2009年02月28日

今年の初敬老は八名

 第89回 上嘉鉄敬老会

 去る1月3日、上嘉鉄小体育館には敬老者を祝うため多くの集落民が参加、89回目を迎える伝統行事が盛大に開催されました。

 今年の初敬老者は8名。内3名が出席されました。主催者、来賓の挨拶に続き、祝舞、祝唄や初敬老者の家族による歌や踊りの披露の他、3集落の婦人会・子ども会を中心にした出し物でお祝いに華を添えました。

 余興最後は、「筋肉隆々の色っぽい」青年団による歌と踊りの大熱演に最前列の初敬老者も目を背けながらハンカチで涙(笑いすぎ?)を拭いていました。

 初敬老者を代表して藤村昭輝さん(上中)が「主催者、来賓の皆さんからお祝いを戴き、ありがとうございます。今日から先輩の敬老者の皆さんの仲間入りができて、とても嬉しいです。

 私たちのために歌や踊りでお祝いして頂いた集落の皆さん、青年団のみなさんに感謝申し上げます。」

と謝辞を述べました。

 敬老者名簿によると、数え70歳以上の方は合計で182名、上東65名、上中55名、上西62名。

 男性の最高齢者は藤岡實基さん(99歳・上中)、女性は上中の原口ウツさんと上西の生ウメさんのお二人が共に101歳。

 敬老者の皆さん、これからもお元気でお過ごしください。

(生島)


平成21年3月 「上嘉鉄魂」第128号 掲載



ラベル:上嘉鉄敬老会
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2009年02月27日

新春に語る・・・榮 哲治




 新年あけまして、おめでとうございます。

昨年の町議選では、集落の皆様に大変お世話になり、ありがとうございました。

 お陰様で、初当選を果たすことができました。選挙期間中に皆様に訴えてきましたキャッチフレーズ

「集落の元気が喜界町の発展」

のさらなる実現と共に、お年寄りが安心して暮らせる島づくりに4年間一生懸命頑張って参りたいと思っています。

 ご指導、ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。

「現在喜界町で一番元気のある集落は上嘉鉄である」

と言っても過言ではないと思います。町主催のスポーツ大会でも参加数の多さはもちろん、成績の面でも大変すばらしい結果を残しております。

 また、文化面でも子どもから高齢者まで幅広い層での青年団による盆踊りも負けない「喜界島の夏の風物詩」となっております。

 また、最近は青年団の有志によるボランティア活動が活発です。シツル崎灯台を中心に清掃活動を続けている「やらそう会」や通勤で湾頭原を利用する人々による道路まで生い茂った雑木、雑草の伐採作業等は、

 その参加人数や作業規模、内容といい圧巻です。短時間でとてもきれいに仕上げています。

 他の集落より「上嘉鉄は何をしてもよくまとまるなあ」

と耳にします。その事について私は先人達がつくり上げた「ハティトゥ魂」の教えを守ってきたからだと思います。

「ハティトゥ魂」の理念は、3つの柱より成り立っています。

1 負けないこと。

2 団結すること。

3 よく働くこと。

 の3つです。

 子ども達の教育面や大人の社会生活でもこれを実践すれば間違いなく大成すると思います。

 更に、上嘉鉄の良さである「後輩は先輩を敬い、先輩は後輩に慕われるよう学びながら後輩を育てる」

 この古き良き伝統でこれからも若者たちをしっかり育てていきたいものです。

 最後に、今年1年間、牛歩のごとく、たとえ遅くとも確実に1歩、1歩目の前の問題から目を背けず、力を合わせて集落の発展、もっと元気のあるハティトゥになるよう頑張って参りましょう。
              喜界町議会議員  榮 哲治(上 東)


  平成21年 3月 「上嘉鉄魂」第128号 掲載 

 ■郵送よりも、この記事を早く読まれるかたもいらっしゃると思います。3月2日(月)に発送の予定です。■



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2009年02月26日

集落の倉庫使用開始

 昨年末に集落総会で、旧消防車庫を集落倉庫として使用することが決まりましたが、青年団は、昨年末、地区センター内の研修室に保管してあった盆踊り用資材を新倉庫へ移しました。

 旧消防車庫だけあり、まだ十分なスペースがあるので、普段使用しない資材等があったら搬出して校区民に利用できるよう部屋を空けたいと考えています。

 これまで使えなかった台所となりの研修室も子どもたちの太鼓やサンシンの練習に使用しております。

 青年団のみなさんお疲れさまでした。

(生島)


平成21年3月 「上嘉鉄魂」第128号 掲載





ラベル:倉庫
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「上嘉鉄集落 愛唱歌集」のプレゼント

 昨年八月に「上嘉鉄 愛唱歌集」を発行しました。上嘉鉄で歌われている歌を集め一冊の本にまとめたものです。
 
 八月踊り唄元唄、民謡、祝い唄、教訓唄、童唄など多数掲載しています。まだ50部ほど残っています。

 要りようの方は、送料のみご負担していただき、着払いでお送りします。(本代は無料)
 
 葉書に郵便番号、住所、お名前をお書きの上、「上嘉鉄魂」編集長 西島常吉までお申し込みください。

(申し込み先)
 〒891−6233
  鹿児島県大島郡喜界町上嘉鉄109−2
              西島 常吉




aishou090226a.JPG




ラベル:プレゼント
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2009年02月25日

島ユミタ・・・ハビル




■ ハビル・シャービラ=古語の「侍り(はべり)・為侍り(しはべり)」の転であり、おりの丁寧語であり、ございます。おりますの意味(古語辞典)

 奄美の方言ではあまり耳にしないが奄美民謡詩歌では次のように使用されている。

「アスビ ハビロ」=遊びましょう

「アスビ シャービロ」=遊びしましょう

「シシヤ アヤビラン」=肉ではありません

などとよく使用されている。

 この語法は、上古(奈良時代)から中古(平安時代)に使用され鎌倉時代以降は使用されなくなり、変わって「候(そうろう)」が使用されるようになった。(広辞苑)

 八月踊りの詩歌・奄美民謡には「侍り」が多く「候」はあまり見当たらない。この事実から奄美の民謡は平安時代からの発生ではないかと想像されるがいかがなものだろうか。

 ついでに沖縄の方言には日常挨拶語として

キャビラー=来侍る=「来ます、ごめんください」

があります。

 大島本当では、これに相当する言語は、

キョウロ=来候(きそうろう)

があります。

 これは本土と沖縄・奄美間の距離差か?交流差によるか?後考の必要があります。

 喜界島ではセーラー=「来ます」と「ホーイ」があり、ホーイの語源は分からない。

                     南界記


平成17年12月 「上嘉鉄魂」第91号 掲載
  


ラベル:ハビル
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2009年02月24日

ウトゥ地名について




 上嘉鉄集落の北側、保食神社にある周辺一帯を小字名で通称「ウトゥ」と称しています。

 「ウトゥ」の語源は、混効験集という琉球語辞典やオモロソウシにある「オボツカグラ」の「オボツ」の転と思われる。

「オボツカグラ」の意味は、混効験集によれば、語義不詳で「天上のことを云い、天上にあると想念される聖域」とあるがなんか意味が分からない。

 沖縄・奄美の古代・中世人の神観念は先祖の神と天上界から天降りてくる神・海の彼方の竜宮からやってくる神の3つがあると信じていたと思われる。


 そして天上界から天降る神は、その地区の最も浄い聖地・霊域に天降ると考えた。この思想は、古事記の高天ケ原神話や琉球神道記のアマキヨ・シネリキヨが奄美岳(笠利町)降臨神話と似ているように思われる。

 仲松弥秀氏の説明は、はっきりする「オボツ山、オボツ岳」とは奄美・沖縄諸島では集落の腰当て森(鎮守の森)として機能を果たして広く分布し、この森に来訪神が最初に足がかりする所である」と言われる。

 上嘉鉄の「ウトゥ」地名は正しくこれに当てはまるようだ。

 オカンサマと集落民は、一般的に呼称しているが、天上界から天降る神のことか?


 はっきりしないが、麓にウンガ(昭和初期までの神遊び場・八月踊り場だった)やノロ畑があることを考え合わせると、「ウトゥ」は当初はノロの斎場(神事・祈願・神のお告げを聞く)であった可能性もあり、いずれにしても昔からの聖域であることにかわりはない。

 年代は、はっきりしないが(多分江戸時代)後に同地に馬頭観音の石像が設置され、さらに明治になって国家神道普及の政策により。保食神社となり今日に至っている。

 その頃一時、馬頭観音像は海に投棄されるという受難の時代もあったが、今はは仲良く鎮座して、集落民が深く信仰している。

 ついでに保食神社のことに簡単に触れよう。(ほしょく、ほうしょく)と呼称するのは喜界島だけの呼び名で日本書記では、保食と書いて「うけもちのかみ」と読み仮名をつけてある。

 祭神は「豊受姫大神」で、農業・家畜・食料の神と言われている。

南海記


平成17年8月 「上嘉鉄魂」第87号 掲載


ラベル:ウトゥ
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喜界島凶徒聚衆事件 4




 この事件及び裁判判決に対し疑問をもったのが、大島区裁判所勤務の検事、岡程良検事です。(岡検事は、龍郷町出身)

 岡検事の直接の上司である検事正は岡検事には何らの連絡もなく、つとめて岡検事には秘密にしたので、岡検事はこれに不信を持ち、密かにこれを調査した結果、この事件は謀略により仕組まれたものであることをつきとめた。

 直ちに鹿児島地方裁判所の有罪判決を不当として大審院長崎控訴院(現在の最高裁判所にあたる)に上訴したのです。

 これがこの判決書です。

第一 ●●以下十三名は 犯罪をおこした証拠充分でないから訴えられる理由はない。

第二 ●●以下一三一名は田中圭三の釈放を嘆願する目的で天神山に集合したが、巡査の説得を受け(一時間以内に帰宅しなさい)ウドゥンヌハナーに場所を移し、圭三の釈放嘆願と圭三の罪はいずれに当たるか、

