2009年01月31日

まりじま ハティトゥ

(「十九の春」替え歌)
作詞:前島勇一郎
平成14年5月1日 完成

1 うふじょうぬ 空から 夜が明けた
 
  マサチぬ 上から 眺むれば

シマの史跡に 数えられる

グサニ石が シマ守る

2 インダぬ 真上に 陽が昇る

  保食神社に 願掛ける

シツル灯台を 当てにして

太平洋の道標

3 昔遊んだ ヤンガーは

今も清水が 湧き出る

西ぬ ムタに陽がさして

  沈む夕日が 絵のようだ

4 ハニク(金久)公園に 櫓立つ

八月踊りが和(輪)を作る

老いも若きも膝交え

人も賑わう我がハティトゥ(上嘉鉄)

5 朝夕元気な 声がする

今も変わらぬ素直な子

勉強、スポーツ島一番

ハティトゥ(上嘉鉄) 魂の子どもたち

6 スー(今日)ぬ フクラシャ(誇らさ)

イトゥまでぃむ 

  なちゃ わちゃゆらてぃ かたりぶさ

  鶴と亀の仲の良さ

  共に白髪ぬ 生えるまで 



平成14年7月「上嘉鉄魂」第50号 掲載





posted by hathitu at 13:39| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウラミサヤ税務事件・・・前島啓二

前島 啓二
 はじめに、本紙「上嘉鉄」第25号に西島氏の「税務事件について」の掲載がありました。

 かねがね毎月号にシマの習俗やムン話等の調査研究されており大変興味深く、毎回楽しみに拝読しております。

 ところで、「税務事件について」は資料はなく十分な調査研究は不可能だった。ただ発生年は大正末〜昭和初期頃で現在85才になる古老の記憶を頼りに調査をしたとのことであります。

 しかし事件の根拠となる法的要因については詳細に調査掲載されております。

 私が祖父から聞かされた話。この事件については、祖父から折りにふれ聞かされ、私にも深く関わりがありましたので周知していることを申し述べたいと思います。

 実は私の家は祖父・父・叔父の親子三人が関わったのでした。事件当日、叔父が20歳の徴兵検査で名誉の甲種合格、出征するにあたり母方の実家にマカネーカマシ(送別宴)に昼間に招かれ飲食の最中にブラー(法螺貝)の吹鳴で親子3人と母の兄共々事件に荷担したのであった。

 (昔、上嘉鉄集落では、人の行方不明や海での遭難救助等何か大事な集合合図としてブラーを吹鳴したのである)

 事件の発端については西島氏が解説してあります。(農家は自分が生産した砂糖を1円の税金を支払って食する不都合に憤りを感じ1年間の自家用砂糖を税金を払わないで確保したい気持ちで床下、高倉等に隠匿したのだと思う。

 税務署は隠匿した砂糖を摘発するために不意打ちに来島し家宅捜査し、違反者を摘発して第12条の罰則を適用するのです。

 連帯共同意識の強い上嘉鉄住民は税務属が家捜しを始めたと知るや誰かがブラーを鳴らして大人数を集め公務執行妨害らしい事をしたと思われる)

 と西島氏は記述してあります。確かにその通りだと思う。

 さらに祖父の話では、税務属は家捜しをする時に家屋内に土足(靴足)で上がり込む横暴な仕草に住民が憤怒したのも起因の一つでもあったようだ。

 税務属は、集落民の妨害を受け帽子や靴を剥ぎ取られながらハニク伝いに命からがら山川ビラから逃げるように湾へ帰っていったとのことであった。

 後に警察での取り調べの中で税務属は、お前が帽子を取ってアダン山に投げた。お前が靴を取って投げた等とよく覚えていて証言したとのこと。

 この裁判は不幸にして鹿児島で裁判を受けることになり、全員で弁護士を依頼したのです。鹿児島往復の旅費や弁護士の費用等が莫大であった。

 裁判の結果は無罪、これは全員無罪だったのかほかのものはどうだったのかは祖父から聞いていない。

 祖父はこんな話もしていた。
「無罪で良かった。子孫のため戸籍に赤線が引かれずにすんだ」
と神妙に話したことが強く印象に残っている。

 こうして我が家は3人分の裁判費用を支払う羽目になったのです。他にも1所帯で二人も三人も関わった家庭があっただろうか。

 残念ながら我が家は全財産、田畑・家屋敷を売り払った。以前は家屋敷も集落の中にあったが、私が子どものころは「ハニクンハター」といわれる共有地の小さな家に住んでいた。

 父は借金を取り返すため都会へ出稼ぎに行ったが家族持ちでは思うように稼げなかった。叔父はお国のため出征して、戦地で惜しくも足を負傷する。

 あとで家だけは、私夫婦が少しましな家を建てたが、元の屋敷を取り戻すことはできなかった。

 祖父は無念の思いで生涯を終えた。正に「ウラミサヤ税務事件」であった。

 発生年については叔父は明治43年生まれですから、徴兵検査の20歳で計算すると昭和5年になります。

 然し別の話では昭和2年に子どもが生まれた年に事件があったという話もある。結局真相は分かりませんでした。

 因果なもので、私の長男は大阪で税務署に勤務している。息子よ職務に忠実であり、土足で他人の心に傷をつけることがないよう望んでいる。


平成13年3月「上嘉鉄魂」第34号 掲載

  関連記事はこちら

税務事件について・・・西島常吉

 



いいもの王国
 
ラベル:税務事件
posted by hathitu at 10:13| Comment(0) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

炭焼きに挑戦・・・桐野 茂昭

                 上東 桐野 茂昭


 拝啓

 朝夕の関西地方は、まだまだ冷え込みが厳しゅうございます。

 上嘉鉄魂編集委員の皆様には、ますますご健勝の由慶賀至極に存じます。経験豊かで尊敬する恩師、盛山先生をはじめとして、ふるさとのぬくもりを毎月送っていただく上嘉鉄編集委員の皆様に心からお礼申し上げます。

 私は、関西上嘉鉄親和会の立派な大先輩の方々や才色兼備のカテツメラビに囲まれまして、芝蘭の芳香が身に染みつくように、いつの間にか襟を正しております。

 遠い異郷に暮らしまして、すっかりその地に慣れたとはいえ、歳を重ねるほどに生まれ育ったふるさとの限りない思い出がほうふつと湧いて人知れず郷愁を覚えます。

 関西上嘉鉄親和会は、ふるさとのぬくもりが身に染みついた人ばかりで
「愛情満つれば粗食もうまし」
の如く、ふるさとの方々と一緒なら落ち着いた気分となり、身も心も安らぐとは親和会の方々のなまの声であります。

 関西上嘉鉄親和会婦人部の活躍もこれまた見事なもので、昨年度は2500人収容の神戸国際大ホールで現役で活躍している女優・歌手とともにプロのアナウンサーの司会ですばらしい演技を披露してもらいました。

 私は楽屋でつい待ちきれずステージ袖まで歩み寄り、すてきなルックスのメラビたちを迎え感動いたしました。


 関西上嘉鉄親和会の人々は、それぞれ懸命にがんばっております。関西地区には奄美関係の郷友会・校区会・集落会・民謡舞踊会約178団体があります。

 関西喜界郷友会関係が21団体で、上嘉鉄出身者の世帯数が250世帯もあります。

 先だって、役員会の席上で上嘉鉄魂やしつる村物語のお話をしたところ、出席者全員から資金カンパのことが提案され、両紙の発送の切手代の足しにということで、わずかばかりのカンパが集まりました。

 どうかご笑納ください。

 終わりになりますが、はるか関西の空から編集諸氏のご多幸と、集落のますますのご発展をお祈り申し上げ、ご挨拶といたします。

  関西上嘉鉄親和会 安井 日子麿


平成13年4月 「上嘉鉄魂」第35号 掲載

 小学校の頃からもろもろの農具の作り方、サターシー、農作業等は父に教えてもらい、大まかな知恵はさずかっていたが、この年齢になるまで炭焼きは全く経験がなかった。

 大島中学時代に名瀬市の山奥の炭焼き風景を2回ほど見学する機会があったが全工程ではなかったので一貫した知識は得られなかった。

 いつかはその技術を身につけたい一念で写真や雑誌の家庭用の炭窯の記事や写真などを切り抜いたことも数回あった。

 昨年、新聞広告の木炭博士の岸本先生の資料も取り寄せてみたが、書物どおりには運ばないことが分かった。

 炭焼きへの一念はちっとも脳裏から離れず、誰か教えてもらう人はいないか。施設、設備は?と思案していた矢先「渡りに船」講師には出水地区で勤務して炭焼きの経験がある友岡芳俊氏がすぐそばにいるじゃないか。

 灯台の下は暗かったのである。

 早速、大友勝一氏がドラム缶で窯を作ってもらい3家族でやってみた。窯は小生のアタリの片隅に設置した炭材は木麻黄です。

 窯を冷やして取り出すために蓋をあけるまでの心境はいかに?胸はドキドキ、少しも落ち着かない。恰も小学生が遠足へ行く前の晩か、サンタクロースのお土産を待つがごとく、胸の高鳴りを禁じ得ない状態でした。

 1回目は、少々温度不足、2回目は温度オーバー、この2回の記録を元に、3回目はずぶの素人にしては上出来でほっとした。

 毎回丹念に記録をとり、そのデータを入念にチェックして次回に生かすようにしている。現在までに6回焼いたが毎回進歩の跡がみられ、一同顔を見合わせほほえんでいる。

 少しでもプロの腕前に近づきたいと気合いを入れているところです。将来はコンピュータで焼くことも予想されるが、現在のところ経験と勘が最大の武器のようである。

 炭材の樹種、大小、水分の含有量、温度、時間、空気の吸い込み口、煙突の長さと大小、蓋を閉めるタイミング、煙の色と量、いずれも要注意です。

 どの窯も一定の型にはまった作業ではないと考えられる。焼き方不足の炭は煙が出て、普通の薪と同じ、逆に焼きすぎたら収量減り、更に進むと灰と化してしまう。厄介なものだ。

 一連の作業はデリケートで勘をとぎすまさねばならないと思う。

 先日S氏、U氏からいただいたナガノーをあぶってみた。自作の炭であぶったナガノーは味もよい香りも良し、ハゲー マサ ウシラー、ウビラー、ヤミララーと自画自賛した。

 ウナギメシの通は炭焼きでないと箸をかけないと言われる所以でしょう。

 炭は私たちの生活で広く利用されています。

◎ 洗濯機に入れる、クラスター(水分子の固まり)を小さくして汚れが水に溶けやすくなる。

◎ 趣味を生かす 染色(渋い黒色に染める)
木炭画を描く 茶の湯に用いる

◎ おいしくご飯を炊く 他の料理にも

◎ 肥料にもなる 無農薬栽培 人畜無害

◎ 園芸に用いる 花鉢に置く 土地改良材に利用

◎ 木酢液は白アリ ダニ ゴキブリ 等の防虫撃退に効果あり、消毒液としてもよい。 (木酢液はドラム缶の釜から5〜6Lとれる)

 今頃「何のために炭を焼くのか、電気もガスもある世の中にムラドゥリ」とお考えの方もおられるが最近は全国的にも静かなブームとなっています。

 炭焼きはなんだか科学や学問では割り切れないものがあるような気がしたので、あえて挑戦してみた。

 初期の夢が達成され、成就感、満足感にひたっている昨今です。満足のいく作品ができるまで、うでを磨こうと心に決めています。


   平成13年5月「上嘉鉄魂」第36号 掲載



ドラム缶釜で焼く炭の本の紹介です。いろいろな本が出されています。私は農文協から出されている本でドラム缶窯を作ってみましたが、本の題名がどうも思い出せません。

【すぐにできるドラム缶炭焼き術】
私もドラム缶で炭焼きを経験したことがありますが、ドラム缶でもけっこういい炭ができます。
喜界島で炭に向いているのがモクマオウ(オーストラリア原産)です。
 南の木なので成長が早いです。成長が早くて乾燥すればすごく固くなるので炭の炭材に向いているというわけです。

 一昔前までは、薪に重宝されていましたが、薪のお風呂は島でもあまり見られなくなりました。

 残念です。余裕があれば五右衛門風呂を作って、ゆったりとお風呂に入りたいものです。冬など薪のお風呂は温まりますよ。

 話が逸れてしまいました。そうそす木炭を作るのにドラム缶を使って挑戦してください。

 ドラム缶は捨てるのにも金が要るということで、最近はただでもらえます。








アフィリエイトならリンクシェア
posted by hathitu at 12:22| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

