械力は皆無の時代で、家族が唯一の労働力であり、小学生も働き手として重宝がられていました。

 男女共通の農作業として、からいも植えの祭のいも苗、製糖期のきび運搬、馬の後追い。子守り、男児の馬草刈り、稲田への水入れ、女児のいも洗い、洗濯、夕飯の準備、食後の皿洗い等々まことに雑多な仕事が次々と待ちかまえ、親達は子どもの学校帰りを待ちわびている状態でありました。

 子守りのとき赤ちゃんをおんぶして、背負った赤ちゃんともども泣いてしまったことや、おしっこで背中が冷たくなったことが昨日のような感じさえします。

 特にきびしかったのが馬の飼料としての草刈りでした。三度の飼料は、母のつとめでしたが副食用の草刈りは小学生の絶対的なノルマであった。

 雨が降ろうが照ろうが草を刈りてこなければなりませんでした。

 寒風吹きすさぶ冬の日の草刈り等、早く忘れてしまいたいですが、中々忘れられない出来事となってしまいました。

 学校から帰るやいなや作業服に着替え、草かごに草刈り鎌を入れて、野原へ駆け込んで行きました。

 働き者の上嘉鉄の畑は荒れ地とてなくわずかに畑の畦に生えた「アーガヤ」等を根気よく刈りとったものでした。

 草かご(ヒナイ)いっぱいになるのは、毎日のように夕暮れ時で帰宅するときはうす暗くなっていました。

 疲れ切った体で夕食後、ランプのもとで勉強をとソーメン箱の勉強机に向かうと父は

「石油がもったいない」

とどなりちらし、勉強も満足にできませんでした。

 さらにきびしいのが田んぼへの水入れでした。上嘉鉄は畑シマで田んぼはごく一部の家庭しかありませんでした。

 私の家は一枚だけの田んぼがあり、その田んぼの水番も私の係でした。その田んぼは用水路より1メートルくらいあがっているため水を石油缶で用水路から汲み上げて田んぼへ入れました。

 その水が重かったこと。小学生の腕力では大変苦しみました。●●●回入れたら終わりだと計画を立て、その回数を数えて水を入れることでした。

 今ではその田作地帯も耕地整理によって畑地となってしまったが、水源の「マチィチャ」はそのままで水量は激減しているものの形はかつてのままでなつかしさいっぱいであります。

 今ではからいも栽培もせず、家畜も皆無、さとうきび単作農業となり、さとうきびの収穫作業もハーベスターの機械力を駆使し、畑地へも自家用車しかも生きびを製糖工場に売り渡す時代となってしまいました。

 驚くほど変容した農業形態だと言えましょう。たださとうきびの刈り出し期間中は農家の皆さんは、割り当てたトン数分のさとうきびの刈り取りをしなければならず、額に汗して働きづめております。

 製糖の歴史について藩政期にはこの栽培、製造の重労働の他に上納黒糖にまつわる罪も重くシマ唄に

心配(シワ)じゃ 心配じゃ うぎ切り心配じゃ

うぎの高切り 札はきゅり

心配(シワ)じゃ心配じゃ 砂糖たき心配じゃ

砂糖のぶく吹き 札はきゅり

と、さとうきびを根元ぎりぎり刈り取らず、高切りしたら罰としての札をはかされ、また、さとうきび汁を炊く際、黒糖のよごれ(ぶくー)をとらずに炊いても罰の札をはかされてしまい、とても苦労したと歌われ、今では想像もできない苦しみをかみしめた先祖さまの姿が歌われたいます。
盛山 末吉


平成15年3月「上嘉鉄魂」第58号 掲載
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上嘉鉄童唄



※女児の毛毬唄

一カケ 二カケニ 三ヲカケ

四カケ 五カケニ 六ヲカケ

七ノランカン

八(橋)ヲカケ

橋の向かう 眺めれば

十七・十八の姉さんが

片手に花もち 線香もち

姉さん どこ行く 尋ねたら

私は九州 鹿児島の 西郷隆盛 娘です

明治十年の戦役で

打たれ 死んだ 父上の

お墓参りに 参ります

お墓の前では 手を合わせ

なむあみだぶつと拝みます

もしも その子が男なら

士官学校 卒業させ

アメリカ言葉を習わして

梅には 鷲 止まらせて

ホーホキョウと 鳴かせます

              採集協力者(美代イシ。盛 スミ子、他数名)
 明治の昔の童歌(わらべうた)・遊び歌を採集しています。どんな歌でも結構です。ご協力くださいますようお願い申し上げます。(編集)