 また、訴えた人は誰かをはっきりすれば帰宅する覚悟であり、最初から暴動を起こす意志はなかった。

 然し派出所において巡査を脅迫したのは集会の目的外で偶然の出来事だから凶徒聚衆
(暴動を起こす目的で大勢集合すること)にはならない。

 よって罰するような罪はない。

第三 時円 外十二名は巡査の説得を拒否し派出所に乱入し巡査を脅迫して田中を釈放せざるを得ないようにしたのは、もともと令状なく不適法に逮捕拘留したのだから釈放すべきものを釈放したに過ぎないから罰するべき罪なし。

第四 ●●と●●の二名は、派出所の障子及び戸を破壊したのは有罪と認める。



 以上が判決文ですが、判決文に氏名が連なっているのは島内で一五四名という喜界島最大の事件に島民の精神的不安を考えるとき、巡査の不法逮捕により(令状によらない逮捕)島民の精神的打撃は大きい。

 以来島民は民事事件にしろ、刑事事件にしろ裁判で決着をつける事をなるべく避ける風潮ができたと思われる。


 それにしても、不可解なのは第一に一巡査が令状なくして不当逮捕が当時はしてもよかったのであろうか。

 第二に、不当逮捕→起訴→裁判→有罪ますます理解に苦しむ(現在は現行犯以外は令状が必要)

 第三に当時の司法制度では逮捕令状発権者は、誰かの命令で逮捕したであろうけれども、誰の命に従ったのか謎だ。後日の研究に待つ。   
完 西島


平成12年5月 「上嘉鉄魂」第24号 掲載


ラベル:田中圭三 岡程良
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2009年02月22日

姿を消した昔の女性の髪型



 戦争中は行政が国家主義政策をとった関係もあって、女性の髪型は規制の対象とされていました。

 現在のパーマネントは外国文化だとの理由で禁止されていた。

 下の図は終戦前までの女性(婦人)の髪型です。結い方は背後に髪の毛を全部束ねて、手に1回巻いてひねり、残りの髪の毛を毛の根本に巻き付け、手に巻いた髪で巻き付けた所をおおうようにします。

 そうして巻き付けた毛先をひっくり返して押さえて、最後にギィーハーで留める。

 ほつれにくくて、農作業等に便利だったと老婆は語る。今は、すっかり姿を消して拝見するのは難しい。


kamigata090222.JPG




平成14年8月「上嘉鉄魂」 第51号 掲載





ラベル:髪型
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母校の卒業式・・・盛山 末吉



 久しぶりに母校上小をはじめ、幼稚園、二中の卒業式、卒園式に出席する機会にめぐまれました。

 このたびは愚生の退職時の学校でもあり、また母校である上嘉鉄小学校の式について述べることといたします。

 いずれの学園も都市部の学校にみられるような荒れた卒業式風景は全くなく粛々と進行する母校の充実ぶりに感銘を覚えました。上小は児童数52名、一部複式の五学級で9名の先生方で運営されるミニ校となりました。

 お互いが男女別クラスで1学級四十余名ほどの頃とは夢のような錯覚を覚える現状です。これも少子高齢化現象でしょうか。時代の流れとはいえさびしさ一入です。
 

 いただきました卒業のしおりの表紙には卒業生6名の全身写真がプリントされ、教師の心くばり印刷技術の進歩に驚くばかりです。

 証書のいただき方をはじめ式全体がまことに厳粛に進行しました。これも先生方の日常の教育活動が細部にわたった、ぬくもりに満ちた指導の賜物であり、指導を素直に受けた児童諸君もりっぱだなと思うことでした。受賞態度も決して無理せず、自然の形でなされ、回れ右もこなす姿に感動いたしました。

 受賞時にはオーバーヘッドを使って一人一人の思い出の一駒が放映されとても印象的で児童達も永遠に忘れることのない思い出となったことでしょう。

 卒業生・在校生のお別れの言葉は少々長いようでしたが、とても有意義な内容でした。中でも方言大会開催のこともあり、一種独特のカテツ方言をりっぱな言語文化として捉え、このような大会を開催された見識に最敬礼です。(堂々と話せハティツ ユミタ)と言いたい。
 
 久しぶりに聞く「仰げば尊し」にぼくは目頭を熱くしました。僕ももう古いタイプの人間だなと心の中で諦めることでした。大きいばかりが能ではない(ヤセガマンか?)母校の児童数の減少傾向にあるこの姿にどう対応したらよいか校区民の大きな課題といえましょう。

 当日は雨天のため校庭が水浸し状態となっていた、町長さんもご列席のようであったのできっと行政側としての対策もご一考なされたことと思います。またぜひ改善して欲しいものです。

 最後に学校長の式辞の中から「@目標をもって常に努力する人になれAまわりの人から感謝される人になれ」名訓辞で結びといたします。
母校よ永遠なれ    (盛山末吉記)


平成16年5月 「上嘉鉄魂」第72号 掲載 


ラベル:盛山 末吉
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2009年02月21日

揺れる市町村合併・・・友岡藤市郎



 平成の大合併、喜界町は単独で合併しない方針ですのであまり関心がないことでしょう。 しかし鹿児島本土では、合併に賛成・反対で住民発表までしており、まだまだ先が見えない状況です。

 私が住んでいる喜入町は揖宿郡から鹿児島市に合併しました。役場は支所となり町長や」教育長も無くなりました。

 役場職員も減りました。その代わり専門職員が本庁から出向いてくるシステムです。無駄を省く狙いです。

 合併に不満の多いが長い将来を考えると税金など住民の負担は単独より少なく専門的サービスも多いと思います。
 国の施策・合併に賛成しなければ、補助事業や地方交付税などなんらかのペナルティ(罰則)が有ることでしょう。
 現在でも農業関係事業では減反政策(水稲の作付を減らす)に非協力的市町村は、補助事業をカットするということで割り当て面積を努力して100%達成が続いています。


 無駄を省きながら住民へのサービスは今まで以上にしたいのが平成の大合併の狙いです。
 参考までに平成十六年四月現在の県内町村職員録で人口や職員数を比較して見ました。 町名    人口     職員数
喜界町 九〇〇〇人 二一四名
喜入町   一三〇〇〇人 一五九名
 笠利町   六九〇〇人  一八四名
また町議会職員は、喜入町十八名が合併によって一人の市議になりました。それは鹿児島市人口五五万人で市議が五〇人に基づいた事と思います。

 薩摩川内市は、離島を含む八市町村が合併しました。合併によって今までの「郡」や県の出先期間・学校などの統廃合までも発展しそうです。
(編集から原稿依頼がありましたので、参考までに話題を提供しました)喜入町 
      友岡 藤市郎


      平成17年3月「上嘉鉄魂」第82号 掲載


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少年の頃の手伝い・・・盛山末吉



 今の小中学生はお手伝いは皆無であるが、戦前の少年時代は、過酷なほどの労働が日課のようになっていました。

 学校から帰ると男女を問わず、年齢に応じて、それそれの家庭でそれぞれの手伝いが待ち受けていた。

 農作業中心の家業に加えて、牛、馬、山羊、豚等の家畜も飼育する農業形態で、しかも機械力は皆無の時代で、家族が唯一の労働力であり、小学生も働き手として重宝がられていました。

 男女共通の農作業として、からいも植えの祭のいも苗、製糖期のきび運搬、馬の後追い。子守り、男児の馬草刈り、稲田への水入れ、女児のいも洗い、洗濯、夕飯の準備、食後の皿洗い等々まことに雑多な仕事が次々と待ちかまえ、親達は子どもの学校帰りを待ちわびている状態でありました。

 子守りのとき赤ちゃんをおんぶして、背負った赤ちゃんともども泣いてしまったことや、おしっこで背中が冷たくなったことが昨日のような感じさえします。

 特にきびしかったのが馬の飼料としての草刈りでした。三度の飼料は、母のつとめでしたが副食用の草刈りは小学生の絶対的なノルマであった。

 雨が降ろうが照ろうが草を刈りてこなければなりませんでした。

 寒風吹きすさぶ冬の日の草刈り等、早く忘れてしまいたいですが、中々忘れられない出来事となってしまいました。

 学校から帰るやいなや作業服に着替え、草かごに草刈り鎌を入れて、野原へ駆け込んで行きました。

 働き者の上嘉鉄の畑は荒れ地とてなくわずかに畑の畦に生えた「アーガヤ」等を根気よく刈りとったものでした。

 草かご(ヒナイ)いっぱいになるのは、毎日のように夕暮れ時で帰宅するときはうす暗くなっていました。

 疲れ切った体で夕食後、ランプのもとで勉強をとソーメン箱の勉強机に向かうと父は

「石油がもったいない」

とどなりちらし、勉強も満足にできませんでした。

 さらにきびしいのが田んぼへの水入れでした。上嘉鉄は畑シマで田んぼはごく一部の家庭しかありませんでした。

 私の家は一枚だけの田んぼがあり、その田んぼの水番も私の係でした。その田んぼは用水路より1メートルくらいあがっているため水を石油缶で用水路から汲み上げて田んぼへ入れました。

 その水が重かったこと。小学生の腕力では大変苦しみました。●●●回入れたら終わりだと計画を立て、その回数を数えて水を入れることでした。

 今ではその田作地帯も耕地整理によって畑地となってしまったが、水源の「マチィチャ」はそのままで水量は激減しているものの形はかつてのままでなつかしさいっぱいであります。

 今ではからいも栽培もせず、家畜も皆無、さとうきび単作農業となり、さとうきびの収穫作業もハーベスターの機械力を駆使し、畑地へも自家用車しかも生きびを製糖工場に売り渡す時代となってしまいました。