税務事件について・・・西島常吉

 上嘉鉄で大正末〜昭和初期の頃(はっきりした資料がなく正確な年月日不明)税務事件と称する事件が発生しています。

 事件の真相については現在生存している古老(現85才の方の小学3〜4年の頃という)の記憶を手探りで調査しました。

 事件は東集落を中心に上嘉鉄全集落に及び、多数の集落民が逮捕され有罪の判決を受けています。

 この事件は明治34年に制定された法律第13号違反によるものです。法律第13号の必要箇所を要約抜粋します。

 法律第13号  砂糖消費税法

第1条 内地消費の目的を以て製造場より引き取られる砂糖には本法により消費税を課す。

第2条 消費税の割合次の如し
  
第1種 砂糖色オランダ標本第8号未満の砂糖は百斤に付き、金1円(奄美、沖縄の砂糖はこの1種に相当する)

第6条 砂糖消費税納付前に製造場より、砂糖を持ち出すことを禁ずる。

第8条 砂糖を製造するものは、政府に申告することまた製造を廃止するときも同じ。

第9条 砂糖を製造する者は、帳簿を備え砂糖の出入りを詳細明瞭に記載すること。

第12条 第6条及び第7条の禁令を犯した者は、消費税の5倍に相当する罰金に処す。
但し50円を下ることはない。

第14条 砂糖を製造する者は、砂糖の製造、出し入れに関し帳簿の記載又は事実を偽りまた怠るときは3円以上30円以下の罰金に処す。

第15条 税官がその職務を執行するに当たり、その執行を拒み、忌避(避ける)支障を加えたる者は3円以上30円以下の罰金に処する。

※ 条文を読む限り大変厳しい法律だ。政府の砂糖消費税による税制アップの姿勢が伺える。
 当時の砂糖相場は、明治37年大阪相場で百斤あたり5円16銭、糖商が大島で買い取り価格が2円95銭(沖縄県資料より)島民の売り値も安いが、税金の1円は高すぎる。

 百斤にたいする1円の消費税は、条文を見る限り自家用にも適用される。農家は自分が生産した砂糖を自分勝手に消費することは許されない。

 必ず消費税を納付しなければ、砂糖小屋から自宅へ持ち込めない。

 当時日本は不景気のまっただ中にあり、特に奄美は「そてつ地獄」と言われる程、農家は「疲弊困憊」していた時代。

 農家は自分が生産した砂糖を1円の税金を支払って食する不都合に憤りを感じたろう。何とかして1年間の自家用砂糖に税金を払わないで確保したい。

 その気持ち、良く理解できる。そこで自宅の押し入れや床下、高倉、藪の中等に砂糖を隠匿したと思う。

 隠匿した砂糖を摘発するのが税務署員の税官吏の仕事、その税官吏は不意打ちに私服で来島し家宅捜査をし、違反者を摘発して第12条の罰則を適用するのです。

 連帯共同意識の強い上嘉鉄住民は税官吏が家宅捜査を始めたと知るや口コミやラッパ、ブラー等で連絡を取り合い、摘発されない方法を考えた。

 当日も某氏がラッパで合図し多人数集め、公務執行妨害らしいことをしたと思われる。その事は法律第15条に違反している行為に当たります。

 当時の住民は法律第15条のような厳しい法律がある事も知らず、ラッパで合図したと思う。

 第9条にある砂糖製造農家は、砂糖に関する帳簿を備え砂糖の出入りを詳細明瞭に記載することが義務づけられている。

 その仕事をするのは当時の農民には無理があり、税務署では各集落に「砂糖移出代理人」を(方言でイシツツキヤーという)任命して砂糖の出し入れや全ての事務を請け負わせ砂糖移出証明を発行させた。

 上嘉鉄集落の「砂糖移出代理人」は当初美代清美氏→邦枝武満氏→福岡永彦氏→生田常吉氏でした。
(文責 西島)


平成12年6月 「上嘉鉄魂」第25号 掲載

  関連記事はこちら
ウラミサヤ税務事件・・・前島啓二



posted by hathitu at 04:59| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月28日

むかしの人の「貝と生活」・・・村上 国信

村上 国信
 <上嘉鉄小学校児童と貝について・・・>

1 ホラガイ「フジツガイ科」(方言名=ブラー)

 昔の合図は、殆どホラガイ(ブラー)で行っていました。特に喜界島ではホラガイを合図として使っていました。

 @ 集合の合図
 A 人がいなくなった時に探してくださいとの合図
 B 本土では今でも修験者が修行で山に登るときにホラガイが使われています。

2 タカラガイ科(スビー)

 @ ハナマルユキタカラガイ(クルスビー)

この貝は小魚や海老を捕る網の錘や投網の錘として使っていました。

A ハナビラタカラガイ(シルスビー)
  
  この貝は女児の「おはじき」として重宝がられていました。

B キイロタカラガイ(アジャースビー)

この貝も「おはじき」として使用されていましたが、量が少なく色が鮮やかなのでシ ルスビー1〜3個と交換した貴重な貝でした。
 
  昔は中国やニューギニアあたりでは貨幣として使われていました。

※ タカラガイ科の中で特に大型のハチジョウタカラガイ(ミヨー)は、安産に効き目が あるとの俗信があり、この貝は「子安貝」とも言われています。(竹取物語)

※ 中山伝信録によると15世紀の初めスビーを沖縄から中国へ5万8千個、密輸したと いう記録がある。

  それは主に「キイロタカラガイ」(アジャスビー)である。その事から考えて、近世 の初期頃まで重要視されていた。私たちの先祖もせっせと貝拾いに励んでいたと推察さ れる。

3 ヤコウガイ「リュウキュウサザエ科」(ヤクゲー)

この貝は砕いたら光沢のある薄い板状になり、漆細工の装飾に今も利用されている。

4 イモガイ科(ティンブー)

  この貝は「コマ」=(クゥルー)遊びに使われていました。イモガイの種類はたくさ んあり、どのイモガイも良く回りますが近くでよく採れる「マダライモガイ」で回し方 を競争をして遊んでいました。

5 ミミガイ(ミミガイ科)(インニュミーガヤー)

この貝は「アワビ」の一種で細長いので「ハッタイ粉」=(インニュミ)をすくって 食べるのに用いた。現在の匙の代用。

6 イタヤガイ(方言では?)

この貝は味噌汁等の汁ものを注ぐ杓子として利用されていました。

7 ゴホウラ「スイショウガイ科」(あまりとれないので方言の名前はないようです)

この貝は大昔の人たちがお酒落用の腕輪として使われていました。大昔の遺跡などか ら腕輪を填めた人体がでたという話をよく聞きます。

8 ハマグリ「マルスダレガイ科」(コウヤクカヤー)

この貝は、お医者さんが塗り薬(膏薬)を入れる容器にした。

9 スイジガイ「スイショウガイ科」(方言名?)

この貝は家の玄関に掛けて魔除けとして利用された。

10 シャコガイ「シャコガイ科」

この貝は大きく底が深いので、昔は鍋や食器に利用された。

※ 私たちの先祖は、貝の利用についていろいろな知恵があったようです。まだまだたくさんあったと思います。ご存じの方はご教示くださいまうようお願いいたします。
日本の貝(1)


日本の貝(2)






ラベル:村上国信
posted by hathitu at 17:08| Comment(0) | 食生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

写真家福永代志時氏の個展

 JR東日本などの広告写真を手がけた喜界島出身の福永代志時氏の写真展「路」が去る1月2日〜22日まで笠利町県奄美パーク田中一村記念美術館で開かれた。

 福永氏は上東の福永林氏の次男で父の勤務の関係で笠利町の小中学校を卒業。鹿児島南高等学校、東京工芸大学を卒業して写真家への道を歩み、現在独立して活躍。

 その結果、日本広告写真家協会で優秀賞を受賞するなどして日本国内で指折りの写真家であります。

 同氏の個展が来る2月11日より2月19日まで喜界町の新庁舎(コミュニティーホール)でも開かれる予定になっております。

 写真展を鑑賞するのも私たちの心を癒し、物の神髄に触れることができるのではないかと思います。

 氏の活躍は我が上嘉鉄の誇りであります。氏の益々のご活躍・ご発展を期待しております。
                     (編集)


平成18年2月「上嘉鉄魂」第93号 掲載





posted by hathitu at 13:19| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月27日

「輝く奄美の島唄」を読んで・・・盛山末吉

盛山 末吉記

 遠くシマを離れてヤマトに生活していらっしゃる皆さん。

 四季の移ろいと共に思い出すのは故郷の面影でありシマ唄や八月踊りのことだとお察しいたします。

 さらに年老いていくと踊り狂って歌うヤマトの流行歌よりはしんみりと歌うシマ唄がじんと響くのがあることだと思います。

 眠れない晩は、ラジカセのシマ唄が子守歌となっていつのまにか寝入ってしまうことさえあります。

 ある日、書架をあさっていましたら貴重な、しかも懐かしい本に出会いました。それは「輝く奄美のシマ唄」だったのです。

 この珍しい本は愚生の1級先輩の花良治出身の郡山直先生からいただいた本です。郡山先生は、奄美のシマ唄を残すことなく徹底的に採集し、シマグチの歌詞を共通語に書き直し、さらに英語に書き直すといったたいへん面倒な仕事を遂に完成させました。

 これが「輝く奄美のシマ唄」となって世に出ることになったのです。

 先生は師範学校卒業後、沖縄に渡り、沖縄の外国教員養成科を卒業。さらにアメリカに渡り、アメリカの大学を卒業した逸材である。

 日本に帰国後は桜美林大学、東洋大学に勤務し、その力量を遺憾なく発揮した学者でありました。

 師範学校在学当時、喜界島出身のものが一堂に会して喜界会なる親睦会が開催されるのが定例の年中行事でした。

 その席上各自、自己紹介をしたが先生は自己紹介を英語でしゃべりまくり、なみいる出身者一同は舌を巻くありさまであった。

 先生は語学の天才といえましょう。時は戦時中、敵国の英語は忌避された時代のこと。かような時代に並外れて堪能なのはもって生まれた才能だったろうか。

 いずれにせよ偉大な先輩、それが郡山直先生であります。

 次に久保けんお先生を紹介しましょう。

 先生は、荒木出身で昭和17年師範学校を卒業の大先輩、先輩は「奄美・沖縄の民謡」という本を書かれ、その一部のコピーをいただいております。

 先生は集めたシマ唄を五線譜にしたためた音楽家であります。いずれにせよシマ出身の両雄といえましょう。

 なお、久保先生は荒木小学校の作詞・作曲もなされており、郡山先生がシマ唄の収集家であれば、久保先生はシマ唄の編曲家といえましょう。

 シマ唄は奄美の自然の美しさを歌ったもの、人生のあわれや、愛を歌ったものなどあるがこの度は先輩お二人の唄の本からの自然の美しさを歌ったのを拾い上げて紹介しよう。

※ 世間なんて 羨めさんむんや 七倉建てて暮らす人こそ 羨ましい

それよりアンマとジュウがおられる人こそ羨ましい

 解説 俊良節の一首で両親を大事にする奄美の人の心を痛切に表現している。

※ 年は流れる川の流れ水のようだ 二度もどってみたいな十七,八のころに

 解説
 
これも俊良節の一首で人生というのは川の流れのようなもので,あの十七,八のころにかえってみようと思っても絶対できることではないですよ。だから・・・

※ アンマとジュウが気の毒考えしょんな あんまとじゅう 米とて豆とてみしょうらしゅんどう

 解説

  いきんにゃかな節の一首で,心配しないでください。父さん母さんあたしが一生懸命働いて米や豆を差し上げます。哀調のこもった胸に響く曲です。

※ 請くまんまじょうちば あがしがでぃ

 きょらさるうなぐ 居しりば露ぬたるり

 立てれば水ぬ はりゅり うけくままんじょちば

 あがしが きょらさるうなぐ

 解説

うけくままんじょ節です。うけくままんじょの美しさをたたえた唄です。節回しが難しい唄です。



平成17年11月「上嘉鉄魂」第90号 掲載






 iTunes Store(Japan)
ラベル:島唄 奄美
posted by hathitu at 17:08| Comment(0) | 島唄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月26日