平成14年10月「上嘉鉄魂」第53号 掲載



ラベル:童唄
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2009年02月07日

我が最愛の唄者・・・大友勝仁

 今から10年ほど前、名瀬にいた頃、島唄を習っていた母の影響で少しずつ島唄を聴くようになっていたが、まだその魅力を理解する事は出来ずにいた。

 だがたまたま聴いたテープに夢中になった。絞るような低音、今まで聴いたことがない。「イキュンニャカナ」がそこにあった。

 切なくなるような「御枕節」。気持ちが高ぶるような「豊年節」がそこにあった。私は毎日そのテープを聴くようになった。「竹下和平傑作集」だった。

 坪山豊氏や築地俊三氏のような知名度も華やかさもない。ただ方言も島唄も分からない私の胸にその音は、ストレートに飛びこんでくる。専門家ぶるつもりはないが、私は竹下和平氏の事を天才唄者だと思っている。

 竹下和平氏は、昭和8年生まれの69歳。瀬戸内の諸和(しょかず)の出身だそうだ。父親が地元の有名な唄者だったらしく、幼い頃から島唄に親しみ、小学校3年生のころには、三味線を手に歌うようになったという。

 父親のすすめで小学校6年生から詩吟も習っていたらしい。昭和34年頃から奄美大島では、注目されはじめ数々の芸能大会に出演。

 そして昭和37年には、竹下氏の唄が初めてセントラル楽器でレコード化されたという。現在は尼崎に在住している。

 竹下氏の実姉、泉サエさんは、喜界町の山田に嫁いでいる。私は仕事を通じて泉さんと知り合った。




 先日お会いしたとき、

「泉さん、私は10年前から竹下さんの大ファンなんですよ」

と話すと

「ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします」

と笑顔をこぼしていた。

 私は、竹下和平氏とは一度もお会いしたことがない。もちろん生の唄も聴いたことがない。でもいつか祝いの日に目の前で竹下氏の「朝花節」を聴いてみたい。

 私は、いつもその日を夢見ている。

大友 勝仁


     平成15年2月 「上嘉鉄魂」第57号 掲載

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ラベル:竹下和平 諸数
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2009年01月27日

「輝く奄美の島唄」を読んで・・・盛山末吉

盛山 末吉記

 遠くシマを離れてヤマトに生活していらっしゃる皆さん。

 四季の移ろいと共に思い出すのは故郷の面影でありシマ唄や八月踊りのことだとお察しいたします。

 さらに年老いていくと踊り狂って歌うヤマトの流行歌よりはしんみりと歌うシマ唄がじんと響くのがあることだと思います。

 眠れない晩は、ラジカセのシマ唄が子守歌となっていつのまにか寝入ってしまうことさえあります。

 ある日、書架をあさっていましたら貴重な、しかも懐かしい本に出会いました。それは「輝く奄美のシマ唄」だったのです。

 この珍しい本は愚生の1級先輩の花良治出身の郡山直先生からいただいた本です。郡山先生は、奄美のシマ唄を残すことなく徹底的に採集し、シマグチの歌詞を共通語に書き直し、さらに英語に書き直すといったたいへん面倒な仕事を遂に完成させました。