 驚くほど変容した農業形態だと言えましょう。たださとうきびの刈り出し期間中は農家の皆さんは、割り当てたトン数分のさとうきびの刈り取りをしなければならず、額に汗して働きづめております。

 製糖の歴史について藩政期にはこの栽培、製造の重労働の他に上納黒糖にまつわる罪も重くシマ唄に

心配(シワ)じゃ 心配じゃ うぎ切り心配じゃ

うぎの高切り 札はきゅり

心配(シワ)じゃ心配じゃ 砂糖たき心配じゃ

砂糖のぶく吹き 札はきゅり

と、さとうきびを根元ぎりぎり刈り取らず、高切りしたら罰としての札をはかされ、また、さとうきび汁を炊く際、黒糖のよごれ(ぶくー)をとらずに炊いても罰の札をはかされてしまい、とても苦労したと歌われ、今では想像もできない苦しみをかみしめた先祖さまの姿が歌われたいます。
盛山 末吉


平成15年3月「上嘉鉄魂」第58号 掲載
姉妹サイトより

  「喜界馬のこと T」
http://umooriyokikaijima.seesaa.net/article/116519214.html 






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上嘉鉄童唄



※女児の毛毬唄

一カケ 二カケニ 三ヲカケ

四カケ 五カケニ 六ヲカケ

七ノランカン

八(橋)ヲカケ

橋の向かう 眺めれば

十七・十八の姉さんが

片手に花もち 線香もち

姉さん どこ行く 尋ねたら

私は九州 鹿児島の 西郷隆盛 娘です

明治十年の戦役で

打たれ 死んだ 父上の

お墓参りに 参ります

お墓の前では 手を合わせ

なむあみだぶつと拝みます

もしも その子が男なら

士官学校 卒業させ

アメリカ言葉を習わして

梅には 鷲 止まらせて

ホーホキョウと 鳴かせます

              採集協力者(美代イシ。盛 スミ子、他数名)
 明治の昔の童歌(わらべうた)・遊び歌を採集しています。どんな歌でも結構です。ご協力くださいますようお願い申し上げます。(編集)


平成14年10月「上嘉鉄魂」第53号 掲載



ラベル:童唄
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上嘉鉄の小字名



 下の地形図は、昭和31年国土地理院発行の25000分の1の地形図に上嘉鉄の湾トウバルの畑に小字名を数名の方々の記憶をお借りして記入しました。

 多少の出入りもあると思います。ご遠慮なくご指摘ください。より正確なものを後世に残したいと思う。

 現在は耕地整理により昔の面積はほとんどありません。地名は上嘉鉄人がこの地に住み着いた最初に名付けられたものだけに数千年の歴史の重みがあります。

 地名は勿論、命名当時の言葉で、当時の自然環境(特に土地の個性)や歴史的背景等を考慮して皆が賛同して定着したものだ。

 要するに地名は、その発生当時の特殊な意味を持っており、一度根を下ろすと、容易に失われないまま残るから、地名は遠い過去を物語る化石となっています。

 方言、風俗、習慣、制度等は時間の経過と共に変化消滅してしまいますが、地名、人名は永久に変化も消滅もしない。

 地名研究の目的は、当時の地理的景観、歴史的環境、言語の変遷等を調べ人類文化史の資料に役立てるのが目的の一つである。
(西島 記)

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平成14年8月「上嘉鉄魂」第51号 掲載



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喜界島凶徒聚衆事件 B

(別名田中事件)


 前回に引き続き6月25日の事件を起こした当日の状況を長崎軽罪裁判所の判決記録を基に詳細に記述しよう。

 当日、早々集合した有志同盟の代表達は、思案の結果、今までの農民の生活困窮を理由とする派出所の温情にすがって田中の一時釈放を一方的に嘆願しても、田中の釈放は考えられないとの結論に達し、順序として、次の戦術変換をしています。

 前号でも記しましたが念のため再録します。

1 押収した契約書が偽造であるか否か確認する。

2 田中を告訴したのは誰かをはっきりさせる。

3 田中の逮捕拘留は何か、何の罪にあたるか。

 以上3点を内容とする嘆願書に代表5人の連署して巡査派出所に提出した。派出所の回答は「3点共に応じない」

 「田中の釈放もしない」さらに「集会人民は直ちに帰宅させなさい」との返事。
その事を代表者達は天神山に集合している人民に伝えた。

 途方にくれた代表者及び人民達は押すことも引くことも出来ず思案しているところへ、12時頃派出所巡査2名天神山の全体が集合しているところへ来て次の事を指示する。

「田中は犯罪があるから釈放できない。又多人数集合するのは善くないことだから、今から1時間以内に帰宅せよ」

と説得され大半は帰宅する気分になっていたが、代表者の一人が
「もう一度交渉しよう。皆さんはウドンヌハナーで待機していなさい。決して派出所に来てはいけない。何が起こるか計り知れないし、巡査の心証を害してもいけないから」

とのことで全員それに同意しウドンヌハナーに移動した。


 代表者達は、派出所と再交渉したが派出所の回答は、

「田中は犯罪の事実があるので釈放はできない」

の一点張りで話し合いに応じない。代表者達は思案の挙げ句、告訴人を知らないことには全員を納得させることはできないとの判断から、次のような内容の嘆願書を派出所に提出した。

1 田中は何の罪なのか、又告訴人は誰か。

2 田中と契約した同盟規約には疑惑との噂があるが疑惑になることは何もない。正当なものだ。

 もし疑問に思うところがあれば私たちも一緒に双方共に取り調べてほしい。旨の嘆願書を提出した。

 これに対する派出所はなんら回答しないから、代表者たちは粘り強く要求する。回答しなければ人民を納得させることは出来ないと交渉を続行する。

 派出所巡査は

「指示を与えれば全員帰宅するとの文を記しなさい」

とのことで又嘆願書を書き直し、指示通りの文を書き添えて派出所に提出した。が派出所では犯罪の種類、告訴人について何ら回答をしないばかりか、

 反対に派出所は

「人民が帰宅に応じないのはお前達に帰宅させる誠意がないからだ。誠意をもってあたれ、それでも帰宅に応じない者があれば、そのものの氏名を書いて提出せよ」

 その時すでに、しびれを切らした人民達は(ウドンヌハナーで数時間待たされている)派出所門前にきていた。

 代表者達は、派出所付近から立ち去るよう説得したが大衆は納得せず、仕方なく氏名を書いて提出しようとしたら衆人は、

「そんなもの必要ない、各人の顔面が証拠だ。また代表者は役に立たない。全員で直願する」

とののしり騒ぎ手がつけられない。その時衆人数名が全員に
「皆来い」と呼び、それに応じた大衆は派出所門前に押しかけ、

「田中を出せ」「告訴人は誰か」「そのうちのいずれか一つでも回答せよ」

と各々叫び騒然としているうちに、派出所の返事は

「田中は釈放できない。告訴人はいない」

と応答し大衆を鎮めようと苦心している最中、大衆の一人が大声で

「圭三を出せ、告訴人を出せ」

と言ったのを派出所小使い●●がこれを聞きとがめ大声を発した本人の襟首を掴み派出所内へ引きずりこもうとしたので立腹した大衆は、

「打て打て、進め進め」

とののしり騒ぎが大きくなった。その内に投石あり、派出所ないに乱入し障子等を損壊した。

 もはや派出所では大衆を鎮めることができず、ついに午後5時田中を釈放した。然し、これで一件落着とはならない。

 数日後、名瀬より検事が数十名の武装警官を引率して極秘に湾港を避けて、志戸桶の沖名泊に上陸、関係した主な島民数十名が逮捕、大島支庁予審裁判で全員有罪を言い渡された。

 以下次号へ
(文責 西島)


平成12年4月「上嘉鉄魂」第23号 掲載
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2009年02月20日

瓦漏(とうろう)について(前号の続き)



 ところが文化4年(1807年)になって、島民の暮らしがとても苦しくなり、白糖製造は馴れない仕事で農民が困っているので、大島3000斤・喜・徳1500斤ずつ形6000斤、上納するようにとの令がおりました。

 このことによっても白糖製法がどんなに困難な仕事であったかを推測することができます。

 また、松浦豊敏氏は「海流と潟」の中で、瓦漏の現存について

「よくぞ無疪のままで残されていたというのが実感である。享和の白糖はまごうことなく覆土瓦漏法による白糖であった。

 また、かつての白糖の製造は大まかには喜界島の東南側に限られていたのではないか」

と述べております。

 生田常吉氏の瓦漏確認で、ますますそのことが確実になってきました。生田氏によると
「きわめて上質の黒糖がとれる先祖代々の畑が存在している」

と語ってくださいました。

 早町小学校保管の瓦漏は、昭和46年10月1日付けで町の有形文化財に指定されました。松浦氏が指摘するように喜界島の東南部にあたる志戸桶から阿伝、上嘉鉄を経て荒木に至る一帯は

「ハテージ」の畑作地帯で藩政期には喜界島有数の黒糖生産地域で「その品位南島中、喜界をもって最とす」

と記録されており、戦前良質の黒糖を生産していたのもこの畑作一帯であった。

 このことから早町・阿伝・上嘉鉄校区からは、すでに瓦漏が確認されており、きっと残された志戸桶・荒木の両校区にも現存しているものと思われます。

 両校区民の手によって早くその存在を確認しウヤフジ(祖先)の汗と涙の宝物として末永く残してほしいものであります。

 瓦漏は、焼き物のため戦禍を免れ、その後生田家の方々が大事に保管したのが何よりの幸いでありました。

 瓦漏は、喜界島の他、徳之島にも現存し、喜界島代官記の記述を実証しております。

(しつる村物語  盛山 末吉)