活きている上嘉鉄に思いを重ねて・・・福永永廣

 「活きている・力強い上嘉鉄」がありました。

 平成18年1月3日。上嘉鉄集落の敬老会を参観して青年団・壮年団・地域の人たちが大結集している姿に感じ入った思いです。

 それはみんなが上嘉鉄集落のために何かをしているという誇りと自信を持った姿です。

 社会情勢の中では「・・・は、何をしてくれるのか」「・・・は何もしてくれない」等、他力本願の言葉を耳にすることが多い今日です。

 そんな中、自分の仕事以外に上嘉鉄集落のために「自分はこれができる」をしている皆さんに深い尊厳の念を抱きました。

 三味線保存会の子ども達の姿から上嘉鉄集落を活かし続けるために欠かせない次の世代も育てていることを伺いしれます。

『ありがたい、また島に帰れる。島で育った思い出がいつまでも絶えることはない。』と確信しました。

 ありがとうございます。上嘉鉄集落の益々の発展を祈願いたします。
     (上東出身・東京在住・福永永廣)


平成18年2月「上嘉鉄魂」第93号 掲載







ラベル:上嘉鉄 福永永廣
posted by hathitu at 06:47| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

島唄コンサート・・・盛山末吉

 第7回島唄コンサートが去る8月29日、県文化センターで開催され幸運にも聴衆の一人となった。

 南日本新聞によると満員の約1500人がつめかけ奄美シマ唄の独特の世界にひたったと報じている。

 出演者は西古見のベテラン西和美、名瀬出身の若手のホープ貴島康男、わが喜界島が産んだ牧岡奈美とベテラン新人が島唄を歌いあげ神妙な裏声のリズムに浸ることでした。

 会場ではまれまれと会ったシマンチュ同士が今日ばかりはと存分にシマ口で語り、挨拶をかわすなごやかな風景も見られました。

 まず貴島康男と牧岡奈美の朝花節からスタートした。奄美島唄の頂上に位置する坪山豊の跡を継ぐといわれる貴島康男の

 神のひきあわせか まりまりと なきゅうがでぃ

と唄が響くと、会場のシマッチュたちは感慨無量。心では涙してきき惚れている神妙な空気がセンターいっぱいに満ちあふれているようだった。

 牧岡奈美は、

 塩道長浜なんてぃ わらび泣きしゅる

 クリヤ たがゆいど 汗はだの けさまつのゆい

と塩道長浜節を歌いあげた。きゃしゃな体から声量豊かで節回し絶妙の神の声のような唄がつづいた。

 その塩道長浜も開発の時代の波には勝てず、広く埋め立てられつつあり、奄美の古典的な文化遺産が消えようとしている。

 唄が終わるたびにわれんばかりの拍手が響き渡った。ぼくは目頭があつくなり無念無想の境地で響き渡る拍手を聞くだけであった。

 唄は野茶坊節・諸鈍長浜節へと続いた。貴島康男・牧岡奈美共に自ら三味線を奏でながら歌う現代風唄者であった。

 ステージはよいすら節、嘉徳なびかな節へと続き、

 西の管鈍なんてぃ 雨ぐるみのさがてぃ

 雨ぐるみやあらぬ わ加那なだど

と雨ぐるみ節も印象的であった。

 さらに唄は俊良節、くるだんそ節、むちゃ加那節、かんつめ節と貴島康男の哀調おびた裏声に1500人の聴衆は陶酔し、もの音ひとつせずしーんと静まりかえった。

 西和美は片倉輝男の三味線にのせて今の風雲節、野茶坊節、諸鈍長浜節を唄いあげた。

 今の風雲は 村が上に立ちゅり

 わぬがとのじょさま う西原立ちゅり

(風雲は シマの上に立ち 愛する主人は 北の海原へと旅たった
 どうかご無事でありますように)

と今の風雲節がひびいた。

 結びは3名の方々がワイド節。稲すり節、続いて六調と歌いあげた。とたんに座は高潮し、観客は我先にと舞台にあがって踊りまくった。

 我がハティツが産んだ唄者牧岡奈美は声量といい節まわしといい加えてスラムンで申し分のない神のような存在。

 これからもますます円熟してシマ唄の真髄をきわめて欲しいと激励することであった。奈美は喜界島の宝であり、わがハティツの宝だ。
                (盛山記)


平成14年10月「上嘉鉄魂」第53号 掲載






posted by hathitu at 06:08| Comment(0) | 島唄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月25日

上嘉鉄のお巡りさん・・・藤山隆氏の紹介

 今回は、上嘉鉄のお巡りさん。藤山隆氏を紹介したいと思う。

 藤山氏は、鹿児島市出身の41才。大学ではラグビー部に所属し体力にはかなりの自信があったという。

 その体力を活かし人の役に立つ職業をと思い、選んだ道は警察官。

 昭和60年4月に鹿児島県警察学校入学。9ヶ月の訓練を経て、初任地は指宿警察署→鹿児島南警察署、次の赴任地は鹿児島西警察署時代に奥様の照代さんと出会い29才で結婚した。

 その後、加治木警察署を経て現在の上嘉鉄駐在所は6カ所目の赴任地ろなる。20年目のベテラン警察官である。

 藤山氏には上嘉鉄小学校に通う10才のひとり娘、万理乃ちゃんのパパである。気さくでお茶目な人柄は上嘉鉄集落やPTAにも溶け込んでいる。

 明るい話し方は老人クラブからも根強い人気がある。藤山氏が上嘉鉄にきて一番印象に残っているのは、2年前の町民体育祭の時の上嘉鉄中集落の応援練習だったそうだ。

 多くの人が集まりとても楽しかったと話している。

 上嘉鉄の子ども達は挨拶はしっかりできるが、引っ込み思案な子が多い気がするという。

 もっと子どもらしく積極的にアピールしてほしいと思うそうだ。そして上嘉鉄集落の皆さんへ、戸締まり用心、火の用心、交通安全に気をつけてくださいと締めくくった。

 藤山氏が今後上嘉鉄で快適な生活を送れることを、私は上嘉鉄集落の一員として心から寝がっている。

                 大友 勝人


平成17年1月「上嘉鉄魂」第80号 掲載


ラベル:藤山隆 上嘉鉄
posted by hathitu at 18:27| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

五・七・五の遊び・・・友岡 藤市郎

※ 俳句

 ・野菊咲く岬の果てに震洋碑

 ・亡き夫の服着て立てり案山子かな

 ・大輪を褒めて帰れり配達子

 ・廃校の掲揚台や蔦紅葉

 ・柄に響く鍬の一撃芋哀れ

※ 川柳

 ・ダレヤメにまた飲み過ぎて二日酔い

 ・いやいやとコップ差し出すど飲んべえ

 ・老人が老人のため敬老会

 ・運動会カメラが走る児が走る

 ・ごめんごめん孫の名をまた間違える

 いつも楽しく拝読しております。お礼申し上げます。

 退職後、五・七・五に入門しました。島のニュースも大事ですが、時には心安らぐ俳句や川柳はどうでしょうか。編集裏面に利用してください。
      鹿児島市喜入町在住 友岡 藤市郎


平成17年12月「上嘉鉄魂」第91号 掲載

 昨年(平成20年)に友岡 藤市郎さんたち俳句同好会から
「憧憬喜界島」が出版されました。この記事をご覧になっていない方は、関連サイト下からどうぞ。

「句集 憧憬喜界島」






ラベル:五・七・五
posted by hathitu at 15:31| Comment(0) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上嘉鉄ユミタ・・・【バシ】

 最近は余り聞かないが、上嘉鉄に「バシ」という方言の助詞があります。

 語例で示せば、

アミバシ フティナ =雨が降ったかの意味。

 広辞苑によれば

 「バシ」は「強調」を表す助詞で、平安末に使われ江戸時代には使用されなくなり、現在鹿児島県と佐賀県の方言に残っており、主として禁止・推量・疑問の文中にあって、強調を表す言葉とあります。

 口語では、

「まで・でも・ほど」

などと訳されると思う。

 方言では否定の言語にも使われているようだ。この事からも平安から鎌倉にかけて本土から移住者があったことが証明される。

              (南海記)


平成17年7月「上嘉鉄魂」第86号 掲載






ラベル:バシ
posted by hathitu at 15:15| Comment(0) | 上嘉鉄の方言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハティトゥ(上嘉鉄)の人情・・・生田 徳造

 久しぶりにお盆に帰省した。飛行機から一歩降りると強い日差し。さすがに暑い。島に帰ったんだなあと実感した。

 我が家へ向かう車窓から見える一面のキビ畑の緑やヤンガービラから見る海の青さなどが豊かで島の自然が健在していて嬉しくなった。

 翌日はお盆の墓地の清掃が朝8時から行われた。雑草を取っていると、

「いつ帰ってきたか?」「子どもは連れてきたか?」「チバタヤー」などと通りかかる人が声をかける。

 ひさしぶりに帰ってきてそういう風に声をかけてもらうとホっとする。何気ない会話だがすごく人情を感じる。島の良さはそういうふれあいを大事にするところだと思う。

 どこでも誰とでも出会ったら、まずは挨拶。

「仕事は忙しいですか?」

などと相手の様子を伺う言葉を交わす。相手を思う心があるからこそできるのだと思う。大切にしたい。

 父は3月から一人暮らしをしているが、親戚はもちろん近所の人がいろいろと声をかけてくれるので、とてもありがたい。感謝の気持ちでいっぱいです。

 島では、青年団による盆踊りや地区対抗のソフトボールや野球大会、八月ウンミ、9月ウンミ、ウヤンコー(高祖祭り)敬老会など地域ぐるみの行事が盛りだくさんある。
 
 それらの行事に集落の人みんなが喜んで参加している。それは、主催する人たちの努力があるからだが、普段からのコミュニケーション(ふれあい)も大切にしているから(お互いの気心がわかるから)ではないかと思う。

 気の合う仲間といっしょに参加する楽しさが2倍、3倍となる。

 老若男女を問わず気心の通い合う上嘉鉄にエールを送りたい。

           牧ノ原中学校 勤務 生田徳造


平成17年9月「上嘉鉄魂」 第88号 掲載





ラベル:人情 上嘉鉄
posted by hathitu at 05:58| Comment(1) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上嘉鉄ユミタ・・・【〜サー】

※ 〜サー=〜する者

 琉球方言に〜する者という独特の方言があり、用法に二通りがある。

@ 名詞に「者」をつけて〜サー=〜者
 
 例を示せば、

墾(はる)+者= ハル サー=農業人のこと

墾には開くの意味があり新しく土地を開墾・掘り返す意味から農業の意味に変化した。

磯+者=イスサー  漁師のこと

唄+者=ウタサー  祝いの席で唄を歌う人

細工+者=セークサー 大工のこと

物+者=ムンサー  食べ物を作る人 葬式や祝いの日に接待をする人

 国語にも同じ語法がある。

例えば、走者、奏者などがあります。

A 動詞の語尾に母音の「ア」を付けて〜〜する人という名詞を作る語法がある。

 例を示せば

歩く+ア=アッチャー

ハル アッチャー=農業人

イス アッチャー、海 アッチャー=漁師など

ガッコウ アッチャー=学校に通っている、学校に行っている学生・生徒のこと。

 直訳すれば「墾、歩いている」「海、歩いている」「学校 歩いている」等と幼少の頃本土で平気で使用して笑われ、恥ずかしい思いをした記憶が生々しく思い出される。

 通っている。行くを方言で「アッチョウリ ・アッキ・アッチャー」と表現している。その直訳である。

 方言を標準語に直訳することは無理があり、失敗することが多い。

縫う+ア=ノウヤー チン ノウヤー=着物を縫う人、葬式などで依頼する。

作る+ア=トゥッチャー、 ムン トゥッチャー=食事を作る人。

弾く+ア=ヒチャー サンシン ヒチャー=三線を弾く人。

 英語にも同様の語法があります。

 例えば、

 ストーカー、プレーヤー、ピッチャーなどたくさんあります。

                  (南界記)


平成17年 9月「上嘉鉄魂」第88号 掲載









ラベル:〜サー
posted by hathitu at 05:26| Comment(5) | 上嘉鉄の方言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