 これが「輝く奄美のシマ唄」となって世に出ることになったのです。

 先生は師範学校卒業後、沖縄に渡り、沖縄の外国教員養成科を卒業。さらにアメリカに渡り、アメリカの大学を卒業した逸材である。

 日本に帰国後は桜美林大学、東洋大学に勤務し、その力量を遺憾なく発揮した学者でありました。

 師範学校在学当時、喜界島出身のものが一堂に会して喜界会なる親睦会が開催されるのが定例の年中行事でした。

 その席上各自、自己紹介をしたが先生は自己紹介を英語でしゃべりまくり、なみいる出身者一同は舌を巻くありさまであった。

 先生は語学の天才といえましょう。時は戦時中、敵国の英語は忌避された時代のこと。かような時代に並外れて堪能なのはもって生まれた才能だったろうか。

 いずれにせよ偉大な先輩、それが郡山直先生であります。

 次に久保けんお先生を紹介しましょう。

 先生は、荒木出身で昭和17年師範学校を卒業の大先輩、先輩は「奄美・沖縄の民謡」という本を書かれ、その一部のコピーをいただいております。

 先生は集めたシマ唄を五線譜にしたためた音楽家であります。いずれにせよシマ出身の両雄といえましょう。

 なお、久保先生は荒木小学校の作詞・作曲もなされており、郡山先生がシマ唄の収集家であれば、久保先生はシマ唄の編曲家といえましょう。

 シマ唄は奄美の自然の美しさを歌ったもの、人生のあわれや、愛を歌ったものなどあるがこの度は先輩お二人の唄の本からの自然の美しさを歌ったのを拾い上げて紹介しよう。

※ 世間なんて 羨めさんむんや 七倉建てて暮らす人こそ 羨ましい

それよりアンマとジュウがおられる人こそ羨ましい

 解説 俊良節の一首で両親を大事にする奄美の人の心を痛切に表現している。

※ 年は流れる川の流れ水のようだ 二度もどってみたいな十七,八のころに

 解説
 
これも俊良節の一首で人生というのは川の流れのようなもので,あの十七,八のころにかえってみようと思っても絶対できることではないですよ。だから・・・

※ アンマとジュウが気の毒考えしょんな あんまとじゅう 米とて豆とてみしょうらしゅんどう

 解説

  いきんにゃかな節の一首で,心配しないでください。父さん母さんあたしが一生懸命働いて米や豆を差し上げます。哀調のこもった胸に響く曲です。

※ 請くまんまじょうちば あがしがでぃ

 きょらさるうなぐ 居しりば露ぬたるり

 立てれば水ぬ はりゅり うけくままんじょちば

 あがしが きょらさるうなぐ

 解説

うけくままんじょ節です。うけくままんじょの美しさをたたえた唄です。節回しが難しい唄です。



平成17年11月「上嘉鉄魂」第90号 掲載






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ラベル:島唄 奄美
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2009年01月26日

島唄コンサート・・・盛山末吉

 第7回島唄コンサートが去る8月29日、県文化センターで開催され幸運にも聴衆の一人となった。

 南日本新聞によると満員の約1500人がつめかけ奄美シマ唄の独特の世界にひたったと報じている。

 出演者は西古見のベテラン西和美、名瀬出身の若手のホープ貴島康男、わが喜界島が産んだ牧岡奈美とベテラン新人が島唄を歌いあげ神妙な裏声のリズムに浸ることでした。

 会場ではまれまれと会ったシマンチュ同士が今日ばかりはと存分にシマ口で語り、挨拶をかわすなごやかな風景も見られました。

 まず貴島康男と牧岡奈美の朝花節からスタートした。奄美島唄の頂上に位置する坪山豊の跡を継ぐといわれる貴島康男の

 神のひきあわせか まりまりと なきゅうがでぃ

と唄が響くと、会場のシマッチュたちは感慨無量。心では涙してきき惚れている神妙な空気がセンターいっぱいに満ちあふれているようだった。

 牧岡奈美は、

 塩道長浜なんてぃ わらび泣きしゅる

 クリヤ たがゆいど 汗はだの けさまつのゆい

と塩道長浜節を歌いあげた。きゃしゃな体から声量豊かで節回し絶妙の神の声のような唄がつづいた。

 その塩道長浜も開発の時代の波には勝てず、広く埋め立てられつつあり、奄美の古典的な文化遺産が消えようとしている。

 唄が終わるたびにわれんばかりの拍手が響き渡った。ぼくは目頭があつくなり無念無想の境地で響き渡る拍手を聞くだけであった。

 唄は野茶坊節・諸鈍長浜節へと続いた。貴島康男・牧岡奈美共に自ら三味線を奏でながら歌う現代風唄者であった。

 ステージはよいすら節、嘉徳なびかな節へと続き、

 西の管鈍なんてぃ 雨ぐるみのさがてぃ

 雨ぐるみやあらぬ わ加那なだど

と雨ぐるみ節も印象的であった。

 さらに唄は俊良節、くるだんそ節、むちゃ加那節、かんつめ節と貴島康男の哀調おびた裏声に1500人の聴衆は陶酔し、もの音ひとつせずしーんと静まりかえった。

 西和美は片倉輝男の三味線にのせて今の風雲節、野茶坊節、諸鈍長浜節を唄いあげた。

 今の風雲は 村が上に立ちゅり

 わぬがとのじょさま う西原立ちゅり

(風雲は シマの上に立ち 愛する主人は 北の海原へと旅たった
 どうかご無事でありますように)