平成12年5月「上嘉鉄魂」第24号 掲載

【関連記事はこちら】

瓦漏(とうろう)について


ラベル:瓦漏 早町小学校
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喜界島凶徒聚衆事件A



 前回は事件の背景を主に書きましたが、ご理解いただけたでしょうか。

結論は南島興産商社は奄美の黒糖生産者が商法に無知なのに付け込み、

ア 高い利息で金を貸し付け

イ 黒糖の価格は、安く青田買いし、

ウ 高い日用品を売る付ける

 などの悪質な方法で一度借金をすると生涯借金地獄から抜け出られない状態に追い込んだのです。

 一方の阿部商会は、正式な商取引により、委託販売の形を取り、更に田中は「南島興産は喜界島の永久支配をねらっている

 団結してまず借金の返済策を講じよう。その間の砂糖の委託販売は阿部商会が引き受ける」

といい(砂糖の歴史より)借金地獄で打ちひしがれている島民の感情に火をつけた。

 それにより田中のもとには、瞬く間に多数の島民が結集し、そこで阿部商会と南島興産との熾烈な商売競争が繰り広げられます。

 以下は、長崎軽罪裁判所の判決所より抜粋します。

1 明治21年、田中圭三は鹿児島商人等に負債ある人民143名と「有志同盟」と称する同盟を結び次のような契約をしています。

ア 負債償還方法

イ 砂糖販売方法(買い取りではなく委託販売)

ウ 明治21年及び22年産の砂糖は、田中を通して阿部組へ委託販売する。

エ 田中の手を経て日用品の供給を受ける事等の取り決めをした。

2 明治22年6月5日、田中圭三は取り引き決算の最中、突然、喜界島巡査派出所に拘留逮捕された。

 困ったのは取り引き計算がまだ済んでいない島民達です。代表数名で協議した結果、次のようなことを決めた。


ア 田中より砂糖代金が受け取れず生活困窮におちいっている。

イ 日用品が受け取れず生活困窮などを理由に

ウ 6月20日まで田中を一時釈放して欲しい嘆願書を派出所に提出すること数回に及ぶが警察は6月25日まで釈放しないで留置した。

エ 田中の逮捕は、南島興産の社員●●氏の告訴によるとの飛語があり、島民の心情は穏やかではなかった。

3 6月21日 田中の一時釈放が実現しないため「有志同盟」代表数名が協議した結果、最初は6月23日を予定していたが連絡不十分のため24日に変更している。

「有志同盟」全員が湾の天神山(近くに警察署があり)に集合して、大衆の願望で田中の釈放を願えば、警察署も民衆の生活苦に同情して、田中の一時釈放を許可してくださるだろうとの甘い考えで集会を決定し、数名で手分けして全戸に参加するよう連絡した。

4 6月24日

 当日湾の天神山に集合した島民は3〜400名に及び、代表者の発意により、次の書類を派出所に提出した。

ア 田中圭三を拘留したため人民の生活困難の現状を記して、一時田中を釈放して欲しい旨の嘆願書を提出した。

イ 「有志人民」が天神山に集合する許可届書。

 それに対して派出所の対応は
「治罪係巡査●●が不在だから今日は対応できない。明日願いを取り上げるから代表者だけ出頭しなさい」

とのことで書類を受理させ、一応全員その日は帰宅した。

5 6月25日(この日が事件を起こした日)

 昨日同様、天神山に集合した人民は数百名に及ぶ。有志人民代表は田中の釈放嘆願書を提出する前に次の要求をしました。

ア 派出所が前に田中宅より押収した有志同盟と田中と結んだ契約書の引き渡しを請求した。(田中拘留の理由は契約書偽造の疑いがあったからとの飛語があった)

イ 田中を告訴した人は誰であるか(南島興社の某社員との飛語があった)

ウ 田中を逮捕拘留した理由は何か(何の罪か)

 以上3点を派出所に請求した。
                   以下次号へ (西島)


平成12年3月「上嘉鉄魂」第22号 掲載

【関連記事はこちら】

喜界島凶徒聚衆事件@
 
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2009年02月19日

句集 憧憬喜界島が南日本新聞に・・・友岡藤市郎さんも



 南日本新聞(2009.02.19)の「かごしま俳句時評」に『憧憬喜界島』が掲載されていました。嬉しくなって記事にしました。

 姉妹サイト「うもーりよ!「結い」の島・喜界島へにも紹介しました。次の文字をクリックするとリンクします。
句集「憧憬喜界島」を発行 
 


得田 武市・友岡 藤市郎・石原 百合子・得田 洋子の4氏による郷里喜界島を望郷する内容の句集です。

 出版社は、博文社印刷です。

 友岡藤市郎さんの編集後記から抜粋します。

我々が戦争を覚えている最後の歳かも知れない。忘れ去れようとしている戦中戦後の生活、風情、またふるさと喜界島への想いを五七五の十七音で詠んでみました。

 みなさん書店でお買い求めください。まだアマゾンには掲載されていないようです。応援してね。

 友岡藤市郎さんの関連記事は、コチラからどうぞ。

 下記をクリックするとリンクします。
http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/112571878.html

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/114066767.html

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/111494471.html





doukei090219a.JPG



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嘉鉄哀歌・・・村上国信



 今月は替え歌シリーズ4をお届けします。

 今月の詩は「湯島通れば思い出す」で歌い出す「湯島の白梅」の曲で歌ってみてください。

嘉鉄哀歌(エレジー)

1 嘉鉄泊まりに 夜が更けて

  燃える想いの 切なさよ

恋の闇路(やみじ)を 彷徨えば

すだく虫さえ ついホロリ

2 宵の静寂(しじま)に 何思う

白百合匂う 磯の辺に

嘉鉄メーラビの 黒髪が

溶けて流れる 薄情け

3 淡き夜空の 星明かり

渚のほとり 今日もまた

愛しき彼女(ひと)の 歌声に

今宵は月も 唏くそうな

(上西 村上)


平成15年6月「上嘉鉄魂」第61号 掲載
ラベル:嘉鉄哀歌
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上嘉鉄ユミタ・・・マディ



 上嘉鉄方言に「マディ」という言葉があります。
語源は国語の「惑う」の転訛で見当を失って途方にくれる、悩む、心が乱れる、考え違い、慌てる等の意味があります。

 方言では国語の意味の他に「喪失」「孤独」の意味が加味されているようだ。例を上げれば次のような言葉がある。

・トゥジマディ=妻惑い、病気等で妻を亡くした。

・ウトゥマディ=夫惑い、夫を亡くした。

・ヤーマディ=家惑い、国語の戸惑いに近い意味。勘違いして家や部屋、場所を間違えること。

・イヌチィマディ=生命惑い、命を失う程の危険な目にあうこと。

・ハニマディ=お金惑い、金銭を粗末に扱ったり、無駄遣いすること。

・ヒママディ=時間惑い、時間を無駄にすること。

・ウチドンマディ=置所惑い。

・ソウマンディ=性惑い、突然の来客で何から手をつけたらよいか慌てること。
肝心なものが必要なときに無く狼狽することにも使用する。

・ミチィマディ=道惑い、道に迷うこと。

・シママディ=島惑い、故郷を離れて、放浪すること。

                  (文責 西島)


平成14年5月「上嘉鉄魂」第48号 掲載 


ラベル:マディ
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記念切手・・・盛山 末吉



 大好きだった磯釣りも歳には勝てず、磯を渡り歩くのがこわくなり、ついに釣りおさめとした。

 使い馴れたカーボン竿を見ると心躍る思いだけどただ眺めるだけとなってしまった。

「人は死んだら美しい綾ハビラとなって怪しく飛び回っている」このことを知ってから蝶採集もストップした。

 それまで採集した蝶は、きちんと標本箱に納め我が家の守り神として飾っている。

 ところで体力のいらない趣味はないだろうかと考えた末、あげくのはてが記念切手採集となってしまった。

 ファイルに並ぶ美しい切手に魅せられ、局のドアをくぐってもう何年だろうか。先日(31日)は、2002年ワールドカップ日本・韓国大会の記念切手を手にしました。

 戦時中の学生時代は蹴球とよび、喜界島出身の先輩達が蹴球部員として活躍していた。ファイルをめくると細道シリーズ記念切手は10集まで続き、懐かしい奥の細道の景色が展開され思い出の句が映えていた。

■ 荒海や佐渡によこたふ天河

■ 石山の石よりや白し 秋の風

■ さみだれをあつめて早し最上川


 天皇陛下ご即位記念切手、皇太子殿下ご成婚記念切手、日本ポルトガル友好450年記念切手等々珍しい切手が行儀良くファイルに納まっている。

 記念切手をいただくため訪れる局のカウンターには来客用の数多くの品々が並べられている。筆記用具、糊、老眼鏡、飴玉、さては高齢者向けだろうか自動血圧計もあり、加えて各種のパンフレットも整然と並べられ、なんら退屈することなく時間待ちができる仕組みになっている。

 ほんとにぬくもりにみちた精一杯の心遣いといえよう。

 このような心遣いもさることながら、局の方々の事務処理に見惚れている。鮮やかなスピーディーな指さばき、紙幣さばきは神業のようで、人は習熟次第では、このような手さばきが可能なのかと感嘆ひとしおです。

 テレビの簡単な操作ですら危なっかしい僕にとって局員さんの頭や手の回転振りに改めてびっくりしております。

 いらっしゃい・・・ありがとうの自然な挨拶もこれまた見事でカウンターを一段と明るく包んでいる。

 他の役所はどうだろうかといらないことを考えたりしながら今日も局をあとにすることにした。
盛山 末吉
平成13年7月「上嘉鉄魂」第38号 掲載



ラベル:記念切手
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2009年02月28日

今年の初敬老は八名

 第89回 上嘉鉄敬老会

 去る1月3日、上嘉鉄小体育館には敬老者を祝うため多くの集落民が参加、89回目を迎える伝統行事が盛大に開催されました。

 今年の初敬老者は8名。内3名が出席されました。主催者、来賓の挨拶に続き、祝舞、祝唄や初敬老者の家族による歌や踊りの披露の他、3集落の婦人会・子ども会を中心にした出し物でお祝いに華を添えました。