シマ唄の教え(続き)・・・盛山 末吉

 この度は、たくさんのシマ唄の中から教え諭すシマ唄をとりあげてみたいと思います。

※ 線香ぬ ねえだな しゅうてぃ 松葉たてぃてぃ

  山川観音丸 二度こぎ ねがおう


 さつまからの品物を積んだ山川観音丸よりもう一度きてくれませんか。私たちはすでに線香がきれてしまって線香代わりに松の葉をたててウヤフジを拝んでいます。

 今も昔もお線香をたててウヤフジおがむのは奄美の私たちの心でしょうか。

※ 今年 年がなし からからぬ 日でり

  雨ふらちぃ たぼれ う天とうさま


 今年の夏もまた、からからのひでりになってしまいました。どうかお天とうさまよ。雨を降らせてください。どうかお天とうさま。

※ 心むちなしゃ はじぬ葉の広く

  松の葉のせまさむつな


 人間は、はじの葉のように広い心を持ちなさい。松の葉のように小さい心を持ったらいけませんよ。小さな心になって毎日くよくよしたらいけませんよ。
 小さな心になってくよくよしたらいけませんよ。

※ 花なれば におい 枝むちや いらぬ

  なりふりや いらぬ 人は心

 花はかおりが第一できれいな枝振りなどいりませんよ。まして格好などいりませんよ。人間はきれいな心ですよ。「姿美人より 心美人ですよ」

※ 高さ がじゅまるや 風ににくまるり

  肝高さ持てば友達(ドゥシ)がにくむ

 屋敷回りのがじゅまるの木も高くそびえていばっていると風に当たって倒れてしまいます。人間も無理してえらぶって見識を持つと友達から嫌われますよ。

※ 皿の水だもそ 吹けば 波たちゅり

  我が悪き あてぃどぅ よそや荒れる

 小皿の水でさえ吹けば波が立ってしまいますね。自分の身の回りが荒れるのも自分が悪いせいだと常々反省することが大切ですよ。

※ 親の教訓(ゆしぐとぅ)は身の上の宝

  耳にききとめて 胸にしみり

 親の教えは我が身の宝ですよ。よく聞きとめて心にしっかりしまっておくものですよ。

※ うしかくそすれば 天と地は鏡

  影うつると思えば かくしならん

 誰も見ていないからおさえて かくそうと思ってもかくせませんよ。天と地がちゃんと見ていますよ。

※ 別れてやいきゅり ぬ かたみうちゅり

  汗はだぬ てぬぎぃ うりどぅ形見

 お別れですね。何の形見もありません。私が使っている汗はだのてぬぐいをあげます。どうかお受け取りください。

 南島ではうなり神がなしと云って兄弟を守るといわれています。特にうなりのてぬぐいはお守りです。
                 (文責 盛山末吉)


    平成16年8月「上嘉鉄魂」第75号 掲載





ラベル:シマ唄
posted by hathitu at 15:00| Comment(0) | 島唄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シマ唄の教え・・・盛山末吉

 近頃はシマ唄ブームといわれ島唄がさかんになりテレビでもよく放映されています。

 ご承知のようにシマ唄はお祝いの唄(年の祝い、お産祝い、結婚祝い、新築祝い)を初め八月踊りなど多岐にわたっております。

 本土のある方は奄美のシマ唄は恋歌ばかりで低俗だという意見もあります。

 しかし恋唄もちゃんとしたシマ唄文化だと思います。昔の人々は国語力もないのに即興で臨機応変にかえし唄をする作詞力がありました。これが唄遊びです。

 シマ唄のほとんどが八・八・八・六の三十音になっており、例外としてかんつめ節の四十八音、くるだんどの四十四音等があります。

 かつてテレビ等が普及しない戦前の生活は暑い夏の夜を金久で夕涼みをしたもので人が集えば自然唄が出てくるものでした。

 むかし奄美がやまと世の時には大島でとれた黒砂糖は税金として現物をさつまの殿様に納め残りのごくわずかで生活していました。

 わずかばかりの黒砂糖はさつまから送られてくる日用品と交換してやっと暮らしていました。

 当時の農民は割り当ての砂糖きび作りに追いまくられました。加えて台風・ひでり・病害虫の被害もあり農民は疫病等に苦しみ二重、三重の苦しみは、筆舌に尽くせないものがありました。

 このような時も人々は、祖霊を拝み心の平静をとりもどしておりました。

 さらに人々はシマ唄に託してわが心身の苦しみ胸に鬱積するものをおさえて自らを慰めました。

 これがシマ唄です。

 シマ唄の悲しいリズムや裏声もその根幹にはもがき続け、あえぎ続けたシマ人たちの時代的背景があったのです。

                 (続く)

              (文責 盛山末吉)


   平成16年8月「上嘉鉄魂」第75号 掲載


 iTunes Store(Japan)
ラベル:盛山末吉
posted by hathitu at 10:19| Comment(0) | 島唄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

諸行事参加への喜び・・・説 八十三

     上中老人会長 説 八十三

 明けましておめでとうございます。

 最近の国内経済情勢は、厳しい景気鈍化の傾向が見られ新しい試練の時を迎えています。

 国民生活の安定向上に強力な施策の推進を期待するものです。

 一方豊かな国民生活の向上及び近年の医学進歩並びに環境衛生の発達などにより人間の平均寿命も大きく向上し、少子、高齢社会を迎えています。

 延命賀寿は誰もが願うものですが、私たち高齢者には常に健康を第一に安心して生活を送れるよう努力を重ねているところです。

 そして生きる喜びと、幸せを高める運動として老人クラブ活動を積極的に取り組み、常に心身の健康を保持し、教養を高め、愛される老人として平和な家庭、明るい住みよい郷土つくりに寄与できればと願うものであります。

 主な老人クラブ活動では親しみやすい、各種スポーツに参加し、多くの仲間や地域の皆様と交流を深めることにあります。

 ここに日頃お世話になりご協力いただいている皆様へ心から感謝申し上げますとともに今後とも温かいご指導とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。


平成16年1月「上嘉鉄魂」第68号 掲載
  



大人の科学マガジンVol.22(平賀源内のエレキテル)
ラベル:上中 説八十三
posted by hathitu at 09:52| Comment(0) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

埋蔵文化が語る上嘉鉄遺跡・・・石斧

 昭和60年、上嘉鉄の小字名でマチィチャ、ウフドゥンム、ネーマ、ウックダ一帯の土地改良工事の際、大量の石器・土器などが出土して関係者を驚かせた。その一帯を現在は上嘉鉄遺跡と称しています。

 上東の前島国秋氏(故人)が当時拾った石斧(せきふ)があります。

 前島氏は、町教育委員会に寄付し、現在は町民族資料室(旧公民館2階)に保管展示してあります。

 上嘉鉄遺跡は熊本大学の白木原教授によると縄文晩期(2300〜3000)の遺跡と鑑定され、同遺跡から沢山の遺物が出土しています。

 本紙でその都度紹介いたします。

 石斧=斧の形をした石器で工作具、農耕具として旧石器時から出現しているが日本では旧石器・縄文・弥生時代に使用されています。

 本町では発掘される石斧は殆どが凝灰岩製で丁寧に研磨されて鋭利なものが多い。この石斧は南西諸島北部に多い。

 長さ20センチ以上に及ぶ芴形の石斧と推定される。(ハンタ遺跡調査報告による)


平成15年8月「上嘉鉄魂」第63号 掲載

遺跡関係のサイトです





ラベル:上嘉鉄遺跡 石斧
posted by hathitu at 09:15| Comment(2) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

奄美人のルーツU

 まとめ

 ・日本人には太古の縄文人とその後渡来した弥生人に大別され、弥生人には
北部九州・山口タイプ(山口・福岡・島根)
西北九州タイプ(長崎・佐賀・熊本)
南九州・南西諸島(琉球列島)タイプ(鹿児島・沖縄)がある。

・奄美の縄文・弥生人は「低・広顔・低身長」(丸顔か正方形に近く、身長が低い)が中世人になると「高・狭顔・高身長」(面長顔で身長が高い)になっている。

 その頃人間の移動があったのでは?と予想される。最近の考古学発掘の結果、多数の中世遺跡が台地の上に発掘されたのと一致する。

 その付近に原因があるような気がする。もっと研究する必要があり、私たち祖先のルーツが明らかになる日も間近だろう。その日が楽しみだ。

・沖縄・奄美の縄文人は本州・四国・九州・北海道の縄文人と同系列に属し、弥生人とは質が違う。

・南九州(鹿児島)・南西諸島(奄美・沖縄)タイプは西北九州タイプ(長崎県・佐賀県・熊本県)の弥生人をもっと顕著にした特徴「低・広顔」で渡来人の可能性があり、縄文人とは連続しない。

・中国、山東省及び青海省の文物考古学研究との共同研究の結果、青銅器時代〜前漢時代 の人骨は九州・山口の弥生時代人骨と酷似しており、少数ではあるが山東省の人骨の中 に南西諸島の弥生人とは似たものもあった。

・中国黄河の上流に均質な集団があり、中流、下流、(山東省)になると指摘されている。多分その付近が根源では?と予想されている。

 今後の発掘・調査・研究によって更に詳細になることを期待したい。

(南界)


  平成17年5月「上嘉鉄魂」 第84号 掲載

TSUTAYA online


ラベル:ルーツ
posted by hathitu at 07:32| Comment(2) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月22日

奄美人のルーツ

 去る3月5日(土)「古代・中世の喜界島」と題してシンポジウム(討論会)が下記の要領で島民二百数十名が参加して盛大に行われました。

 主催:喜界町郷土史研究会並びに九州国立博物館誘致推進本部

 後援:喜界町・喜界町教育委員会・琉球大学法文学部考古学研究室

 発表:討議主題

 @ 形質人類学から見た奄美諸島

 A 文献史学からみたキカイジマ

 B 中世の喜界島・南西諸島・環シナ海世界

 C 考古学から見た喜界島

 D 近年の喜界島考古学 発掘報告

 今回は@奄美人の形質・ルーツについて「医学博士・松下孝幸先生」の発表を要約して私なりの愚見を交えながら紹介いたします。

 奄美の遺跡から発掘された人骨を近代科学のメスで分析調査した報告です。

 残念ながら喜界島の人骨は調査されていないがおよその想像はつくと思う。

 発掘された人骨は全部女性のみで男性は発掘されていない。これは当時の葬制に由来するものと思われるが今後の民俗学研究の課題だ。
(丁寧に埋葬された女性は多分ノロ神では?と予想され、その他は風葬か?崖穴葬?ではないかと思う)

◎ 報告内容

・中甫洞穴(縄文人・3500年以上前)沖永良部
 ・長頭型=頭蓋骨を真上から見た形が楕円形に近い形をしている。
 ・身長が低い(約142.48cm)

・面縄第一貝塚人(弥生人2000年前後)
 ・短頭型=頭蓋骨を真上から見たらほぼ円に近い形をしている。顔が小さい。
 ・低・広顔=顔の幅が広く上下の高さが短い、従って顔の輪郭が丸か正方形に近い顔形。他地域の弥生人より顔が小さい。
 ・低身長(約145.20cm)縄文人より大きい。

・宇宿弥生人(弥生人 紀元前後)笠利町
 ・過短頭型=頭蓋骨を真上から見たら殆ど円に近い形。
 ・低・広顔=顔の幅が広く上下の高さが短い。顔のサイズが大きい。顔の輪郭が丸か正方形に近い。他地域の弥生人より大きい。
 ・身長=低い約144.81cm。

・宇宿貝塚東地区中世人(12〜15世紀)
 鎌倉〜室町時代相当
 ・中頭型=真上から見た頭蓋骨の形がほぼ楕円形に近い形。
 ・高・狭顔=顔の幅が狭く、上下が長い(面長顔)顔のサイズが大きい。
 ・身長が高い。約149.3cm。中世になると身長が弥生人より4cmほど高くなっている特徴がある。

                  (南界記)


     平成17年4月「上嘉鉄魂」第83号 掲載


学年別、教科別、学習目的別などに合わせて学習教材をご紹介。
ラベル:奄美 ルーツ
posted by hathitu at 05:50| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

■2008年12月■ ■2009年1月■2009年2月■
RSSへのリンク新着情報をお知らせします。RSSをお持ちの方はぜひご登録ください。
■関連サイト、ウモーリよ!「結い」の島・喜界島へもよろしく■
サイト内検索ご利用ください。気になる言葉を入力するとお探しの記事がヒットします。