と今の風雲節がひびいた。

 結びは3名の方々がワイド節。稲すり節、続いて六調と歌いあげた。とたんに座は高潮し、観客は我先にと舞台にあがって踊りまくった。

 我がハティツが産んだ唄者牧岡奈美は声量といい節まわしといい加えてスラムンで申し分のない神のような存在。

 これからもますます円熟してシマ唄の真髄をきわめて欲しいと激励することであった。奈美は喜界島の宝であり、わがハティツの宝だ。
                (盛山記)


平成14年10月「上嘉鉄魂」第53号 掲載






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2009年01月24日

シマ唄の教え(続き)・・・盛山 末吉

 この度は、たくさんのシマ唄の中から教え諭すシマ唄をとりあげてみたいと思います。

※ 線香ぬ ねえだな しゅうてぃ 松葉たてぃてぃ

  山川観音丸 二度こぎ ねがおう


 さつまからの品物を積んだ山川観音丸よりもう一度きてくれませんか。私たちはすでに線香がきれてしまって線香代わりに松の葉をたててウヤフジを拝んでいます。

 今も昔もお線香をたててウヤフジおがむのは奄美の私たちの心でしょうか。

※ 今年 年がなし からからぬ 日でり

  雨ふらちぃ たぼれ う天とうさま


 今年の夏もまた、からからのひでりになってしまいました。どうかお天とうさまよ。雨を降らせてください。どうかお天とうさま。

※ 心むちなしゃ はじぬ葉の広く

  松の葉のせまさむつな


 人間は、はじの葉のように広い心を持ちなさい。松の葉のように小さい心を持ったらいけませんよ。小さな心になって毎日くよくよしたらいけませんよ。
 小さな心になってくよくよしたらいけませんよ。

※ 花なれば におい 枝むちや いらぬ

  なりふりや いらぬ 人は心

 花はかおりが第一できれいな枝振りなどいりませんよ。まして格好などいりませんよ。人間はきれいな心ですよ。「姿美人より 心美人ですよ」

※ 高さ がじゅまるや 風ににくまるり

  肝高さ持てば友達(ドゥシ)がにくむ

 屋敷回りのがじゅまるの木も高くそびえていばっていると風に当たって倒れてしまいます。人間も無理してえらぶって見識を持つと友達から嫌われますよ。

※ 皿の水だもそ 吹けば 波たちゅり

  我が悪き あてぃどぅ よそや荒れる

 小皿の水でさえ吹けば波が立ってしまいますね。自分の身の回りが荒れるのも自分が悪いせいだと常々反省することが大切ですよ。

※ 親の教訓(ゆしぐとぅ)は身の上の宝

  耳にききとめて 胸にしみり

 親の教えは我が身の宝ですよ。よく聞きとめて心にしっかりしまっておくものですよ。

※ うしかくそすれば 天と地は鏡

  影うつると思えば かくしならん

 誰も見ていないからおさえて かくそうと思ってもかくせませんよ。天と地がちゃんと見ていますよ。

※ 別れてやいきゅり ぬ かたみうちゅり

  汗はだぬ てぬぎぃ うりどぅ形見

 お別れですね。何の形見もありません。私が使っている汗はだのてぬぐいをあげます。どうかお受け取りください。

 南島ではうなり神がなしと云って兄弟を守るといわれています。特にうなりのてぬぐいはお守りです。
                 (文責 盛山末吉)