 余興最後は、「筋肉隆々の色っぽい」青年団による歌と踊りの大熱演に最前列の初敬老者も目を背けながらハンカチで涙(笑いすぎ?)を拭いていました。

 初敬老者を代表して藤村昭輝さん(上中)が「主催者、来賓の皆さんからお祝いを戴き、ありがとうございます。今日から先輩の敬老者の皆さんの仲間入りができて、とても嬉しいです。

 私たちのために歌や踊りでお祝いして頂いた集落の皆さん、青年団のみなさんに感謝申し上げます。」

と謝辞を述べました。

 敬老者名簿によると、数え70歳以上の方は合計で182名、上東65名、上中55名、上西62名。

 男性の最高齢者は藤岡實基さん(99歳・上中)、女性は上中の原口ウツさんと上西の生ウメさんのお二人が共に101歳。

 敬老者の皆さん、これからもお元気でお過ごしください。

(生島)


平成21年3月 「上嘉鉄魂」第128号 掲載



ラベル:上嘉鉄敬老会
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2009年02月27日

新春に語る・・・榮 哲治




 新年あけまして、おめでとうございます。

昨年の町議選では、集落の皆様に大変お世話になり、ありがとうございました。

 お陰様で、初当選を果たすことができました。選挙期間中に皆様に訴えてきましたキャッチフレーズ

「集落の元気が喜界町の発展」

のさらなる実現と共に、お年寄りが安心して暮らせる島づくりに4年間一生懸命頑張って参りたいと思っています。

 ご指導、ご鞭撻をよろしくお願い申し上げます。

「現在喜界町で一番元気のある集落は上嘉鉄である」

と言っても過言ではないと思います。町主催のスポーツ大会でも参加数の多さはもちろん、成績の面でも大変すばらしい結果を残しております。

 また、文化面でも子どもから高齢者まで幅広い層での青年団による盆踊りも負けない「喜界島の夏の風物詩」となっております。

 また、最近は青年団の有志によるボランティア活動が活発です。シツル崎灯台を中心に清掃活動を続けている「やらそう会」や通勤で湾頭原を利用する人々による道路まで生い茂った雑木、雑草の伐採作業等は、

 その参加人数や作業規模、内容といい圧巻です。短時間でとてもきれいに仕上げています。

 他の集落より「上嘉鉄は何をしてもよくまとまるなあ」

と耳にします。その事について私は先人達がつくり上げた「ハティトゥ魂」の教えを守ってきたからだと思います。

「ハティトゥ魂」の理念は、3つの柱より成り立っています。

1 負けないこと。

2 団結すること。

3 よく働くこと。

 の3つです。

 子ども達の教育面や大人の社会生活でもこれを実践すれば間違いなく大成すると思います。

 更に、上嘉鉄の良さである「後輩は先輩を敬い、先輩は後輩に慕われるよう学びながら後輩を育てる」

 この古き良き伝統でこれからも若者たちをしっかり育てていきたいものです。

 最後に、今年1年間、牛歩のごとく、たとえ遅くとも確実に1歩、1歩目の前の問題から目を背けず、力を合わせて集落の発展、もっと元気のあるハティトゥになるよう頑張って参りましょう。
              喜界町議会議員  榮 哲治(上 東)


  平成21年 3月 「上嘉鉄魂」第128号 掲載 

 ■郵送よりも、この記事を早く読まれるかたもいらっしゃると思います。3月2日(月)に発送の予定です。■



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2009年02月26日

集落の倉庫使用開始

 昨年末に集落総会で、旧消防車庫を集落倉庫として使用することが決まりましたが、青年団は、昨年末、地区センター内の研修室に保管してあった盆踊り用資材を新倉庫へ移しました。

 旧消防車庫だけあり、まだ十分なスペースがあるので、普段使用しない資材等があったら搬出して校区民に利用できるよう部屋を空けたいと考えています。

 これまで使えなかった台所となりの研修室も子どもたちの太鼓やサンシンの練習に使用しております。

 青年団のみなさんお疲れさまでした。

(生島)


平成21年3月 「上嘉鉄魂」第128号 掲載





ラベル:倉庫
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「上嘉鉄集落 愛唱歌集」のプレゼント

 昨年八月に「上嘉鉄 愛唱歌集」を発行しました。上嘉鉄で歌われている歌を集め一冊の本にまとめたものです。
 
 八月踊り唄元唄、民謡、祝い唄、教訓唄、童唄など多数掲載しています。まだ50部ほど残っています。

 要りようの方は、送料のみご負担していただき、着払いでお送りします。(本代は無料)
 
 葉書に郵便番号、住所、お名前をお書きの上、「上嘉鉄魂」編集長 西島常吉までお申し込みください。

(申し込み先)
 〒891−6233
  鹿児島県大島郡喜界町上嘉鉄109−2
              西島 常吉




aishou090226a.JPG




ラベル:プレゼント
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2009年02月25日

島ユミタ・・・ハビル




■ ハビル・シャービラ=古語の「侍り(はべり)・為侍り(しはべり)」の転であり、おりの丁寧語であり、ございます。おりますの意味(古語辞典)

 奄美の方言ではあまり耳にしないが奄美民謡詩歌では次のように使用されている。

「アスビ ハビロ」=遊びましょう

「アスビ シャービロ」=遊びしましょう

「シシヤ アヤビラン」=肉ではありません

などとよく使用されている。

 この語法は、上古(奈良時代)から中古(平安時代)に使用され鎌倉時代以降は使用されなくなり、変わって「候(そうろう)」が使用されるようになった。(広辞苑)

 八月踊りの詩歌・奄美民謡には「侍り」が多く「候」はあまり見当たらない。この事実から奄美の民謡は平安時代からの発生ではないかと想像されるがいかがなものだろうか。

 ついでに沖縄の方言には日常挨拶語として

キャビラー=来侍る=「来ます、ごめんください」

があります。

 大島本当では、これに相当する言語は、

キョウロ=来候(きそうろう)

があります。

 これは本土と沖縄・奄美間の距離差か?交流差によるか?後考の必要があります。

 喜界島ではセーラー=「来ます」と「ホーイ」があり、ホーイの語源は分からない。

                     南界記


平成17年12月 「上嘉鉄魂」第91号 掲載
  


ラベル:ハビル
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2009年02月24日

ウトゥ地名について




 上嘉鉄集落の北側、保食神社にある周辺一帯を小字名で通称「ウトゥ」と称しています。

 「ウトゥ」の語源は、混効験集という琉球語辞典やオモロソウシにある「オボツカグラ」の「オボツ」の転と思われる。

「オボツカグラ」の意味は、混効験集によれば、語義不詳で「天上のことを云い、天上にあると想念される聖域」とあるがなんか意味が分からない。

 沖縄・奄美の古代・中世人の神観念は先祖の神と天上界から天降りてくる神・海の彼方の竜宮からやってくる神の3つがあると信じていたと思われる。


 そして天上界から天降る神は、その地区の最も浄い聖地・霊域に天降ると考えた。この思想は、古事記の高天ケ原神話や琉球神道記のアマキヨ・シネリキヨが奄美岳(笠利町)降臨神話と似ているように思われる。

 仲松弥秀氏の説明は、はっきりする「オボツ山、オボツ岳」とは奄美・沖縄諸島では集落の腰当て森(鎮守の森)として機能を果たして広く分布し、この森に来訪神が最初に足がかりする所である」と言われる。

 上嘉鉄の「ウトゥ」地名は正しくこれに当てはまるようだ。

 オカンサマと集落民は、一般的に呼称しているが、天上界から天降る神のことか?


 はっきりしないが、麓にウンガ(昭和初期までの神遊び場・八月踊り場だった)やノロ畑があることを考え合わせると、「ウトゥ」は当初はノロの斎場(神事・祈願・神のお告げを聞く)であった可能性もあり、いずれにしても昔からの聖域であることにかわりはない。

 年代は、はっきりしないが(多分江戸時代)後に同地に馬頭観音の石像が設置され、さらに明治になって国家神道普及の政策により。保食神社となり今日に至っている。

 その頃一時、馬頭観音像は海に投棄されるという受難の時代もあったが、今はは仲良く鎮座して、集落民が深く信仰している。

 ついでに保食神社のことに簡単に触れよう。(ほしょく、ほうしょく)と呼称するのは喜界島だけの呼び名で日本書記では、保食と書いて「うけもちのかみ」と読み仮名をつけてある。

 祭神は「豊受姫大神」で、農業・家畜・食料の神と言われている。

南海記


平成17年8月 「上嘉鉄魂」第87号 掲載


ラベル:ウトゥ
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喜界島凶徒聚衆事件 4




 この事件及び裁判判決に対し疑問をもったのが、大島区裁判所勤務の検事、岡程良検事です。(岡検事は、龍郷町出身)

 岡検事の直接の上司である検事正は岡検事には何らの連絡もなく、つとめて岡検事には秘密にしたので、岡検事はこれに不信を持ち、密かにこれを調査した結果、この事件は謀略により仕組まれたものであることをつきとめた。

 直ちに鹿児島地方裁判所の有罪判決を不当として大審院長崎控訴院(現在の最高裁判所にあたる)に上訴したのです。

 これがこの判決書です。

第一 ●●以下十三名は 犯罪をおこした証拠充分でないから訴えられる理由はない。

第二 ●●以下一三一名は田中圭三の釈放を嘆願する目的で天神山に集合したが、巡査の説得を受け(一時間以内に帰宅しなさい)ウドゥンヌハナーに場所を移し、圭三の釈放嘆願と圭三の罪はいずれに当たるか、