2009年01月31日

まりじま ハティトゥ

(「十九の春」替え歌)
作詞:前島勇一郎
平成14年5月1日 完成

1 うふじょうぬ 空から 夜が明けた
 
  マサチぬ 上から 眺むれば

シマの史跡に 数えられる

グサニ石が シマ守る

2 インダぬ 真上に 陽が昇る

  保食神社に 願掛ける

シツル灯台を 当てにして

太平洋の道標

3 昔遊んだ ヤンガーは

今も清水が 湧き出る

西ぬ ムタに陽がさして

  沈む夕日が 絵のようだ

4 ハニク(金久)公園に 櫓立つ

八月踊りが和(輪)を作る

老いも若きも膝交え

人も賑わう我がハティトゥ(上嘉鉄)

5 朝夕元気な 声がする

今も変わらぬ素直な子

勉強、スポーツ島一番

ハティトゥ(上嘉鉄) 魂の子どもたち

6 スー(今日)ぬ フクラシャ(誇らさ)

イトゥまでぃむ 

  なちゃ わちゃゆらてぃ かたりぶさ

  鶴と亀の仲の良さ

  共に白髪ぬ 生えるまで 



平成14年7月「上嘉鉄魂」第50号 掲載





posted by hathitu at 13:39| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ウラミサヤ税務事件・・・前島啓二

前島 啓二
 はじめに、本紙「上嘉鉄」第25号に西島氏の「税務事件について」の掲載がありました。

 かねがね毎月号にシマの習俗やムン話等の調査研究されており大変興味深く、毎回楽しみに拝読しております。

 ところで、「税務事件について」は資料はなく十分な調査研究は不可能だった。ただ発生年は大正末〜昭和初期頃で現在85才になる古老の記憶を頼りに調査をしたとのことであります。

 しかし事件の根拠となる法的要因については詳細に調査掲載されております。

 私が祖父から聞かされた話。この事件については、祖父から折りにふれ聞かされ、私にも深く関わりがありましたので周知していることを申し述べたいと思います。

 実は私の家は祖父・父・叔父の親子三人が関わったのでした。事件当日、叔父が20歳の徴兵検査で名誉の甲種合格、出征するにあたり母方の実家にマカネーカマシ(送別宴)に昼間に招かれ飲食の最中にブラー(法螺貝)の吹鳴で親子3人と母の兄共々事件に荷担したのであった。

 (昔、上嘉鉄集落では、人の行方不明や海での遭難救助等何か大事な集合合図としてブラーを吹鳴したのである)

 事件の発端については西島氏が解説してあります。(農家は自分が生産した砂糖を1円の税金を支払って食する不都合に憤りを感じ1年間の自家用砂糖を税金を払わないで確保したい気持ちで床下、高倉等に隠匿したのだと思う。

 税務署は隠匿した砂糖を摘発するために不意打ちに来島し家宅捜査し、違反者を摘発して第12条の罰則を適用するのです。

 連帯共同意識の強い上嘉鉄住民は税務属が家捜しを始めたと知るや誰かがブラーを鳴らして大人数を集め公務執行妨害らしい事をしたと思われる)

 と西島氏は記述してあります。確かにその通りだと思う。

 さらに祖父の話では、税務属は家捜しをする時に家屋内に土足(靴足)で上がり込む横暴な仕草に住民が憤怒したのも起因の一つでもあったようだ。

 税務属は、集落民の妨害を受け帽子や靴を剥ぎ取られながらハニク伝いに命からがら山川ビラから逃げるように湾へ帰っていったとのことであった。

 後に警察での取り調べの中で税務属は、お前が帽子を取ってアダン山に投げた。お前が靴を取って投げた等とよく覚えていて証言したとのこと。

 この裁判は不幸にして鹿児島で裁判を受けることになり、全員で弁護士を依頼したのです。鹿児島往復の旅費や弁護士の費用等が莫大であった。

 裁判の結果は無罪、これは全員無罪だったのかほかのものはどうだったのかは祖父から聞いていない。

 祖父はこんな話もしていた。
「無罪で良かった。子孫のため戸籍に赤線が引かれずにすんだ」
と神妙に話したことが強く印象に残っている。

 こうして我が家は3人分の裁判費用を支払う羽目になったのです。他にも1所帯で二人も三人も関わった家庭があっただろうか。

 残念ながら我が家は全財産、田畑・家屋敷を売り払った。以前は家屋敷も集落の中にあったが、私が子どものころは「ハニクンハター」といわれる共有地の小さな家に住んでいた。

 父は借金を取り返すため都会へ出稼ぎに行ったが家族持ちでは思うように稼げなかった。叔父はお国のため出征して、戦地で惜しくも足を負傷する。

 あとで家だけは、私夫婦が少しましな家を建てたが、元の屋敷を取り戻すことはできなかった。

 祖父は無念の思いで生涯を終えた。正に「ウラミサヤ税務事件」であった。

 発生年については叔父は明治43年生まれですから、徴兵検査の20歳で計算すると昭和5年になります。

 然し別の話では昭和2年に子どもが生まれた年に事件があったという話もある。結局真相は分かりませんでした。

 因果なもので、私の長男は大阪で税務署に勤務している。息子よ職務に忠実であり、土足で他人の心に傷をつけることがないよう望んでいる。


平成13年3月「上嘉鉄魂」第34号 掲載

  関連記事はこちら

税務事件について・・・西島常吉

 



いいもの王国
 
ラベル:税務事件
posted by hathitu at 10:13| Comment(0) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月29日

炭焼きに挑戦・・・桐野 茂昭

                 上東 桐野 茂昭


 拝啓

 朝夕の関西地方は、まだまだ冷え込みが厳しゅうございます。

 上嘉鉄魂編集委員の皆様には、ますますご健勝の由慶賀至極に存じます。経験豊かで尊敬する恩師、盛山先生をはじめとして、ふるさとのぬくもりを毎月送っていただく上嘉鉄編集委員の皆様に心からお礼申し上げます。

 私は、関西上嘉鉄親和会の立派な大先輩の方々や才色兼備のカテツメラビに囲まれまして、芝蘭の芳香が身に染みつくように、いつの間にか襟を正しております。

 遠い異郷に暮らしまして、すっかりその地に慣れたとはいえ、歳を重ねるほどに生まれ育ったふるさとの限りない思い出がほうふつと湧いて人知れず郷愁を覚えます。

 関西上嘉鉄親和会は、ふるさとのぬくもりが身に染みついた人ばかりで
「愛情満つれば粗食もうまし」
の如く、ふるさとの方々と一緒なら落ち着いた気分となり、身も心も安らぐとは親和会の方々のなまの声であります。

 関西上嘉鉄親和会婦人部の活躍もこれまた見事なもので、昨年度は2500人収容の神戸国際大ホールで現役で活躍している女優・歌手とともにプロのアナウンサーの司会ですばらしい演技を披露してもらいました。

 私は楽屋でつい待ちきれずステージ袖まで歩み寄り、すてきなルックスのメラビたちを迎え感動いたしました。


 関西上嘉鉄親和会の人々は、それぞれ懸命にがんばっております。関西地区には奄美関係の郷友会・校区会・集落会・民謡舞踊会約178団体があります。

 関西喜界郷友会関係が21団体で、上嘉鉄出身者の世帯数が250世帯もあります。

 先だって、役員会の席上で上嘉鉄魂やしつる村物語のお話をしたところ、出席者全員から資金カンパのことが提案され、両紙の発送の切手代の足しにということで、わずかばかりのカンパが集まりました。

 どうかご笑納ください。

 終わりになりますが、はるか関西の空から編集諸氏のご多幸と、集落のますますのご発展をお祈り申し上げ、ご挨拶といたします。

  関西上嘉鉄親和会 安井 日子麿


平成13年4月 「上嘉鉄魂」第35号 掲載

 小学校の頃からもろもろの農具の作り方、サターシー、農作業等は父に教えてもらい、大まかな知恵はさずかっていたが、この年齢になるまで炭焼きは全く経験がなかった。

 大島中学時代に名瀬市の山奥の炭焼き風景を2回ほど見学する機会があったが全工程ではなかったので一貫した知識は得られなかった。

 いつかはその技術を身につけたい一念で写真や雑誌の家庭用の炭窯の記事や写真などを切り抜いたことも数回あった。

 昨年、新聞広告の木炭博士の岸本先生の資料も取り寄せてみたが、書物どおりには運ばないことが分かった。

 炭焼きへの一念はちっとも脳裏から離れず、誰か教えてもらう人はいないか。施設、設備は?と思案していた矢先「渡りに船」講師には出水地区で勤務して炭焼きの経験がある友岡芳俊氏がすぐそばにいるじゃないか。

 灯台の下は暗かったのである。

 早速、大友勝一氏がドラム缶で窯を作ってもらい3家族でやってみた。窯は小生のアタリの片隅に設置した炭材は木麻黄です。

 窯を冷やして取り出すために蓋をあけるまでの心境はいかに?胸はドキドキ、少しも落ち着かない。恰も小学生が遠足へ行く前の晩か、サンタクロースのお土産を待つがごとく、胸の高鳴りを禁じ得ない状態でした。

 1回目は、少々温度不足、2回目は温度オーバー、この2回の記録を元に、3回目はずぶの素人にしては上出来でほっとした。

 毎回丹念に記録をとり、そのデータを入念にチェックして次回に生かすようにしている。現在までに6回焼いたが毎回進歩の跡がみられ、一同顔を見合わせほほえんでいる。

 少しでもプロの腕前に近づきたいと気合いを入れているところです。将来はコンピュータで焼くことも予想されるが、現在のところ経験と勘が最大の武器のようである。

 炭材の樹種、大小、水分の含有量、温度、時間、空気の吸い込み口、煙突の長さと大小、蓋を閉めるタイミング、煙の色と量、いずれも要注意です。

 どの窯も一定の型にはまった作業ではないと考えられる。焼き方不足の炭は煙が出て、普通の薪と同じ、逆に焼きすぎたら収量減り、更に進むと灰と化してしまう。厄介なものだ。

 一連の作業はデリケートで勘をとぎすまさねばならないと思う。

 先日S氏、U氏からいただいたナガノーをあぶってみた。自作の炭であぶったナガノーは味もよい香りも良し、ハゲー マサ ウシラー、ウビラー、ヤミララーと自画自賛した。

 ウナギメシの通は炭焼きでないと箸をかけないと言われる所以でしょう。

 炭は私たちの生活で広く利用されています。

◎ 洗濯機に入れる、クラスター(水分子の固まり)を小さくして汚れが水に溶けやすくなる。

◎ 趣味を生かす 染色(渋い黒色に染める)
木炭画を描く 茶の湯に用いる

◎ おいしくご飯を炊く 他の料理にも

◎ 肥料にもなる 無農薬栽培 人畜無害

◎ 園芸に用いる 花鉢に置く 土地改良材に利用

◎ 木酢液は白アリ ダニ ゴキブリ 等の防虫撃退に効果あり、消毒液としてもよい。 (木酢液はドラム缶の釜から5〜6Lとれる)

 今頃「何のために炭を焼くのか、電気もガスもある世の中にムラドゥリ」とお考えの方もおられるが最近は全国的にも静かなブームとなっています。

 炭焼きはなんだか科学や学問では割り切れないものがあるような気がしたので、あえて挑戦してみた。

 初期の夢が達成され、成就感、満足感にひたっている昨今です。満足のいく作品ができるまで、うでを磨こうと心に決めています。


   平成13年5月「上嘉鉄魂」第36号 掲載



ドラム缶釜で焼く炭の本の紹介です。いろいろな本が出されています。私は農文協から出されている本でドラム缶窯を作ってみましたが、本の題名がどうも思い出せません。

【すぐにできるドラム缶炭焼き術】
私もドラム缶で炭焼きを経験したことがありますが、ドラム缶でもけっこういい炭ができます。
喜界島で炭に向いているのがモクマオウ(オーストラリア原産)です。
 南の木なので成長が早いです。成長が早くて乾燥すればすごく固くなるので炭の炭材に向いているというわけです。

 一昔前までは、薪に重宝されていましたが、薪のお風呂は島でもあまり見られなくなりました。

 残念です。余裕があれば五右衛門風呂を作って、ゆったりとお風呂に入りたいものです。冬など薪のお風呂は温まりますよ。

 話が逸れてしまいました。そうそす木炭を作るのにドラム缶を使って挑戦してください。

 ドラム缶は捨てるのにも金が要るということで、最近はただでもらえます。








アフィリエイトならリンクシェア
posted by hathitu at 12:22| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