    平成16年8月「上嘉鉄魂」第75号 掲載





ラベル:シマ唄
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シマ唄の教え・・・盛山末吉

 近頃はシマ唄ブームといわれ島唄がさかんになりテレビでもよく放映されています。

 ご承知のようにシマ唄はお祝いの唄(年の祝い、お産祝い、結婚祝い、新築祝い)を初め八月踊りなど多岐にわたっております。

 本土のある方は奄美のシマ唄は恋歌ばかりで低俗だという意見もあります。

 しかし恋唄もちゃんとしたシマ唄文化だと思います。昔の人々は国語力もないのに即興で臨機応変にかえし唄をする作詞力がありました。これが唄遊びです。

 シマ唄のほとんどが八・八・八・六の三十音になっており、例外としてかんつめ節の四十八音、くるだんどの四十四音等があります。

 かつてテレビ等が普及しない戦前の生活は暑い夏の夜を金久で夕涼みをしたもので人が集えば自然唄が出てくるものでした。

 むかし奄美がやまと世の時には大島でとれた黒砂糖は税金として現物をさつまの殿様に納め残りのごくわずかで生活していました。

 わずかばかりの黒砂糖はさつまから送られてくる日用品と交換してやっと暮らしていました。

 当時の農民は割り当ての砂糖きび作りに追いまくられました。加えて台風・ひでり・病害虫の被害もあり農民は疫病等に苦しみ二重、三重の苦しみは、筆舌に尽くせないものがありました。

 このような時も人々は、祖霊を拝み心の平静をとりもどしておりました。

 さらに人々はシマ唄に託してわが心身の苦しみ胸に鬱積するものをおさえて自らを慰めました。

 これがシマ唄です。

 シマ唄の悲しいリズムや裏声もその根幹にはもがき続け、あえぎ続けたシマ人たちの時代的背景があったのです。

                 (続く)

              (文責 盛山末吉)


   平成16年8月「上嘉鉄魂」第75号 掲載


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ラベル:盛山末吉
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2009年01月16日

「島唄ひと紀行」を読んで

 先日南海日日新聞社の籾芳晴さんから表記の本が送られてきたので、早速読むことにした。島唄は昔も今も奄美人の心の支えであるのでとても興味深くひもとくことができた。

 籾さんが奄美全島を丹念に足でかせいだ記録だけにとても緻密な表記に、ある時は感動を覚え、またある時は目頭があつくなるのを覚えた。

 島唄の背景には薩摩藩時代の言語に対する地獄絵があっただけにその様子も詳細に表記され読むごとに一人で悲憤慷慨することであった。

 「芸能」を唯一の武器とした琉球と同じく圧政に呻吟する奄美の先人達は、その苦しみを島唄でいやしていたようすが鮮明にえがかれ、今、太平の世に陶酔しているぼくは大きな一撃をくらった感であった。

 また氏による徹底した唄の解説が独断でなく代官記の古資料を駆使した根拠のある書きぶりに感じいったところでありました。

 管鈍の昌谷忠等著名人の発掘など管鈍小学校に在職したぼくにとっては大きな勉強でありました。

 戦前今は亡き叔母がよく歌った嘉徳ナベ加那節のヒロイン、ナベ加那についても多くの説を引用されナベ加那は天女に匹敵するほどの気高く美しい神女だと説かれ親に水くまして浴み・・・の意味が理解できることでした。

 天下一の美女節子のトミは

 正月やバシャギン着らむば

 節子のトミもらてくり

と歌われ、トミは七色の声を持ち、加えて三味線の名手で「流れ船」を楽しんだ文化人であったという。今、写真でもあればぜひ拝みたい気持ちになりました。

 喜界島については為朝に由来する雁股の泉、ウラトミ・ムチャ加那親子の悲話、さらに「五つがめ」物語、美女に生まれたばかりにあわれな最後となった中間なでめらべ等が丹念に表記されている。

 戦前開催された喜界島学生大会にとある大先輩が一席ぶってしまった「学問とは雌馬に乗って阿伝ビラを行くがごとし・・・」と絶叫して学生諸君を叱咤激励したくんだりも今でも偉大な資料として輝いている。

 さらにページは徳之島、永良部、与論とつづいており兄弟ジマ沖縄の物語など改めて学ぶことができました。

 喜界島には阿麻和利の血をひくといわれる「勝連屋敷」も現存し碑のそばには力石が置かれている。

 この力石を持ち上げた青年を選んで沖縄へ送ったという。

さて「島唄ひと紀行」は一読したばかりであるので、これから精読させてもらい道の島の人々の生きざまにふれてみたいと思う。さらに籾さんの島唄にたいする蘊蓄に重ねてふれてみたい思いであります。

                (盛山 末吉)


平成14年3月「上嘉鉄魂」第46号 掲載





posted by hathitu at 22:40| Comment(0) | 島唄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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