 また、訴えた人は誰かをはっきりすれば帰宅する覚悟であり、最初から暴動を起こす意志はなかった。

 然し派出所において巡査を脅迫したのは集会の目的外で偶然の出来事だから凶徒聚衆
(暴動を起こす目的で大勢集合すること)にはならない。

 よって罰するような罪はない。

第三 時円 外十二名は巡査の説得を拒否し派出所に乱入し巡査を脅迫して田中を釈放せざるを得ないようにしたのは、もともと令状なく不適法に逮捕拘留したのだから釈放すべきものを釈放したに過ぎないから罰するべき罪なし。

第四 ●●と●●の二名は、派出所の障子及び戸を破壊したのは有罪と認める。



 以上が判決文ですが、判決文に氏名が連なっているのは島内で一五四名という喜界島最大の事件に島民の精神的不安を考えるとき、巡査の不法逮捕により(令状によらない逮捕)島民の精神的打撃は大きい。

 以来島民は民事事件にしろ、刑事事件にしろ裁判で決着をつける事をなるべく避ける風潮ができたと思われる。


 それにしても、不可解なのは第一に一巡査が令状なくして不当逮捕が当時はしてもよかったのであろうか。

 第二に、不当逮捕→起訴→裁判→有罪ますます理解に苦しむ(現在は現行犯以外は令状が必要)

 第三に当時の司法制度では逮捕令状発権者は、誰かの命令で逮捕したであろうけれども、誰の命に従ったのか謎だ。後日の研究に待つ。   
完 西島


平成12年5月 「上嘉鉄魂」第24号 掲載


ラベル:田中圭三 岡程良
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2009年02月22日

姿を消した昔の女性の髪型



 戦争中は行政が国家主義政策をとった関係もあって、女性の髪型は規制の対象とされていました。

 現在のパーマネントは外国文化だとの理由で禁止されていた。

 下の図は終戦前までの女性(婦人)の髪型です。結い方は背後に髪の毛を全部束ねて、手に1回巻いてひねり、残りの髪の毛を毛の根本に巻き付け、手に巻いた髪で巻き付けた所をおおうようにします。

 そうして巻き付けた毛先をひっくり返して押さえて、最後にギィーハーで留める。

 ほつれにくくて、農作業等に便利だったと老婆は語る。今は、すっかり姿を消して拝見するのは難しい。


kamigata090222.JPG




平成14年8月「上嘉鉄魂」 第51号 掲載





ラベル:髪型
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母校の卒業式・・・盛山 末吉



 久しぶりに母校上小をはじめ、幼稚園、二中の卒業式、卒園式に出席する機会にめぐまれました。

 このたびは愚生の退職時の学校でもあり、また母校である上嘉鉄小学校の式について述べることといたします。

 いずれの学園も都市部の学校にみられるような荒れた卒業式風景は全くなく粛々と進行する母校の充実ぶりに感銘を覚えました。上小は児童数52名、一部複式の五学級で9名の先生方で運営されるミニ校となりました。

 お互いが男女別クラスで1学級四十余名ほどの頃とは夢のような錯覚を覚える現状です。これも少子高齢化現象でしょうか。時代の流れとはいえさびしさ一入です。
 

 いただきました卒業のしおりの表紙には卒業生6名の全身写真がプリントされ、教師の心くばり印刷技術の進歩に驚くばかりです。

 証書のいただき方をはじめ式全体がまことに厳粛に進行しました。これも先生方の日常の教育活動が細部にわたった、ぬくもりに満ちた指導の賜物であり、指導を素直に受けた児童諸君もりっぱだなと思うことでした。受賞態度も決して無理せず、自然の形でなされ、回れ右もこなす姿に感動いたしました。

 受賞時にはオーバーヘッドを使って一人一人の思い出の一駒が放映されとても印象的で児童達も永遠に忘れることのない思い出となったことでしょう。

 卒業生・在校生のお別れの言葉は少々長いようでしたが、とても有意義な内容でした。中でも方言大会開催のこともあり、一種独特のカテツ方言をりっぱな言語文化として捉え、このような大会を開催された見識に最敬礼です。(堂々と話せハティツ ユミタ)と言いたい。
 
 久しぶりに聞く「仰げば尊し」にぼくは目頭を熱くしました。僕ももう古いタイプの人間だなと心の中で諦めることでした。大きいばかりが能ではない(ヤセガマンか?)母校の児童数の減少傾向にあるこの姿にどう対応したらよいか校区民の大きな課題といえましょう。

 当日は雨天のため校庭が水浸し状態となっていた、町長さんもご列席のようであったのできっと行政側としての対策もご一考なされたことと思います。またぜひ改善して欲しいものです。

 最後に学校長の式辞の中から「@目標をもって常に努力する人になれAまわりの人から感謝される人になれ」名訓辞で結びといたします。
母校よ永遠なれ    (盛山末吉記)


平成16年5月 「上嘉鉄魂」第72号 掲載 


ラベル:盛山 末吉
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2009年02月21日

揺れる市町村合併・・・友岡藤市郎



 平成の大合併、喜界町は単独で合併しない方針ですのであまり関心がないことでしょう。 しかし鹿児島本土では、合併に賛成・反対で住民発表までしており、まだまだ先が見えない状況です。

 私が住んでいる喜入町は揖宿郡から鹿児島市に合併しました。役場は支所となり町長や」教育長も無くなりました。

 役場職員も減りました。その代わり専門職員が本庁から出向いてくるシステムです。無駄を省く狙いです。

 合併に不満の多いが長い将来を考えると税金など住民の負担は単独より少なく専門的サービスも多いと思います。
 国の施策・合併に賛成しなければ、補助事業や地方交付税などなんらかのペナルティ(罰則)が有ることでしょう。
 現在でも農業関係事業では減反政策(水稲の作付を減らす)に非協力的市町村は、補助事業をカットするということで割り当て面積を努力して100%達成が続いています。


 無駄を省きながら住民へのサービスは今まで以上にしたいのが平成の大合併の狙いです。
 参考までに平成十六年四月現在の県内町村職員録で人口や職員数を比較して見ました。 町名    人口     職員数
喜界町 九〇〇〇人 二一四名
喜入町   一三〇〇〇人 一五九名
 笠利町   六九〇〇人  一八四名
また町議会職員は、喜入町十八名が合併によって一人の市議になりました。それは鹿児島市人口五五万人で市議が五〇人に基づいた事と思います。

 薩摩川内市は、離島を含む八市町村が合併しました。合併によって今までの「郡」や県の出先期間・学校などの統廃合までも発展しそうです。
(編集から原稿依頼がありましたので、参考までに話題を提供しました)喜入町 
      友岡 藤市郎


      平成17年3月「上嘉鉄魂」第82号 掲載


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少年の頃の手伝い・・・盛山末吉



 今の小中学生はお手伝いは皆無であるが、戦前の少年時代は、過酷なほどの労働が日課のようになっていました。

 学校から帰ると男女を問わず、年齢に応じて、それそれの家庭でそれぞれの手伝いが待ち受けていた。

 農作業中心の家業に加えて、牛、馬、山羊、豚等の家畜も飼育する農業形態で、しかも機械力は皆無の時代で、家族が唯一の労働力であり、小学生も働き手として重宝がられていました。

 男女共通の農作業として、からいも植えの祭のいも苗、製糖期のきび運搬、馬の後追い。子守り、男児の馬草刈り、稲田への水入れ、女児のいも洗い、洗濯、夕飯の準備、食後の皿洗い等々まことに雑多な仕事が次々と待ちかまえ、親達は子どもの学校帰りを待ちわびている状態でありました。

 子守りのとき赤ちゃんをおんぶして、背負った赤ちゃんともども泣いてしまったことや、おしっこで背中が冷たくなったことが昨日のような感じさえします。

 特にきびしかったのが馬の飼料としての草刈りでした。三度の飼料は、母のつとめでしたが副食用の草刈りは小学生の絶対的なノルマであった。

 雨が降ろうが照ろうが草を刈りてこなければなりませんでした。

 寒風吹きすさぶ冬の日の草刈り等、早く忘れてしまいたいですが、中々忘れられない出来事となってしまいました。

 学校から帰るやいなや作業服に着替え、草かごに草刈り鎌を入れて、野原へ駆け込んで行きました。

 働き者の上嘉鉄の畑は荒れ地とてなくわずかに畑の畦に生えた「アーガヤ」等を根気よく刈りとったものでした。

 草かご(ヒナイ)いっぱいになるのは、毎日のように夕暮れ時で帰宅するときはうす暗くなっていました。

 疲れ切った体で夕食後、ランプのもとで勉強をとソーメン箱の勉強机に向かうと父は

「石油がもったいない」

とどなりちらし、勉強も満足にできませんでした。

 さらにきびしいのが田んぼへの水入れでした。上嘉鉄は畑シマで田んぼはごく一部の家庭しかありませんでした。

 私の家は一枚だけの田んぼがあり、その田んぼの水番も私の係でした。その田んぼは用水路より1メートルくらいあがっているため水を石油缶で用水路から汲み上げて田んぼへ入れました。

 その水が重かったこと。小学生の腕力では大変苦しみました。●●●回入れたら終わりだと計画を立て、その回数を数えて水を入れることでした。

 今ではその田作地帯も耕地整理によって畑地となってしまったが、水源の「マチィチャ」はそのままで水量は激減しているものの形はかつてのままでなつかしさいっぱいであります。

 今ではからいも栽培もせず、家畜も皆無、さとうきび単作農業となり、さとうきびの収穫作業もハーベスターの機械力を駆使し、畑地へも自家用車しかも生きびを製糖工場に売り渡す時代となってしまいました。