税務事件について・・・西島常吉

 上嘉鉄で大正末〜昭和初期の頃(はっきりした資料がなく正確な年月日不明)税務事件と称する事件が発生しています。

 事件の真相については現在生存している古老(現85才の方の小学3〜4年の頃という)の記憶を手探りで調査しました。

 事件は東集落を中心に上嘉鉄全集落に及び、多数の集落民が逮捕され有罪の判決を受けています。

 この事件は明治34年に制定された法律第13号違反によるものです。法律第13号の必要箇所を要約抜粋します。

 法律第13号  砂糖消費税法

第1条 内地消費の目的を以て製造場より引き取られる砂糖には本法により消費税を課す。

第2条 消費税の割合次の如し
  
第1種 砂糖色オランダ標本第8号未満の砂糖は百斤に付き、金1円(奄美、沖縄の砂糖はこの1種に相当する)

第6条 砂糖消費税納付前に製造場より、砂糖を持ち出すことを禁ずる。

第8条 砂糖を製造するものは、政府に申告することまた製造を廃止するときも同じ。

第9条 砂糖を製造する者は、帳簿を備え砂糖の出入りを詳細明瞭に記載すること。

第12条 第6条及び第7条の禁令を犯した者は、消費税の5倍に相当する罰金に処す。
但し50円を下ることはない。

第14条 砂糖を製造する者は、砂糖の製造、出し入れに関し帳簿の記載又は事実を偽りまた怠るときは3円以上30円以下の罰金に処す。

第15条 税官がその職務を執行するに当たり、その執行を拒み、忌避(避ける)支障を加えたる者は3円以上30円以下の罰金に処する。

※ 条文を読む限り大変厳しい法律だ。政府の砂糖消費税による税制アップの姿勢が伺える。
 当時の砂糖相場は、明治37年大阪相場で百斤あたり5円16銭、糖商が大島で買い取り価格が2円95銭(沖縄県資料より)島民の売り値も安いが、税金の1円は高すぎる。

 百斤にたいする1円の消費税は、条文を見る限り自家用にも適用される。農家は自分が生産した砂糖を自分勝手に消費することは許されない。

 必ず消費税を納付しなければ、砂糖小屋から自宅へ持ち込めない。

 当時日本は不景気のまっただ中にあり、特に奄美は「そてつ地獄」と言われる程、農家は「疲弊困憊」していた時代。

 農家は自分が生産した砂糖を1円の税金を支払って食する不都合に憤りを感じたろう。何とかして1年間の自家用砂糖に税金を払わないで確保したい。

 その気持ち、良く理解できる。そこで自宅の押し入れや床下、高倉、藪の中等に砂糖を隠匿したと思う。

 隠匿した砂糖を摘発するのが税務署員の税官吏の仕事、その税官吏は不意打ちに私服で来島し家宅捜査をし、違反者を摘発して第12条の罰則を適用するのです。

 連帯共同意識の強い上嘉鉄住民は税官吏が家宅捜査を始めたと知るや口コミやラッパ、ブラー等で連絡を取り合い、摘発されない方法を考えた。

 当日も某氏がラッパで合図し多人数集め、公務執行妨害らしいことをしたと思われる。その事は法律第15条に違反している行為に当たります。

 当時の住民は法律第15条のような厳しい法律がある事も知らず、ラッパで合図したと思う。

 第9条にある砂糖製造農家は、砂糖に関する帳簿を備え砂糖の出入りを詳細明瞭に記載することが義務づけられている。

 その仕事をするのは当時の農民には無理があり、税務署では各集落に「砂糖移出代理人」を(方言でイシツツキヤーという)任命して砂糖の出し入れや全ての事務を請け負わせ砂糖移出証明を発行させた。

 上嘉鉄集落の「砂糖移出代理人」は当初美代清美氏→邦枝武満氏→福岡永彦氏→生田常吉氏でした。
(文責 西島)


平成12年6月 「上嘉鉄魂」第25号 掲載

  関連記事はこちら
ウラミサヤ税務事件・・・前島啓二



posted by hathitu at 04:59| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月28日

むかしの人の「貝と生活」・・・村上 国信

村上 国信
 <上嘉鉄小学校児童と貝について・・・>

1 ホラガイ「フジツガイ科」(方言名=ブラー)

 昔の合図は、殆どホラガイ(ブラー)で行っていました。特に喜界島ではホラガイを合図として使っていました。

 @ 集合の合図
 A 人がいなくなった時に探してくださいとの合図
 B 本土では今でも修験者が修行で山に登るときにホラガイが使われています。

2 タカラガイ科(スビー)

 @ ハナマルユキタカラガイ(クルスビー)

この貝は小魚や海老を捕る網の錘や投網の錘として使っていました。

A ハナビラタカラガイ(シルスビー)
  
  この貝は女児の「おはじき」として重宝がられていました。

B キイロタカラガイ(アジャースビー)

この貝も「おはじき」として使用されていましたが、量が少なく色が鮮やかなのでシ ルスビー1〜3個と交換した貴重な貝でした。
 
  昔は中国やニューギニアあたりでは貨幣として使われていました。

※ タカラガイ科の中で特に大型のハチジョウタカラガイ(ミヨー)は、安産に効き目が あるとの俗信があり、この貝は「子安貝」とも言われています。(竹取物語)

※ 中山伝信録によると15世紀の初めスビーを沖縄から中国へ5万8千個、密輸したと いう記録がある。

  それは主に「キイロタカラガイ」(アジャスビー)である。その事から考えて、近世 の初期頃まで重要視されていた。私たちの先祖もせっせと貝拾いに励んでいたと推察さ れる。

3 ヤコウガイ「リュウキュウサザエ科」(ヤクゲー)

この貝は砕いたら光沢のある薄い板状になり、漆細工の装飾に今も利用されている。

4 イモガイ科(ティンブー)

  この貝は「コマ」=(クゥルー)遊びに使われていました。イモガイの種類はたくさ んあり、どのイモガイも良く回りますが近くでよく採れる「マダライモガイ」で回し方 を競争をして遊んでいました。

5 ミミガイ(ミミガイ科)(インニュミーガヤー)

この貝は「アワビ」の一種で細長いので「ハッタイ粉」=(インニュミ)をすくって 食べるのに用いた。現在の匙の代用。

6 イタヤガイ(方言では?)

この貝は味噌汁等の汁ものを注ぐ杓子として利用されていました。

7 ゴホウラ「スイショウガイ科」(あまりとれないので方言の名前はないようです)

この貝は大昔の人たちがお酒落用の腕輪として使われていました。大昔の遺跡などか ら腕輪を填めた人体がでたという話をよく聞きます。

8 ハマグリ「マルスダレガイ科」(コウヤクカヤー)

この貝は、お医者さんが塗り薬(膏薬)を入れる容器にした。

9 スイジガイ「スイショウガイ科」(方言名?)

この貝は家の玄関に掛けて魔除けとして利用された。

10 シャコガイ「シャコガイ科」

この貝は大きく底が深いので、昔は鍋や食器に利用された。

※ 私たちの先祖は、貝の利用についていろいろな知恵があったようです。まだまだたくさんあったと思います。ご存じの方はご教示くださいまうようお願いいたします。
日本の貝(1)


日本の貝(2)






ラベル:村上国信
posted by hathitu at 17:08| Comment(0) | 食生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

写真家福永代志時氏の個展

 JR東日本などの広告写真を手がけた喜界島出身の福永代志時氏の写真展「路」が去る1月2日〜22日まで笠利町県奄美パーク田中一村記念美術館で開かれた。

 福永氏は上東の福永林氏の次男で父の勤務の関係で笠利町の小中学校を卒業。鹿児島南高等学校、東京工芸大学を卒業して写真家への道を歩み、現在独立して活躍。

 その結果、日本広告写真家協会で優秀賞を受賞するなどして日本国内で指折りの写真家であります。

 同氏の個展が来る2月11日より2月19日まで喜界町の新庁舎(コミュニティーホール)でも開かれる予定になっております。

 写真展を鑑賞するのも私たちの心を癒し、物の神髄に触れることができるのではないかと思います。

 氏の活躍は我が上嘉鉄の誇りであります。氏の益々のご活躍・ご発展を期待しております。
                     (編集)


平成18年2月「上嘉鉄魂」第93号 掲載





posted by hathitu at 13:19| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月27日

「輝く奄美の島唄」を読んで・・・盛山末吉

盛山 末吉記

 遠くシマを離れてヤマトに生活していらっしゃる皆さん。

 四季の移ろいと共に思い出すのは故郷の面影でありシマ唄や八月踊りのことだとお察しいたします。

 さらに年老いていくと踊り狂って歌うヤマトの流行歌よりはしんみりと歌うシマ唄がじんと響くのがあることだと思います。

 眠れない晩は、ラジカセのシマ唄が子守歌となっていつのまにか寝入ってしまうことさえあります。

 ある日、書架をあさっていましたら貴重な、しかも懐かしい本に出会いました。それは「輝く奄美のシマ唄」だったのです。

 この珍しい本は愚生の1級先輩の花良治出身の郡山直先生からいただいた本です。郡山先生は、奄美のシマ唄を残すことなく徹底的に採集し、シマグチの歌詞を共通語に書き直し、さらに英語に書き直すといったたいへん面倒な仕事を遂に完成させました。

 これが「輝く奄美のシマ唄」となって世に出ることになったのです。

 先生は師範学校卒業後、沖縄に渡り、沖縄の外国教員養成科を卒業。さらにアメリカに渡り、アメリカの大学を卒業した逸材である。

 日本に帰国後は桜美林大学、東洋大学に勤務し、その力量を遺憾なく発揮した学者でありました。

 師範学校在学当時、喜界島出身のものが一堂に会して喜界会なる親睦会が開催されるのが定例の年中行事でした。

 その席上各自、自己紹介をしたが先生は自己紹介を英語でしゃべりまくり、なみいる出身者一同は舌を巻くありさまであった。

 先生は語学の天才といえましょう。時は戦時中、敵国の英語は忌避された時代のこと。かような時代に並外れて堪能なのはもって生まれた才能だったろうか。

 いずれにせよ偉大な先輩、それが郡山直先生であります。

 次に久保けんお先生を紹介しましょう。

 先生は、荒木出身で昭和17年師範学校を卒業の大先輩、先輩は「奄美・沖縄の民謡」という本を書かれ、その一部のコピーをいただいております。

 先生は集めたシマ唄を五線譜にしたためた音楽家であります。いずれにせよシマ出身の両雄といえましょう。

 なお、久保先生は荒木小学校の作詞・作曲もなされており、郡山先生がシマ唄の収集家であれば、久保先生はシマ唄の編曲家といえましょう。

 シマ唄は奄美の自然の美しさを歌ったもの、人生のあわれや、愛を歌ったものなどあるがこの度は先輩お二人の唄の本からの自然の美しさを歌ったのを拾い上げて紹介しよう。

※ 世間なんて 羨めさんむんや 七倉建てて暮らす人こそ 羨ましい

それよりアンマとジュウがおられる人こそ羨ましい

 解説 俊良節の一首で両親を大事にする奄美の人の心を痛切に表現している。

※ 年は流れる川の流れ水のようだ 二度もどってみたいな十七,八のころに

 解説
 
これも俊良節の一首で人生というのは川の流れのようなもので,あの十七,八のころにかえってみようと思っても絶対できることではないですよ。だから・・・

※ アンマとジュウが気の毒考えしょんな あんまとじゅう 米とて豆とてみしょうらしゅんどう

 解説

  いきんにゃかな節の一首で,心配しないでください。父さん母さんあたしが一生懸命働いて米や豆を差し上げます。哀調のこもった胸に響く曲です。

※ 請くまんまじょうちば あがしがでぃ

 きょらさるうなぐ 居しりば露ぬたるり

 立てれば水ぬ はりゅり うけくままんじょちば

 あがしが きょらさるうなぐ

 解説

うけくままんじょ節です。うけくままんじょの美しさをたたえた唄です。節回しが難しい唄です。



平成17年11月「上嘉鉄魂」第90号 掲載






 iTunes Store(Japan)
ラベル:島唄 奄美
posted by hathitu at 17:08| Comment(0) | 島唄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月26日

活きている上嘉鉄に思いを重ねて・・・福永永廣

 「活きている・力強い上嘉鉄」がありました。

 平成18年1月3日。上嘉鉄集落の敬老会を参観して青年団・壮年団・地域の人たちが大結集している姿に感じ入った思いです。

 それはみんなが上嘉鉄集落のために何かをしているという誇りと自信を持った姿です。

 社会情勢の中では「・・・は、何をしてくれるのか」「・・・は何もしてくれない」等、他力本願の言葉を耳にすることが多い今日です。

 そんな中、自分の仕事以外に上嘉鉄集落のために「自分はこれができる」をしている皆さんに深い尊厳の念を抱きました。

 三味線保存会の子ども達の姿から上嘉鉄集落を活かし続けるために欠かせない次の世代も育てていることを伺いしれます。

『ありがたい、また島に帰れる。島で育った思い出がいつまでも絶えることはない。』と確信しました。

 ありがとうございます。上嘉鉄集落の益々の発展を祈願いたします。
     (上東出身・東京在住・福永永廣)


平成18年2月「上嘉鉄魂」第93号 掲載







ラベル:上嘉鉄 福永永廣
posted by hathitu at 06:47| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

島唄コンサート・・・盛山末吉

 第7回島唄コンサートが去る8月29日、県文化センターで開催され幸運にも聴衆の一人となった。

 南日本新聞によると満員の約1500人がつめかけ奄美シマ唄の独特の世界にひたったと報じている。

 出演者は西古見のベテラン西和美、名瀬出身の若手のホープ貴島康男、わが喜界島が産んだ牧岡奈美とベテラン新人が島唄を歌いあげ神妙な裏声のリズムに浸ることでした。

 会場ではまれまれと会ったシマンチュ同士が今日ばかりはと存分にシマ口で語り、挨拶をかわすなごやかな風景も見られました。

 まず貴島康男と牧岡奈美の朝花節からスタートした。奄美島唄の頂上に位置する坪山豊の跡を継ぐといわれる貴島康男の

 神のひきあわせか まりまりと なきゅうがでぃ

と唄が響くと、会場のシマッチュたちは感慨無量。心では涙してきき惚れている神妙な空気がセンターいっぱいに満ちあふれているようだった。

 牧岡奈美は、

 塩道長浜なんてぃ わらび泣きしゅる

 クリヤ たがゆいど 汗はだの けさまつのゆい

と塩道長浜節を歌いあげた。きゃしゃな体から声量豊かで節回し絶妙の神の声のような唄がつづいた。

 その塩道長浜も開発の時代の波には勝てず、広く埋め立てられつつあり、奄美の古典的な文化遺産が消えようとしている。

 唄が終わるたびにわれんばかりの拍手が響き渡った。ぼくは目頭があつくなり無念無想の境地で響き渡る拍手を聞くだけであった。

 唄は野茶坊節・諸鈍長浜節へと続いた。貴島康男・牧岡奈美共に自ら三味線を奏でながら歌う現代風唄者であった。

 ステージはよいすら節、嘉徳なびかな節へと続き、

 西の管鈍なんてぃ 雨ぐるみのさがてぃ

 雨ぐるみやあらぬ わ加那なだど

と雨ぐるみ節も印象的であった。

 さらに唄は俊良節、くるだんそ節、むちゃ加那節、かんつめ節と貴島康男の哀調おびた裏声に1500人の聴衆は陶酔し、もの音ひとつせずしーんと静まりかえった。

 西和美は片倉輝男の三味線にのせて今の風雲節、野茶坊節、諸鈍長浜節を唄いあげた。

 今の風雲は 村が上に立ちゅり

 わぬがとのじょさま う西原立ちゅり

(風雲は シマの上に立ち 愛する主人は 北の海原へと旅たった
 どうかご無事でありますように)

と今の風雲節がひびいた。

 結びは3名の方々がワイド節。稲すり節、続いて六調と歌いあげた。とたんに座は高潮し、観客は我先にと舞台にあがって踊りまくった。

 我がハティツが産んだ唄者牧岡奈美は声量といい節まわしといい加えてスラムンで申し分のない神のような存在。

 これからもますます円熟してシマ唄の真髄をきわめて欲しいと激励することであった。奈美は喜界島の宝であり、わがハティツの宝だ。
                (盛山記)


平成14年10月「上嘉鉄魂」第53号 掲載






posted by hathitu at 06:08| Comment(0) | 島唄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月25日

上嘉鉄のお巡りさん・・・藤山隆氏の紹介

 今回は、上嘉鉄のお巡りさん。藤山隆氏を紹介したいと思う。

 藤山氏は、鹿児島市出身の41才。大学ではラグビー部に所属し体力にはかなりの自信があったという。

 その体力を活かし人の役に立つ職業をと思い、選んだ道は警察官。

 昭和60年4月に鹿児島県警察学校入学。9ヶ月の訓練を経て、初任地は指宿警察署→鹿児島南警察署、次の赴任地は鹿児島西警察署時代に奥様の照代さんと出会い29才で結婚した。

 その後、加治木警察署を経て現在の上嘉鉄駐在所は6カ所目の赴任地ろなる。20年目のベテラン警察官である。

 藤山氏には上嘉鉄小学校に通う10才のひとり娘、万理乃ちゃんのパパである。気さくでお茶目な人柄は上嘉鉄集落やPTAにも溶け込んでいる。

 明るい話し方は老人クラブからも根強い人気がある。藤山氏が上嘉鉄にきて一番印象に残っているのは、2年前の町民体育祭の時の上嘉鉄中集落の応援練習だったそうだ。

 多くの人が集まりとても楽しかったと話している。

 上嘉鉄の子ども達は挨拶はしっかりできるが、引っ込み思案な子が多い気がするという。

 もっと子どもらしく積極的にアピールしてほしいと思うそうだ。そして上嘉鉄集落の皆さんへ、戸締まり用心、火の用心、交通安全に気をつけてくださいと締めくくった。

 藤山氏が今後上嘉鉄で快適な生活を送れることを、私は上嘉鉄集落の一員として心から寝がっている。

                 大友 勝人


平成17年1月「上嘉鉄魂」第80号 掲載


ラベル:藤山隆 上嘉鉄
posted by hathitu at 18:27| Comment(0) | 上嘉鉄魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

五・七・五の遊び・・・友岡 藤市郎

※ 俳句

 ・野菊咲く岬の果てに震洋碑

 ・亡き夫の服着て立てり案山子かな

 ・大輪を褒めて帰れり配達子

 ・廃校の掲揚台や蔦紅葉

 ・柄に響く鍬の一撃芋哀れ

※ 川柳

 ・ダレヤメにまた飲み過ぎて二日酔い

 ・いやいやとコップ差し出すど飲んべえ

 ・老人が老人のため敬老会

 ・運動会カメラが走る児が走る

 ・ごめんごめん孫の名をまた間違える

 いつも楽しく拝読しております。お礼申し上げます。

 退職後、五・七・五に入門しました。島のニュースも大事ですが、時には心安らぐ俳句や川柳はどうでしょうか。編集裏面に利用してください。
      鹿児島市喜入町在住 友岡 藤市郎


平成17年12月「上嘉鉄魂」第91号 掲載

 昨年(平成20年)に友岡 藤市郎さんたち俳句同好会から
「憧憬喜界島」が出版されました。この記事をご覧になっていない方は、関連サイト下からどうぞ。

「句集 憧憬喜界島」






ラベル:五・七・五
posted by hathitu at 15:31| Comment(0) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上嘉鉄ユミタ・・・【バシ】

 最近は余り聞かないが、上嘉鉄に「バシ」という方言の助詞があります。

 語例で示せば、

アミバシ フティナ =雨が降ったかの意味。

 広辞苑によれば

 「バシ」は「強調」を表す助詞で、平安末に使われ江戸時代には使用されなくなり、現在鹿児島県と佐賀県の方言に残っており、主として禁止・推量・疑問の文中にあって、強調を表す言葉とあります。

 口語では、

「まで・でも・ほど」

などと訳されると思う。

 方言では否定の言語にも使われているようだ。この事からも平安から鎌倉にかけて本土から移住者があったことが証明される。

              (南海記)


平成17年7月「上嘉鉄魂」第86号 掲載






ラベル:バシ
posted by hathitu at 15:15| Comment(0) | 上嘉鉄の方言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ハティトゥ(上嘉鉄)の人情・・・生田 徳造

 久しぶりにお盆に帰省した。飛行機から一歩降りると強い日差し。さすがに暑い。島に帰ったんだなあと実感した。

 我が家へ向かう車窓から見える一面のキビ畑の緑やヤンガービラから見る海の青さなどが豊かで島の自然が健在していて嬉しくなった。

 翌日はお盆の墓地の清掃が朝8時から行われた。雑草を取っていると、

「いつ帰ってきたか?」「子どもは連れてきたか?」「チバタヤー」などと通りかかる人が声をかける。

 ひさしぶりに帰ってきてそういう風に声をかけてもらうとホっとする。何気ない会話だがすごく人情を感じる。島の良さはそういうふれあいを大事にするところだと思う。

 どこでも誰とでも出会ったら、まずは挨拶。

「仕事は忙しいですか?」

などと相手の様子を伺う言葉を交わす。相手を思う心があるからこそできるのだと思う。大切にしたい。

 父は3月から一人暮らしをしているが、親戚はもちろん近所の人がいろいろと声をかけてくれるので、とてもありがたい。感謝の気持ちでいっぱいです。

 島では、青年団による盆踊りや地区対抗のソフトボールや野球大会、八月ウンミ、9月ウンミ、ウヤンコー(高祖祭り)敬老会など地域ぐるみの行事が盛りだくさんある。
 
 それらの行事に集落の人みんなが喜んで参加している。それは、主催する人たちの努力があるからだが、普段からのコミュニケーション(ふれあい)も大切にしているから(お互いの気心がわかるから)ではないかと思う。

 気の合う仲間といっしょに参加する楽しさが2倍、3倍となる。

 老若男女を問わず気心の通い合う上嘉鉄にエールを送りたい。

           牧ノ原中学校 勤務 生田徳造


平成17年9月「上嘉鉄魂」 第88号 掲載





ラベル:人情 上嘉鉄
posted by hathitu at 05:58| Comment(1) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

上嘉鉄ユミタ・・・【〜サー】

※ 〜サー=〜する者

 琉球方言に〜する者という独特の方言があり、用法に二通りがある。

@ 名詞に「者」をつけて〜サー=〜者
 
 例を示せば、

墾(はる)+者= ハル サー=農業人のこと

墾には開くの意味があり新しく土地を開墾・掘り返す意味から農業の意味に変化した。

磯+者=イスサー  漁師のこと

唄+者=ウタサー  祝いの席で唄を歌う人

細工+者=セークサー 大工のこと

物+者=ムンサー  食べ物を作る人 葬式や祝いの日に接待をする人

 国語にも同じ語法がある。

例えば、走者、奏者などがあります。

A 動詞の語尾に母音の「ア」を付けて〜〜する人という名詞を作る語法がある。

 例を示せば

歩く+ア=アッチャー

ハル アッチャー=農業人

イス アッチャー、海 アッチャー=漁師など

ガッコウ アッチャー=学校に通っている、学校に行っている学生・生徒のこと。

 直訳すれば「墾、歩いている」「海、歩いている」「学校 歩いている」等と幼少の頃本土で平気で使用して笑われ、恥ずかしい思いをした記憶が生々しく思い出される。

 通っている。行くを方言で「アッチョウリ ・アッキ・アッチャー」と表現している。その直訳である。

 方言を標準語に直訳することは無理があり、失敗することが多い。

縫う+ア=ノウヤー チン ノウヤー=着物を縫う人、葬式などで依頼する。

作る+ア=トゥッチャー、 ムン トゥッチャー=食事を作る人。

弾く+ア=ヒチャー サンシン ヒチャー=三線を弾く人。

 英語にも同様の語法があります。

 例えば、

 ストーカー、プレーヤー、ピッチャーなどたくさんあります。

                  (南界記)


平成17年 9月「上嘉鉄魂」第88号 掲載









ラベル:〜サー
posted by hathitu at 05:26| Comment(5) | 上嘉鉄の方言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