 驚くほど変容した農業形態だと言えましょう。たださとうきびの刈り出し期間中は農家の皆さんは、割り当てたトン数分のさとうきびの刈り取りをしなければならず、額に汗して働きづめております。

 製糖の歴史について藩政期にはこの栽培、製造の重労働の他に上納黒糖にまつわる罪も重くシマ唄に

心配(シワ)じゃ 心配じゃ うぎ切り心配じゃ

うぎの高切り 札はきゅり

心配(シワ)じゃ心配じゃ 砂糖たき心配じゃ

砂糖のぶく吹き 札はきゅり

と、さとうきびを根元ぎりぎり刈り取らず、高切りしたら罰としての札をはかされ、また、さとうきび汁を炊く際、黒糖のよごれ(ぶくー)をとらずに炊いても罰の札をはかされてしまい、とても苦労したと歌われ、今では想像もできない苦しみをかみしめた先祖さまの姿が歌われたいます。
盛山 末吉


平成15年3月「上嘉鉄魂」第58号 掲載
姉妹サイトより

  「喜界馬のこと T」
http://umooriyokikaijima.seesaa.net/article/116519214.html 






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上嘉鉄童唄



※女児の毛毬唄

一カケ 二カケニ 三ヲカケ

四カケ 五カケニ 六ヲカケ

七ノランカン

八(橋)ヲカケ

橋の向かう 眺めれば

十七・十八の姉さんが

片手に花もち 線香もち

姉さん どこ行く 尋ねたら

私は九州 鹿児島の 西郷隆盛 娘です

明治十年の戦役で

打たれ 死んだ 父上の

お墓参りに 参ります

お墓の前では 手を合わせ

なむあみだぶつと拝みます

もしも その子が男なら

士官学校 卒業させ

アメリカ言葉を習わして

梅には 鷲 止まらせて

ホーホキョウと 鳴かせます

              採集協力者(美代イシ。盛 スミ子、他数名)
 明治の昔の童歌(わらべうた)・遊び歌を採集しています。どんな歌でも結構です。ご協力くださいますようお願い申し上げます。(編集)


平成14年10月「上嘉鉄魂」第53号 掲載



ラベル:童唄
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上嘉鉄の小字名



 下の地形図は、昭和31年国土地理院発行の25000分の1の地形図に上嘉鉄の湾トウバルの畑に小字名を数名の方々の記憶をお借りして記入しました。

 多少の出入りもあると思います。ご遠慮なくご指摘ください。より正確なものを後世に残したいと思う。

 現在は耕地整理により昔の面積はほとんどありません。地名は上嘉鉄人がこの地に住み着いた最初に名付けられたものだけに数千年の歴史の重みがあります。

 地名は勿論、命名当時の言葉で、当時の自然環境(特に土地の個性)や歴史的背景等を考慮して皆が賛同して定着したものだ。

 要するに地名は、その発生当時の特殊な意味を持っており、一度根を下ろすと、容易に失われないまま残るから、地名は遠い過去を物語る化石となっています。

 方言、風俗、習慣、制度等は時間の経過と共に変化消滅してしまいますが、地名、人名は永久に変化も消滅もしない。

 地名研究の目的は、当時の地理的景観、歴史的環境、言語の変遷等を調べ人類文化史の資料に役立てるのが目的の一つである。
(西島 記)

koaza090221.JPG



平成14年8月「上嘉鉄魂」第51号 掲載



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喜界島凶徒聚衆事件 B

(別名田中事件)


 前回に引き続き6月25日の事件を起こした当日の状況を長崎軽罪裁判所の判決記録を基に詳細に記述しよう。

 当日、早々集合した有志同盟の代表達は、思案の結果、今までの農民の生活困窮を理由とする派出所の温情にすがって田中の一時釈放を一方的に嘆願しても、田中の釈放は考えられないとの結論に達し、順序として、次の戦術変換をしています。

 前号でも記しましたが念のため再録します。

1 押収した契約書が偽造であるか否か確認する。

2 田中を告訴したのは誰かをはっきりさせる。

3 田中の逮捕拘留は何か、何の罪にあたるか。

 以上3点を内容とする嘆願書に代表5人の連署して巡査派出所に提出した。派出所の回答は「3点共に応じない」

 「田中の釈放もしない」さらに「集会人民は直ちに帰宅させなさい」との返事。
その事を代表者達は天神山に集合している人民に伝えた。

 途方にくれた代表者及び人民達は押すことも引くことも出来ず思案しているところへ、12時頃派出所巡査2名天神山の全体が集合しているところへ来て次の事を指示する。

「田中は犯罪があるから釈放できない。又多人数集合するのは善くないことだから、今から1時間以内に帰宅せよ」

と説得され大半は帰宅する気分になっていたが、代表者の一人が
「もう一度交渉しよう。皆さんはウドンヌハナーで待機していなさい。決して派出所に来てはいけない。何が起こるか計り知れないし、巡査の心証を害してもいけないから」

とのことで全員それに同意しウドンヌハナーに移動した。


 代表者達は、派出所と再交渉したが派出所の回答は、

「田中は犯罪の事実があるので釈放はできない」

の一点張りで話し合いに応じない。代表者達は思案の挙げ句、告訴人を知らないことには全員を納得させることはできないとの判断から、次のような内容の嘆願書を派出所に提出した。

1 田中は何の罪なのか、又告訴人は誰か。

2 田中と契約した同盟規約には疑惑との噂があるが疑惑になることは何もない。正当なものだ。

 もし疑問に思うところがあれば私たちも一緒に双方共に取り調べてほしい。旨の嘆願書を提出した。

 これに対する派出所はなんら回答しないから、代表者たちは粘り強く要求する。回答しなければ人民を納得させることは出来ないと交渉を続行する。

 派出所巡査は

「指示を与えれば全員帰宅するとの文を記しなさい」

とのことで又嘆願書を書き直し、指示通りの文を書き添えて派出所に提出した。が派出所では犯罪の種類、告訴人について何ら回答をしないばかりか、

 反対に派出所は

「人民が帰宅に応じないのはお前達に帰宅させる誠意がないからだ。誠意をもってあたれ、それでも帰宅に応じない者があれば、そのものの氏名を書いて提出せよ」

 その時すでに、しびれを切らした人民達は(ウドンヌハナーで数時間待たされている)派出所門前にきていた。

 代表者達は、派出所付近から立ち去るよう説得したが大衆は納得せず、仕方なく氏名を書いて提出しようとしたら衆人は、

「そんなもの必要ない、各人の顔面が証拠だ。また代表者は役に立たない。全員で直願する」

とののしり騒ぎ手がつけられない。その時衆人数名が全員に
「皆来い」と呼び、それに応じた大衆は派出所門前に押しかけ、

「田中を出せ」「告訴人は誰か」「そのうちのいずれか一つでも回答せよ」

と各々叫び騒然としているうちに、派出所の返事は

「田中は釈放できない。告訴人はいない」

と応答し大衆を鎮めようと苦心している最中、大衆の一人が大声で

「圭三を出せ、告訴人を出せ」

と言ったのを派出所小使い●●がこれを聞きとがめ大声を発した本人の襟首を掴み派出所内へ引きずりこもうとしたので立腹した大衆は、

「打て打て、進め進め」

とののしり騒ぎが大きくなった。その内に投石あり、派出所ないに乱入し障子等を損壊した。

 もはや派出所では大衆を鎮めることができず、ついに午後5時田中を釈放した。然し、これで一件落着とはならない。

 数日後、名瀬より検事が数十名の武装警官を引率して極秘に湾港を避けて、志戸桶の沖名泊に上陸、関係した主な島民数十名が逮捕、大島支庁予審裁判で全員有罪を言い渡された。

 以下次号へ
(文責 西島)


平成12年4月「上嘉鉄魂」第23号 掲載
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2009年02月20日

瓦漏(とうろう)について(前号の続き)



 ところが文化4年(1807年)になって、島民の暮らしがとても苦しくなり、白糖製造は馴れない仕事で農民が困っているので、大島3000斤・喜・徳1500斤ずつ形6000斤、上納するようにとの令がおりました。

 このことによっても白糖製法がどんなに困難な仕事であったかを推測することができます。

 また、松浦豊敏氏は「海流と潟」の中で、瓦漏の現存について

「よくぞ無疪のままで残されていたというのが実感である。享和の白糖はまごうことなく覆土瓦漏法による白糖であった。

 また、かつての白糖の製造は大まかには喜界島の東南側に限られていたのではないか」

と述べております。

 生田常吉氏の瓦漏確認で、ますますそのことが確実になってきました。生田氏によると
「きわめて上質の黒糖がとれる先祖代々の畑が存在している」

と語ってくださいました。

 早町小学校保管の瓦漏は、昭和46年10月1日付けで町の有形文化財に指定されました。松浦氏が指摘するように喜界島の東南部にあたる志戸桶から阿伝、上嘉鉄を経て荒木に至る一帯は

「ハテージ」の畑作地帯で藩政期には喜界島有数の黒糖生産地域で「その品位南島中、喜界をもって最とす」

と記録されており、戦前良質の黒糖を生産していたのもこの畑作一帯であった。

 このことから早町・阿伝・上嘉鉄校区からは、すでに瓦漏が確認されており、きっと残された志戸桶・荒木の両校区にも現存しているものと思われます。

 両校区民の手によって早くその存在を確認しウヤフジ(祖先)の汗と涙の宝物として末永く残してほしいものであります。

 瓦漏は、焼き物のため戦禍を免れ、その後生田家の方々が大事に保管したのが何よりの幸いでありました。

 瓦漏は、喜界島の他、徳之島にも現存し、喜界島代官記の記述を実証しております。

(しつる村物語  盛山 末吉)