シマ唄の教え(続き)・・・盛山 末吉

 この度は、たくさんのシマ唄の中から教え諭すシマ唄をとりあげてみたいと思います。

※ 線香ぬ ねえだな しゅうてぃ 松葉たてぃてぃ

  山川観音丸 二度こぎ ねがおう


 さつまからの品物を積んだ山川観音丸よりもう一度きてくれませんか。私たちはすでに線香がきれてしまって線香代わりに松の葉をたててウヤフジを拝んでいます。

 今も昔もお線香をたててウヤフジおがむのは奄美の私たちの心でしょうか。

※ 今年 年がなし からからぬ 日でり

  雨ふらちぃ たぼれ う天とうさま


 今年の夏もまた、からからのひでりになってしまいました。どうかお天とうさまよ。雨を降らせてください。どうかお天とうさま。

※ 心むちなしゃ はじぬ葉の広く

  松の葉のせまさむつな


 人間は、はじの葉のように広い心を持ちなさい。松の葉のように小さい心を持ったらいけませんよ。小さな心になって毎日くよくよしたらいけませんよ。
 小さな心になってくよくよしたらいけませんよ。

※ 花なれば におい 枝むちや いらぬ

  なりふりや いらぬ 人は心

 花はかおりが第一できれいな枝振りなどいりませんよ。まして格好などいりませんよ。人間はきれいな心ですよ。「姿美人より 心美人ですよ」

※ 高さ がじゅまるや 風ににくまるり

  肝高さ持てば友達(ドゥシ)がにくむ

 屋敷回りのがじゅまるの木も高くそびえていばっていると風に当たって倒れてしまいます。人間も無理してえらぶって見識を持つと友達から嫌われますよ。

※ 皿の水だもそ 吹けば 波たちゅり

  我が悪き あてぃどぅ よそや荒れる

 小皿の水でさえ吹けば波が立ってしまいますね。自分の身の回りが荒れるのも自分が悪いせいだと常々反省することが大切ですよ。

※ 親の教訓(ゆしぐとぅ)は身の上の宝

  耳にききとめて 胸にしみり

 親の教えは我が身の宝ですよ。よく聞きとめて心にしっかりしまっておくものですよ。

※ うしかくそすれば 天と地は鏡

  影うつると思えば かくしならん

 誰も見ていないからおさえて かくそうと思ってもかくせませんよ。天と地がちゃんと見ていますよ。

※ 別れてやいきゅり ぬ かたみうちゅり

  汗はだぬ てぬぎぃ うりどぅ形見

 お別れですね。何の形見もありません。私が使っている汗はだのてぬぐいをあげます。どうかお受け取りください。

 南島ではうなり神がなしと云って兄弟を守るといわれています。特にうなりのてぬぐいはお守りです。
                 (文責 盛山末吉)


    平成16年8月「上嘉鉄魂」第75号 掲載





ラベル:シマ唄
posted by hathitu at 15:00| Comment(0) | 島唄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

シマ唄の教え・・・盛山末吉

 近頃はシマ唄ブームといわれ島唄がさかんになりテレビでもよく放映されています。

 ご承知のようにシマ唄はお祝いの唄(年の祝い、お産祝い、結婚祝い、新築祝い)を初め八月踊りなど多岐にわたっております。

 本土のある方は奄美のシマ唄は恋歌ばかりで低俗だという意見もあります。

 しかし恋唄もちゃんとしたシマ唄文化だと思います。昔の人々は国語力もないのに即興で臨機応変にかえし唄をする作詞力がありました。これが唄遊びです。

 シマ唄のほとんどが八・八・八・六の三十音になっており、例外としてかんつめ節の四十八音、くるだんどの四十四音等があります。

 かつてテレビ等が普及しない戦前の生活は暑い夏の夜を金久で夕涼みをしたもので人が集えば自然唄が出てくるものでした。

 むかし奄美がやまと世の時には大島でとれた黒砂糖は税金として現物をさつまの殿様に納め残りのごくわずかで生活していました。

 わずかばかりの黒砂糖はさつまから送られてくる日用品と交換してやっと暮らしていました。

 当時の農民は割り当ての砂糖きび作りに追いまくられました。加えて台風・ひでり・病害虫の被害もあり農民は疫病等に苦しみ二重、三重の苦しみは、筆舌に尽くせないものがありました。

 このような時も人々は、祖霊を拝み心の平静をとりもどしておりました。

 さらに人々はシマ唄に託してわが心身の苦しみ胸に鬱積するものをおさえて自らを慰めました。

 これがシマ唄です。

 シマ唄の悲しいリズムや裏声もその根幹にはもがき続け、あえぎ続けたシマ人たちの時代的背景があったのです。

                 (続く)

              (文責 盛山末吉)


   平成16年8月「上嘉鉄魂」第75号 掲載


 iTunes Store(Japan)
ラベル:盛山末吉
posted by hathitu at 10:19| Comment(0) | 島唄 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

諸行事参加への喜び・・・説 八十三

     上中老人会長 説 八十三

 明けましておめでとうございます。

 最近の国内経済情勢は、厳しい景気鈍化の傾向が見られ新しい試練の時を迎えています。

 国民生活の安定向上に強力な施策の推進を期待するものです。

 一方豊かな国民生活の向上及び近年の医学進歩並びに環境衛生の発達などにより人間の平均寿命も大きく向上し、少子、高齢社会を迎えています。

 延命賀寿は誰もが願うものですが、私たち高齢者には常に健康を第一に安心して生活を送れるよう努力を重ねているところです。

 そして生きる喜びと、幸せを高める運動として老人クラブ活動を積極的に取り組み、常に心身の健康を保持し、教養を高め、愛される老人として平和な家庭、明るい住みよい郷土つくりに寄与できればと願うものであります。

 主な老人クラブ活動では親しみやすい、各種スポーツに参加し、多くの仲間や地域の皆様と交流を深めることにあります。

 ここに日頃お世話になりご協力いただいている皆様へ心から感謝申し上げますとともに今後とも温かいご指導とご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。


平成16年1月「上嘉鉄魂」第68号 掲載
  



大人の科学マガジンVol.22(平賀源内のエレキテル)
ラベル:上中 説八十三
posted by hathitu at 09:52| Comment(0) | 投稿記事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

埋蔵文化が語る上嘉鉄遺跡・・・石斧

 昭和60年、上嘉鉄の小字名でマチィチャ、ウフドゥンム、ネーマ、ウックダ一帯の土地改良工事の際、大量の石器・土器などが出土して関係者を驚かせた。その一帯を現在は上嘉鉄遺跡と称しています。

 上東の前島国秋氏(故人)が当時拾った石斧(せきふ)があります。

 前島氏は、町教育委員会に寄付し、現在は町民族資料室(旧公民館2階)に保管展示してあります。

 上嘉鉄遺跡は熊本大学の白木原教授によると縄文晩期(2300〜3000)の遺跡と鑑定され、同遺跡から沢山の遺物が出土しています。

 本紙でその都度紹介いたします。

 石斧=斧の形をした石器で工作具、農耕具として旧石器時から出現しているが日本では旧石器・縄文・弥生時代に使用されています。

 本町では発掘される石斧は殆どが凝灰岩製で丁寧に研磨されて鋭利なものが多い。この石斧は南西諸島北部に多い。

 長さ20センチ以上に及ぶ芴形の石斧と推定される。(ハンタ遺跡調査報告による)


平成15年8月「上嘉鉄魂」第63号 掲載

遺跡関係のサイトです





ラベル:上嘉鉄遺跡 石斧
posted by hathitu at 09:15| Comment(2) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月23日

奄美人のルーツU

 まとめ

 ・日本人には太古の縄文人とその後渡来した弥生人に大別され、弥生人には
北部九州・山口タイプ(山口・福岡・島根)
西北九州タイプ(長崎・佐賀・熊本)
南九州・南西諸島(琉球列島)タイプ(鹿児島・沖縄)がある。

・奄美の縄文・弥生人は「低・広顔・低身長」(丸顔か正方形に近く、身長が低い)が中世人になると「高・狭顔・高身長」(面長顔で身長が高い)になっている。

 その頃人間の移動があったのでは?と予想される。最近の考古学発掘の結果、多数の中世遺跡が台地の上に発掘されたのと一致する。

 その付近に原因があるような気がする。もっと研究する必要があり、私たち祖先のルーツが明らかになる日も間近だろう。その日が楽しみだ。

・沖縄・奄美の縄文人は本州・四国・九州・北海道の縄文人と同系列に属し、弥生人とは質が違う。

・南九州(鹿児島)・南西諸島(奄美・沖縄)タイプは西北九州タイプ(長崎県・佐賀県・熊本県)の弥生人をもっと顕著にした特徴「低・広顔」で渡来人の可能性があり、縄文人とは連続しない。

・中国、山東省及び青海省の文物考古学研究との共同研究の結果、青銅器時代〜前漢時代 の人骨は九州・山口の弥生時代人骨と酷似しており、少数ではあるが山東省の人骨の中 に南西諸島の弥生人とは似たものもあった。

・中国黄河の上流に均質な集団があり、中流、下流、(山東省)になると指摘されている。多分その付近が根源では?と予想されている。

 今後の発掘・調査・研究によって更に詳細になることを期待したい。

(南界)


  平成17年5月「上嘉鉄魂」 第84号 掲載

TSUTAYA online


ラベル:ルーツ
posted by hathitu at 07:32| Comment(2) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月22日

奄美人のルーツ

 去る3月5日(土)「古代・中世の喜界島」と題してシンポジウム(討論会)が下記の要領で島民二百数十名が参加して盛大に行われました。

 主催:喜界町郷土史研究会並びに九州国立博物館誘致推進本部

 後援:喜界町・喜界町教育委員会・琉球大学法文学部考古学研究室

 発表:討議主題

 @ 形質人類学から見た奄美諸島

 A 文献史学からみたキカイジマ

 B 中世の喜界島・南西諸島・環シナ海世界

 C 考古学から見た喜界島

 D 近年の喜界島考古学 発掘報告

 今回は@奄美人の形質・ルーツについて「医学博士・松下孝幸先生」の発表を要約して私なりの愚見を交えながら紹介いたします。

 奄美の遺跡から発掘された人骨を近代科学のメスで分析調査した報告です。

 残念ながら喜界島の人骨は調査されていないがおよその想像はつくと思う。

 発掘された人骨は全部女性のみで男性は発掘されていない。これは当時の葬制に由来するものと思われるが今後の民俗学研究の課題だ。
(丁寧に埋葬された女性は多分ノロ神では?と予想され、その他は風葬か?崖穴葬?ではないかと思う)

◎ 報告内容

・中甫洞穴(縄文人・3500年以上前)沖永良部
 ・長頭型=頭蓋骨を真上から見た形が楕円形に近い形をしている。
 ・身長が低い(約142.48cm)

・面縄第一貝塚人(弥生人2000年前後)
 ・短頭型=頭蓋骨を真上から見たらほぼ円に近い形をしている。顔が小さい。
 ・低・広顔=顔の幅が広く上下の高さが短い、従って顔の輪郭が丸か正方形に近い顔形。他地域の弥生人より顔が小さい。
 ・低身長(約145.20cm)縄文人より大きい。

・宇宿弥生人(弥生人 紀元前後)笠利町
 ・過短頭型=頭蓋骨を真上から見たら殆ど円に近い形。
 ・低・広顔=顔の幅が広く上下の高さが短い。顔のサイズが大きい。顔の輪郭が丸か正方形に近い。他地域の弥生人より大きい。
 ・身長=低い約144.81cm。

・宇宿貝塚東地区中世人(12〜15世紀)
 鎌倉〜室町時代相当
 ・中頭型=真上から見た頭蓋骨の形がほぼ楕円形に近い形。
 ・高・狭顔=顔の幅が狭く、上下が長い(面長顔)顔のサイズが大きい。
 ・身長が高い。約149.3cm。中世になると身長が弥生人より4cmほど高くなっている特徴がある。

                  (南界記)


     平成17年4月「上嘉鉄魂」第83号 掲載


学年別、教科別、学習目的別などに合わせて学習教材をご紹介。
ラベル:奄美 ルーツ
posted by hathitu at 05:50| Comment(0) | 喜界島の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
喜界島上嘉鉄の集落誌「上嘉鉄魂」のTOPへ戻る
関連サイト・ウモーリよ!「結い」の島・喜界島へ
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。