平成12年5月「上嘉鉄魂」第24号 掲載

【関連記事はこちら】

瓦漏(とうろう)について


ラベル:瓦漏 早町小学校
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喜界島凶徒聚衆事件A



 前回は事件の背景を主に書きましたが、ご理解いただけたでしょうか。

結論は南島興産商社は奄美の黒糖生産者が商法に無知なのに付け込み、

ア 高い利息で金を貸し付け

イ 黒糖の価格は、安く青田買いし、

ウ 高い日用品を売る付ける

 などの悪質な方法で一度借金をすると生涯借金地獄から抜け出られない状態に追い込んだのです。

 一方の阿部商会は、正式な商取引により、委託販売の形を取り、更に田中は「南島興産は喜界島の永久支配をねらっている

 団結してまず借金の返済策を講じよう。その間の砂糖の委託販売は阿部商会が引き受ける」

といい(砂糖の歴史より)借金地獄で打ちひしがれている島民の感情に火をつけた。

 それにより田中のもとには、瞬く間に多数の島民が結集し、そこで阿部商会と南島興産との熾烈な商売競争が繰り広げられます。

 以下は、長崎軽罪裁判所の判決所より抜粋します。

1 明治21年、田中圭三は鹿児島商人等に負債ある人民143名と「有志同盟」と称する同盟を結び次のような契約をしています。

ア 負債償還方法

イ 砂糖販売方法(買い取りではなく委託販売)

ウ 明治21年及び22年産の砂糖は、田中を通して阿部組へ委託販売する。

エ 田中の手を経て日用品の供給を受ける事等の取り決めをした。

2 明治22年6月5日、田中圭三は取り引き決算の最中、突然、喜界島巡査派出所に拘留逮捕された。

 困ったのは取り引き計算がまだ済んでいない島民達です。代表数名で協議した結果、次のようなことを決めた。


ア 田中より砂糖代金が受け取れず生活困窮におちいっている。

イ 日用品が受け取れず生活困窮などを理由に

ウ 6月20日まで田中を一時釈放して欲しい嘆願書を派出所に提出すること数回に及ぶが警察は6月25日まで釈放しないで留置した。

エ 田中の逮捕は、南島興産の社員●●氏の告訴によるとの飛語があり、島民の心情は穏やかではなかった。

3 6月21日 田中の一時釈放が実現しないため「有志同盟」代表数名が協議した結果、最初は6月23日を予定していたが連絡不十分のため24日に変更している。

「有志同盟」全員が湾の天神山(近くに警察署があり)に集合して、大衆の願望で田中の釈放を願えば、警察署も民衆の生活苦に同情して、田中の一時釈放を許可してくださるだろうとの甘い考えで集会を決定し、数名で手分けして全戸に参加するよう連絡した。

4 6月24日

 当日湾の天神山に集合した島民は3〜400名に及び、代表者の発意により、次の書類を派出所に提出した。

ア 田中圭三を拘留したため人民の生活困難の現状を記して、一時田中を釈放して欲しい旨の嘆願書を提出した。

イ 「有志人民」が天神山に集合する許可届書。

 それに対して派出所の対応は
「治罪係巡査●●が不在だから今日は対応できない。明日願いを取り上げるから代表者だけ出頭しなさい」

とのことで書類を受理させ、一応全員その日は帰宅した。

5 6月25日(この日が事件を起こした日)

 昨日同様、天神山に集合した人民は数百名に及ぶ。有志人民代表は田中の釈放嘆願書を提出する前に次の要求をしました。

ア 派出所が前に田中宅より押収した有志同盟と田中と結んだ契約書の引き渡しを請求した。(田中拘留の理由は契約書偽造の疑いがあったからとの飛語があった)

イ 田中を告訴した人は誰であるか(南島興社の某社員との飛語があった)

ウ 田中を逮捕拘留した理由は何か(何の罪か)

 以上3点を派出所に請求した。
                   以下次号へ (西島)


平成12年3月「上嘉鉄魂」第22号 掲載

【関連記事はこちら】

喜界島凶徒聚衆事件@
 
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2009年02月19日

句集 憧憬喜界島が南日本新聞に・・・友岡藤市郎さんも



 南日本新聞(2009.02.19)の「かごしま俳句時評」に『憧憬喜界島』が掲載されていました。嬉しくなって記事にしました。

 姉妹サイト「うもーりよ!「結い」の島・喜界島へにも紹介しました。次の文字をクリックするとリンクします。
句集「憧憬喜界島」を発行 
 


得田 武市・友岡 藤市郎・石原 百合子・得田 洋子の4氏による郷里喜界島を望郷する内容の句集です。

 出版社は、博文社印刷です。

 友岡藤市郎さんの編集後記から抜粋します。

我々が戦争を覚えている最後の歳かも知れない。忘れ去れようとしている戦中戦後の生活、風情、またふるさと喜界島への想いを五七五の十七音で詠んでみました。

 みなさん書店でお買い求めください。まだアマゾンには掲載されていないようです。応援してね。

 友岡藤市郎さんの関連記事は、コチラからどうぞ。

 下記をクリックするとリンクします。
http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/112571878.html

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/114066767.html

http://hathitudamashiee.seesaa.net/article/111494471.html





doukei090219a.JPG



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嘉鉄哀歌・・・村上国信



 今月は替え歌シリーズ4をお届けします。

 今月の詩は「湯島通れば思い出す」で歌い出す「湯島の白梅」の曲で歌ってみてください。

嘉鉄哀歌(エレジー)

1 嘉鉄泊まりに 夜が更けて

  燃える想いの 切なさよ

恋の闇路(やみじ)を 彷徨えば

すだく虫さえ ついホロリ

2 宵の静寂(しじま)に 何思う

白百合匂う 磯の辺に

嘉鉄メーラビの 黒髪が

溶けて流れる 薄情け

3 淡き夜空の 星明かり

渚のほとり 今日もまた

愛しき彼女(ひと)の 歌声に

今宵は月も 唏くそうな

(上西 村上)


平成15年6月「上嘉鉄魂」第61号 掲載
ラベル:嘉鉄哀歌
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上嘉鉄ユミタ・・・マディ



 上嘉鉄方言に「マディ」という言葉があります。
語源は国語の「惑う」の転訛で見当を失って途方にくれる、悩む、心が乱れる、考え違い、慌てる等の意味があります。

 方言では国語の意味の他に「喪失」「孤独」の意味が加味されているようだ。例を上げれば次のような言葉がある。

・トゥジマディ=妻惑い、病気等で妻を亡くした。

・ウトゥマディ=夫惑い、夫を亡くした。

・ヤーマディ=家惑い、国語の戸惑いに近い意味。勘違いして家や部屋、場所を間違えること。

・イヌチィマディ=生命惑い、命を失う程の危険な目にあうこと。

・ハニマディ=お金惑い、金銭を粗末に扱ったり、無駄遣いすること。

・ヒママディ=時間惑い、時間を無駄にすること。

・ウチドンマディ=置所惑い。

・ソウマンディ=性惑い、突然の来客で何から手をつけたらよいか慌てること。
肝心なものが必要なときに無く狼狽することにも使用する。

・ミチィマディ=道惑い、道に迷うこと。

・シママディ=島惑い、故郷を離れて、放浪すること。

                  (文責 西島)


平成14年5月「上嘉鉄魂」第48号 掲載 


ラベル:マディ
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記念切手・・・盛山 末吉



 大好きだった磯釣りも歳には勝てず、磯を渡り歩くのがこわくなり、ついに釣りおさめとした。

 使い馴れたカーボン竿を見ると心躍る思いだけどただ眺めるだけとなってしまった。

「人は死んだら美しい綾ハビラとなって怪しく飛び回っている」このことを知ってから蝶採集もストップした。

 それまで採集した蝶は、きちんと標本箱に納め我が家の守り神として飾っている。

 ところで体力のいらない趣味はないだろうかと考えた末、あげくのはてが記念切手採集となってしまった。

 ファイルに並ぶ美しい切手に魅せられ、局のドアをくぐってもう何年だろうか。先日(31日)は、2002年ワールドカップ日本・韓国大会の記念切手を手にしました。

 戦時中の学生時代は蹴球とよび、喜界島出身の先輩達が蹴球部員として活躍していた。ファイルをめくると細道シリーズ記念切手は10集まで続き、懐かしい奥の細道の景色が展開され思い出の句が映えていた。

■ 荒海や佐渡によこたふ天河

■ 石山の石よりや白し 秋の風

■ さみだれをあつめて早し最上川


 天皇陛下ご即位記念切手、皇太子殿下ご成婚記念切手、日本ポルトガル友好450年記念切手等々珍しい切手が行儀良くファイルに納まっている。

 記念切手をいただくため訪れる局のカウンターには来客用の数多くの品々が並べられている。筆記用具、糊、老眼鏡、飴玉、さては高齢者向けだろうか自動血圧計もあり、加えて各種のパンフレットも整然と並べられ、なんら退屈することなく時間待ちができる仕組みになっている。

 ほんとにぬくもりにみちた精一杯の心遣いといえよう。

 このような心遣いもさることながら、局の方々の事務処理に見惚れている。鮮やかなスピーディーな指さばき、紙幣さばきは神業のようで、人は習熟次第では、このような手さばきが可能なのかと感嘆ひとしおです。

 テレビの簡単な操作ですら危なっかしい僕にとって局員さんの頭や手の回転振りに改めてびっくりしております。

 いらっしゃい・・・ありがとうの自然な挨拶もこれまた見事でカウンターを一段と明るく包んでいる。

 他の役所はどうだろうかといらないことを考えたりしながら今日も局をあとにすることにした。
盛山 末吉
平成13年7月「上嘉鉄魂」第38号 掲載



ラベル:記念切手
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